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聖環  作者: 北寄 貝


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村の危機 - 2

語り:ミレイユ・カロ

私たちは急いで馬車へ乗り込んだ。

手綱を握るシメオンの隣にダリウスが座り、荷台にはセラと私、そして助けた二人の娘が肩を寄せ合う。


馬車がごとごとと走り出すと、二人の娘は耐えきれなくなったように、それぞれ私とセラにしがみついてきた。

「もう大丈夫です。もう追ってきませんから。」

そう声をかけながら背を撫でると、小さな肩が震えたまま、必死にうなずく。


前方から、シメオンのかすれた声が聞こえた。

「坊ちゃま……いえ、ダリウス様……。

 先ほどは、まことにありがとうございました。

 ずうずうしいお願いとは存じますが……村のことを、お話ししてもよろしいでしょうか。」


「話してくれ。」

ダリウスは手綱を持つシメオンの横顔を見た。

「状況がわからなければ、助けようもない。」


セラもこちらを振り返る。

「私も聞きたい。

 ……さっきの村ごと皆殺しってセリフ、気になってるしね。」


シメオンは短く息をのみ、少しのあいだ言葉を選ぶように沈黙した。

「二日前のことです。」

やがて、老いた声がぽつりと落ちた。

「村はずれに、小さな教会がございます。

 わたくしが若いころから世話になっている、慎ましやかな礼拝所で……

 そこへ、八人の暴漢が押し入りました。」


荷台の中が、すっと静まり返った。

「彼らは神官を……ためらいもなく刺し殺し、神像を打ち倒し、祭壇を荒らし、そのまま教会に居座りました。」


(教会で……聖職者を殺して……)


ルーメン教の教会は、この国では“国と同じくらい揺らがないもの”だ。

そこを平然と踏みにじる者がいる――それだけで、背中が冷たくなる。


「翌日。

 今度は村のまんなかに姿を現しましてな。」

シメオンの声が、少しかすれる。

「村長をはじめ、男衆が集まると、奴らは言いました。

 “この村は、今日から俺たちの拠点にする”と。

 “酒と食い物を持ってこい、できなきゃ痛い目に遭わせる”と。」


ダリウスが低く問う。

「それだけなら、ただのならず者だ。

 その程度で、村全体がそこまで怯えることはないはずだが。」


「はい。」

シメオンはうなずく。

「最初は、若い衆の何人かも、反発しました。

 “ふざけるな、ここは俺たちの村だ”と。

 ですが――暴漢たちの手の甲を見て、皆、顔色を変えまして。」


「手の甲?」

セラが首をかしげる。


「三つずつ、縦横に並んだ、九つの枡の刺青が刻まれていたのです。

 村の者は皆、それを見た瞬間に悟りました。

 “あれは放浪の民、グリーヴの印だ”と。」


「グリーヴ……?」

私は思わず聞き返した。


セラが短く息を吐く。

「九つ枡の刺青の連中、ってことね。

 カンタベリオンで噂くらいは聞いたことあるわ。

 差別されてきた放浪の人たち。

 仕事も土地も奪われて、あちこち流れてるって。

 帝国でも、連邦でさえも、彼らに居場所を与えようとしないみたいね。」


「はい。」

シメオンは、小さく首を垂れた。


「彼らのすべてが悪人というわけではないでしょう。

 ただ……あの刺青を持つ一団と関わって、よいことが起きた試しは、ほとんどありません。

 村人たちには、その記憶が染みついておりましてな。」


馬車の車輪が、小石をはじく音だけがしばらく続いた。


「若い衆の一人が、勇気を振り絞って前に出ました。

 “帰れ”と言い放ったのです。

 そのときです。」


シメオンの手綱を握る腕に、力がこもるのがわかった。


「ひとりのグリーヴが、笑いながら前へ出て……

 その身体が、見るまに膨れあがったのです。」


「膨れあがった?」

セラが眉をひそめる。


「角の生えた牛の頭、逞しい腕、蹄の足。

 あれは、わたくしも書物でしか見たことのない魔物――

 ミノタウロスでした。」


(人が……魔物に……?)

胃のあたりがぎゅっと縮む。


「そのミノタウロスは、若い衆の一人の頭を……

 拳で、一度、殴っただけでした。

 それだけで……頭は砕け、即死でした。」


荷台に、娘たちの息を呑む気配が伝わってくる。

抱き寄せている少女の冷たい指先が、私の服をぎゅっと掴んだ。


「村人たちは……恐怖で、声も出なくなりました。

 ミノタウロスは姿を戻し、

 “酒と食い物だけじゃ足りねぇ”と言い出したのです。」


セラの表情がわずかにこわばったのがわかった。


「“明日までに、俺たち全員に女を用意しろ。

 妻にしてやる。

 嫌だと言うなら……村ごと潰す”と。」

シメオンは、一度だけ目を閉じた。

「村長は震えながらも食い下がりましたが、

 ミノタウロスは、村長の首を片手で掴み上げて見せました。

 ……誰も、言葉を継げなくなりました。」


セラが、ゆっくりと息を吐き出す。

「で……そこで、“妻を用意する”って約束を、村長は飲まされたわけね。」


「はい。」

シメオンは苦い声で続けた。

「その後、奴らはまた教会へ引っ込みましてな。

 村に暮らす女たちを、八人――どう選ぶか。

 わたくしたちは夜通し話し合いました。」


私の喉がひりつく。

その場にいた自分を想像してしまい、背筋が寒くなった。


「結論は……村の女と子供たちをできるだけ外へ逃がす、でした。

 男たちは村に残り、一か八かで戦う。

 生き延びる者がいれば、その者が残りを守る。

 誰も生き残れなければ……それまで。」


セラが、悔しそうに唇を噛む。

「だから、あなたと彼女たちは――」


「はい。」

シメオンは小さくうなずく。


「この馬車は、最初の一陣でした。

 隣村へ走り、その先の村へ、さらにその先へと逃がすつもりで。

 ……ですが、運悪く、先ほどの二人組に見つかってしまいまして。」


セラの胸元にしがみついているもう一人の娘が、くしゃっと顔を歪めた。


「怖かったね。」

セラは、できるだけ柔らかい声でそう言い、そっと頭を撫でた。


シメオンは手綱を握り直し、ダリウスの方へ身を少しだけ傾ける。

「坊ちゃま。

 どうか……どうか、村をお救いいただけませんか。

 村人たちは、武器らしい武器も持たぬまま、ミノタウロスと、その仲間に立ち向かおうとしております。」


ダリウスは短く息を吸い、ちらりとセラを見た。

セラも彼を見返し、小さくうなずく。

「助けるよ。迷う理由なんて、ない。」

セラの声には本当に迷いがなかった。

「魔物が出るなら、指輪の力を出すことに躊躇しないわ。

 ね、ダリウス。」

「ああ。」

ダリウスもまた、静かにうなずく。

「俺も、剣を捧げよう。」


シメオンの喉が詰まったような音がして、次の瞬間、老人は肩を震わせた。

「なんと……なんとご立派に……。」

声が震え、目尻から涙がこぼれ落ちる。

「幼かった坊ちゃまが、こうして剣を掲げておられる姿を拝見できるとは……。」


「その、“坊ちゃま”はもうやめてくれ。」

ダリウスがわずかに顔をしかめる。

「申し訳ありません。つい、坊ちゃまと呼んでしまいますな。

 その名でお仕えした年月が、あまりに長うございましたので……」

「俺はもうエルネスト家の子どもではない。

 今はただのダリウスだ。」

「ですが……」

シメオンは戸惑い、なおも敬語のまま言い募ろうとする。


「いいじゃない、ダリウス。」

セラがくすりと笑う。

「坊ちゃま、だって。似合ってるよ?」

「セラ。」

ダリウスが睨むようにするが、セラはまったく意に介さない。

(……こんな時でも、こんなふうに笑えるんだ……)

私も思わずくすりと笑ってしまい、胸元にしがみついていた娘も、小さく首を上げた。


「では。」

シメオンは、少しだけ表情を緩めた。

「失礼のないよう、これからは“ダリウス様”とお呼びいたします。

 よろしいでしょうか。」

「ああ、それなら。」

ダリウスは観念したように息を吐いた。


少し空気が和らいだところで、ダリウスがふと思い出したように問いかける。

「シメオン。

 どうして、こんな辺境の村にいる。

 お前なら、都で働き口はいくらでもあったろうに。」


シメオンは、一瞬だけ視線を落とした。

「ここは、わたくしの生まれた村なのです。

 ……あの一件のあと、わたくしには、ここに戻ってくるほかありませんでした。」

「あの一件……。」

ダリウスの声が、かすかに沈む。


その言葉に、セラがこちらを見た。

私は口をつぐむ。

今、踏み込んでいい話ではないと、直感でわかったからだ。


「すまない。」

ダリウスが小さく言う。

「エルネスト家の者として……謝る資格があるかどうかもわからんが。

 お前に、辛い思いをさせた。」

「とんでもございません。」

シメオンは首を振った。

「わたくしは、エルネスト家を恨んではおりません。

 あの屋敷で過ごした年月は、わたくしの人生でいちばん幸せな時間でした。

 あの一件も、運命というほかありません。」

その声に、嘘は感じられなかった。

けれど同時に、それがどれほどの痛みを含んでいるのか、想像するのが怖くもあった。


馬車は、少しずつ速度を落とし始めた。

前方に、森の切れ間と、小さな谷間が見えてくる。


「見えてきました。」

シメオンが告げる。

「あれが……わたくしの村です。」


平地のただ中に、木造の家々が寄り添うように並んでいた。

その奥では、小さな鐘楼を備えた教会が見え、その屋根の上には、うっすらと煙が立ちのぼっていた。


胸の奥が、またきゅっと強ばる。


(間に合う……?

 本当に、間に合うの……?)


不安をごまかすように、私は袖を掴む少女の手を、そっと握り返した。

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