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聖環  作者: 北寄 貝


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村の危機 - 8

語り:ミレイユ・カロ

ウェアウルフが地を蹴った瞬間、鵺が前へ滑り出た。

速い――けれど、見失うほどではない。

互いの間合いが一気に詰まり、鉤爪と牙、灰色の腕と蹴りがぶつかる。


息をする間もない攻防だった。


鵺が右へ跳び、ウェアウルフが左へ回り込む。

ウェアウルフの爪が鵺の背をかすめ、鵺の前脚がウェアウルフの脇腹を叩く。

土が散り、鋭い音が空を切る。


動きは素早いが、私にも何が起きているかは分かる。


「ラド……。」

セラが苦しげに息を飲む。

鵺への痛覚共有のせいで、攻防の衝撃がそのまま胸へ響いているのだ。


ダリウスは剣を構えたまま動かない。

入り込めば鵺の邪魔になる――それが分かっているのだろう。


鵺が大きく身を翻す。

ウェアウルフの爪が目前を通り過ぎ、土が裂けた。

刃のような音。

互いに読み合いながら、動きは次第に研ぎ澄まされていく。


ウェアウルフが低く唸った。

「鬱陶しい化物だな。」

その声に苛立ちはなく、獲物を量る冷静さが宿っていた。


鵺は返すように低く吠え、前へ出る。

鉤爪と腕がぶつかる衝撃で、空気が震えた。

ウェアウルフが一歩踏み込む。

鵺が後退。

即座に角度を変えて横へ走る。

ウェアウルフはその動きをしっかりと追っている。

理性があり、集中している。

ただの狂った魔物ではない。


セラが苦しげに息を漏らす。

「大丈夫、まだ……崩れてない……。」


攻防が一瞬止まり、二匹が正面からにらみ合う。


ウェアウルフは、ふと零した。

「指輪に大枚はたいてこのザマか。

 まぁ、元は取らせてもらうがな。」


その言葉は、覚悟の印のように聞こえた。


ウェアウルフが地を踏みしめ、鵺も身を低くする。


そして――同時に動いた。


鵺が地を蹴り、ウェアウルフの左側へ斜めに飛び込んだ。

低く走る黒い影――

鵺の狙いは、ウェアウルフの利き腕から外れた安全な側だ。


ウェアウルフは咄嗟に左腕を上げ、鉤爪の軌道を弾く。

ただの一撃。牽制だ。


その隙に、ウェアウルフが右へと踏み込んだ。

大きく円を描くように動いて、鵺の横へ回り込む。

勢いと角度――首筋を狙う動きだと分かった。


(危ない……!)


ウェアウルフの右手が、鵺の首へ伸び――

しかし鵺は、後退せず逆に一歩前へ飛び込んだ。


まるで拳に頭を突っ込むような危険な動き。

だが、そのおかげでウェアウルフの爪は首を外れ、空を切る。


そして鵺の肩が、ウェアウルフの胸板へぶつかった。


鈍い衝撃音。

ウェアウルフの大きな体がわずかに揺れ、重心が浮く。

胸板へ押し返された衝撃で、ウェアウルフの足元がわずかに滑った。


(今……乱れた!)


その一瞬を鵺は見逃さなかった。


前脚が地を叩き、鵺の全身がしなる。

爪がわずかに広がり、獲物を裂く姿勢へ変わったのがわかる。


ウェアウルフは体勢を戻そうと腕を広げ――

だが遅かった。


黒い影が真っ直ぐに走った。

重心の乱れを割り込むような、一直線の踏み込み。


ウェアウルフの目が驚きに見開かれる。


鵺の右前脚が閃き――

鉤爪が、喉元の柔らかい部分を深く横にえぐった。


「――ッ!。」


空気が裂けるような音とともに、

赤い線が弧を描き、ウェアウルフの喉から噴き上がる。


腕を振り上げようとしたウェアウルフの体が止まった。

喉を押さえるが、もう手遅れだ。


膝が落ち、足が崩れ――

ウェアウルフは、ゆっくりと地へ倒れ込んでいく。


鵺は一歩退き、首を振って返り血を払った。

セラが胸を押さえ、痛みに耐えるように震えている。


ウェアウルフは地に膝をついたまま、ゆっくりと顔を上げた。

喉が開き、空気だけが震える。

声は出ない――はずなのに、かすれた摩擦音だけが聞こえた。


「……気に……いらねぇ……な……。」


その一言は、怒りでも悔しさでもなく、ただ“ラドという男の最後の息”のように聞こえた。


彼の視線がどこかを探すように揺れ、最後に静かに空へ向けられた。


「……みんな……すま……ねぇ……。」


唇がかすかに形を作り、ウェアウルフの大きな体は音もなく前へ倒れた。


倒れた拍子に、毛並みの下がゆっくりと沈むように縮みはじめた。

ざらついた灰色の毛がすべるように細り、張り詰めていた四肢の輪郭が人のものへ戻っていく。

まるで、獣の皮だけが静かに剥がれ落ちるようだった。


数呼吸ののち、そこに横たわっていたのは――

仲間を想い、誇りを抱えたまま死んだ、一人の人間の姿だった。


鵺はセラのもとへ歩み寄り、セラはその額にそっと手を置く。

手が震えていた。


ダリウスは剣を下げ、深く息を吐いた。

戦いが終わった――けれど胸には、重い痛みが残った。


私はただ、ラドという男の終わりを見届けるしかなかった。

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