邂逅の夜
語り:ダリウス・エルネスト
夜風は冷たかったが、胸の奥に溜まっていた熱のほうが勝っていた。
セラもミレイユも、村長宅で借りた寝具に沈むように眠ってしまった。
当然だ。アストリア港での襲撃から始まった混乱は、わずか二日の出来事とは思えないほど濃く、重かった。
だが――どうしても今夜のうちに話したい相手がいた。
俺は村の通りを抜け、木造の家々の間を歩き、一軒だけ明かりの灯る家の前へ立った。
シメオンの家だ。
扉を軽く叩くと、すぐに足音が近づいた。
扉がわずかに開き、ランプの光が漏れた。
「……ダリウス様?」
音を立てて扉が開き、シメオンの顔がふわりと緩んだ。
「まぁ……こんな時間に。お待ちしておりましたとも!」
待っていた――その言葉に胸が温かくなる。
シメオンは心底うれしそうに俺を迎え入れた。
中へ入ると、思わず目を細めた。
ほこり一つなく、物の配置も整っている。
古い家ではあるが、清潔で、温かく、何より“暮らしへの誇り”がにじんでいる空間だった。
「どうぞ、こちらへ。
ワインと、カテドラから取り寄せたチーズがございます。」
テーブルには、明るすぎない灯りと、手入れの行き届いた食器。
シメオンらしい。
「久しぶりに会ったのに、世話になりっぱなしで……本当にすまない。」
「何を仰います。再会できただけで、私は十分に報われております。」
シメオンは目を細め、まるで息子の帰還を喜ぶ父のような表情をしていた。
胸が少し痛んだ。
それは、言わねばならない話があるからだ。
「シメオン……
すべてが落ち着いたら、改めて言うつもりだったが――」
言葉が自然と重くなった。
「エルネスト家を代表するなど、おこがましいが……
父のことで迷惑をかけた。
本当に、すまなかった。」
父――
その名を出すだけで、胸の奥がざわつく。
シメオンの顔に影が差すのではないかと、一瞬だけ不安になった。
しかしシメオンは穏やかなままだった。
「ダリウス様、過去にとらわれても仕方ありません。
しかも、あの頃のあなたはまだ幼かった。
責任など感じる必要は、どこにもございません。」
救われる言葉だった。
シメオンは昔から変わらない。
誠実で、優しくて、そして強い――あの頃と同じだ。
だが――俺はその言葉に甘えるだけではいられなかった。
「もう一つ……謝らなければならないことがある。」
シメオンが静かに頷く。
俺は深く息を吸った。
「今の俺は、国教騎士と名乗れる立場ではない。
貴族でもない。
帝国から追われる身だ。」
自分の声が震えていないか、気づかれないように押し殺した。
「セラとミレイユと共に、帝国を離れ……
エルネスト家の恥として生きる覚悟をしたところだ。」
言ってみれば、惨めな話だ。
だが――それでも、偽るよりはましだった。
忠義を尽くすべき相手には、なおさら。
シメオンはしばらく何も言わなかったが、こちらを責める色は一切なかった。
「最初に出会った時の汚れたお姿で、ただ事ではないと察しておりました。
ですが今日、村人たちを守り、礼節を守り、お二人のご令嬢に気を配る姿を見て――」
そこでシメオンは、ゆっくりと微笑んだ。
「立派な大人になったと、心から思いました。
理由があっての逃避行でしょう。
私は、あなたを信じています。」
その言葉は、何より胸に響いた。
「……ありがたい。
正直に言うと、俺たちはこれからノルドハイムへ向かう。
帝国との境を越えるために、密航するしかない。」
シメオンは驚きもせず、ただ少し考えた表情になった。
「でしたら、村長殿の弟が住む漁村があります。
ここから歩いて二日の距離ですが……
海の扱いに長けた者が多い土地柄。
密航の助力も、望めるかもしれません。」
胸が熱くなる。
まさか、ここまでの道が見えるとは思っていなかった。
「助かる。
本当に……助かる。」
「ですが、ダリウス様。
二日の旅には相応の準備が必要です。
どの程度、旅の用意をお持ちで?」
痛いところを突かれた。
俺は正直に答えた。
「……着替えも、食料も、路銀もない。
何一つとして。」
シメオンは一息つき――
次の瞬間、まるで別人のように目を輝かせた。
「では、あとはこのシメオンにお任せください!」
「いや、さすがにそこまで世話になるわけには――」
シメオンは椅子をきしませる勢いで身を乗り出した。
「なりません!」
珍しく、語気が強かった。
「坊ちゃまのお役に立てるとなれば、このシメオン、喜びのあまり眠れぬほどでございます。
どうか……どうか力を尽くさせてください。」
俺は言葉を失い、そして静かに頷いた。
本当に、この男は……。
「ありがとう、シメオン。
だが今夜は――ただ酒を酌み交わそう。
それだけで十分だ。」
シメオンは一瞬ぽかんとし、次には目尻を赤くしながら、強く頷いた。
「……はい……! こちらこそ、光栄の極みでございます……!」
ワインの栓が抜かれ、静かな夜に小さな音を立てた。
二人で杯を満たし、ただ語らい、ただ笑い合った。
外では冷たい風が吹いていたが、シメオンの家の中は温かく、穏やかで――
俺は久しぶりに、“人と共に過ごす安らぎ”というものを感じていた。
そうして、ゆっくりと夜は更けていった。




