港への道
語り:ミレイユ・カロ
アルヴェインの館を出た翌日。
馬車は帝国行きの港町――ロウズヘイヴンへ向かって進んでいた。
春まだ浅い街道には、霧と風が混じり合い、道端の柳がそよいでいる。
セラは窓越しに流れる景色を見つめながら、何かを考えておられた。
おそらく――これから出会う“夫となる人”のことだろう。
私は水の瓶を差し出し、小声で尋ねた。
「お加減はいかがですか、セラ。」
「ええ、大丈夫。……少し、落ち着かないだけ。」
そう答えたあと、セラは馬車の外を見つめた。
護衛の列の先頭には、ダリウス・エルネストの姿がある。
まっすぐな背筋。
風に揺れる外套が、朝の光に淡く照らされていた。
昼を少し過ぎたころ、街道沿いの宿場に着いた。
小さな石造りの宿で、暖炉の火が迎えてくれた。
外はまだ山裾の空気で、春の風が少し冷たい。
ダリウスが入口で兜を外し、部下に荷を預けてからセラに声をかけた。
「セラ殿。
本日はここで一泊の予定です。
港までは、あと一日の道のりになります。」
「ありがとう、ダリウス隊長。
……少し、お話をしても?」
ダリウスは一瞬だけ驚いたように目を瞬かせたが、すぐに静かにうなずいた。
暖炉の前に並んで座る二人を、私は少し離れた場所から見守った。
薪が爆ぜる音のほかには、外の風の音だけが聞こえる。
「帝国のことを、私は何も知りません。」
セラの声は穏やかだったが、少しの不安を含んでいた。
「どんな国なのですか。」
ダリウスは少し考え、言葉を選ぶように答えた。
「帝国は広大です。
平原がどこまでも続き、太陽が昇るたびに金色に染まります。
民は勤勉で、神に仕えることを誇りとしている。」
「神に仕える……それはルーメン教のことですね。」
「はい。教皇陛下、グレゴリウス四世の御心は国の中心です。
帝国の政治も軍も、その意志を受けて動いております。」
「……教皇陛下に、直接会われたことは?」
「一度だけ。
あのお方の前に立つと、自分の心がすべて見透かされるような気がします。
静かな方ですが、言葉よりも光をまとっておられる。」
セラは小さく息を呑んだ。
神の象徴を“光”として語るその口調に、真摯な敬意があった。
その敬意が嘘でないことは、誰が見てもわかった。
「では、ルキウス・ヴァルメイン元帥は?」
「あの方は帝国の盾です。
戦で敗れぬ将として知られ、民にも深く慕われています。」
「そして、エリアス様は、そのお子なのですね。」
「はい。ですが、“お子”というより……」
ダリウスは少し微笑んだ。
暖炉の火が、その表情をやわらかく照らした。
「私にとっては、友です。
共に剣を学び、共に叱られ、共に夢を語った仲です。」
「夢を……?」
「ええ。エリアス殿はよくおっしゃいました。
『国は剣ではなく、信で守るものだ』と。」
「……信。」
「はい。神への信仰ではなく、人への信。
民を信じ、仲間を信じる――それが彼の信条でした。」
セラの瞳が、少し揺れた。
窓の外から風が吹き込み、暖炉の炎が小さく揺れる。
「そんな方が、私の……。」
「彼はあなたを心から迎えられるでしょう。」
ダリウスの声は、確信に満ちていた。
セラはその言葉を受けて微笑んだ。
けれど、その微笑みの奥には、言葉にできない影があった。
彼女自身も気づいていなかったかもしれない。
それは風のように小さく、けれど確かに胸の中で揺れていた。
その夜、風が宿の窓を揺らした。
旅の途上、まだ嵐の前であることを――
私たちは、その時知らなかった。




