森を出る - 2
語り:ミレイユ・カロ
森を抜け、草の香りが混じった乾いた風が吹きつけてくる。
まだ朝だというのに日差しが強く、歩みは自然とゆっくりになった。
誰も口を開かないまま、しばらく歩いた。
けれど胸の奥にひっかかったままの疑問が、とうとう堪えきれなくなる。
「……セラ。
あの……指輪のこと、少し伺ってもよろしいですか?」
セラは歩みを緩め、指輪を見下ろした。
光を吸うような青白い輝きが、どこか不気味に揺れている。
「いいよ。
話さないといけない気がするしね。」
「お父様から……婚礼の旅立ちの日に渡されたのでしたよね?」
「そう。
母さんのお守りだ、って言われて渡された。
でも、それまで指輪のことなんて一度も聞かされたことなかったんだよ。」
セラは淡々としていた。
その落ち着きが逆に、胸を締めつける。
「お母様は……」
「知っていると思うけど、私が小さい時に、疫病で亡くなった。
だから、母さんがこの指輪をどうしてたかなんて、何も知らない。」
痛みを「痛み」として語らないセラの声が、かえって静かに響いた。
「ただの形見だと思ってた。
聖環なんて聞いたこともない。
今もピンと来てないよ。」
そこでダリウスが前を歩きながら口を開いた。
「聖環について、私の知る限りを話そう。」
声は落ち着いているが、硬い。
「ルーメン教の伝承では――
“人が神の座を奪おうとした罪の象徴” とされる。」
「罪……?」
「古の時代、人は神がこの世の根源とした五つの元素を操る聖環を創り、神に並ぶ存在になろうとして罰を受けた、と語られている。
人間の欲を戒めとしるものとして残されたものが聖環の寓話だ。」
私は思わず息を呑んだ。
(そんな……そんなものを、セラが……?)
「そんな昔話……本当に……?」
「多くの信徒にとっては寓話だ。
だが――」
ダリウスは息を吐く。
「教会の上層部には、この古い伝承を“実在する魔法具”として信じている者が少なからずいるらしい。
……正気の沙汰とは思えんが。」
その言い方は、信仰ではなく、明らかな嫌悪だった。
私はセラを見た。
セラは小さく肩をすくめる。
「つまり私は、神になろうとした誰かの形見を握ってた、ってこと?」
「そういう解釈になるな。」
ダリウスが静かに答える。
しばらく重い沈黙が続いたあと――
セラがぽつりと言った。
「エリアスは“生命の管理者になる”って言ったよね。」
「ああ。」
ダリウスの声がわずかに揺れた。
「どう考えても……まともじゃなかった。」
「ねぇミレイユ。」
セラが私を見る。
「私ね、エリアスには何の感情もないんだ。
婚約って言ったって、二回しか会ってないし、
その一回は殺されかけた。」
そのあまりにも淡々とした事実に、私は一瞬言葉を失った。
「ダリウスは……辛いだろうけどさ。」
セラはちらりとダリウスを見た。
「私は“信じたい”とか、そんな気持ちないよ。
起きたことだけが現実で、エリアス自身が自分の口で言ったことがすべてだと思う。」
烙印を押すような、冷静な声。
ダリウスは歩みを止めて、拳を握りしめた。
「あいつは……」
低い声で絞り出す。
「弱い者を前にすれば、自分の傷のように痛む男だった。
どんな時でも民の側に立ち、迷わず手を差し伸べる――
その真っ直ぐさで、かつては俺を救ってくれたのに……
そんな男が……あんな言葉を口にするようになるとは……
本当に信じられない……。」
苦悩の色が滲んでいた。
「だが……
セラの言う通りだ。
現実を見なければならない。」
セラが小さく頷く。
「うん。
感情じゃなくて、起きたことを見よう。
それが結局、一番確かだよ。」
私は胸に何か熱いものが込み上げるのを感じながら、二人の背を見つめた。
「それにさ――」
セラが指輪を軽く持ち上げる。
「この力、別に無敵とかじゃないし。
鵺を呼ぶたびにヘトヘトになるし……。
こんなもので神になれるなんて、私は思えない。」
「……確かに。」
ダリウスが苦く笑う。
「力は大きいが、対価も大きい。
そう簡単に神になれるはずがない。」
「だから……確かめよう。」
セラは前を向いた。
「父が何を知っていて、誰がこの状況を作ったのか。
聖環が何なのか。
エリアスが何を目指しているのか。
全部、自分で見ないと。」
「ああ。」
ダリウスの返答は短く、だが強かった。
私もうなずいた。
「わ、わたしも……ご一緒します。」
その瞬間だった。
「……あれ?」
前方の道の向こうで、砂埃がふわりと舞い上がった。
遠くから、何かがこちらに向かって走ってくる。
思った以上の速度。
土埃の柱が立つ。
「馬車が……追われてる?」
セラが目を細める。
私たちは思わず足を止めた。
――どうやら、まだ息つく暇はなさそうだ。




