息子の仇 - 5
語り:ミレイユ・カロ
大ムカデが倒れ、場の空気がじわりと落ち着きを取り戻したころだった。
ダリウスはゆっくりと立ち上がり、亡骸となったキアのそばに膝をついた。
胸の前で両手を組み、静かに目を閉じる。
「光の神ルーメンよ。迷える魂に、安らぎの導きを。」
同じ祈りの言葉を三度。
それはルーメン教の一般的な弔いの作法だと、侍女見習いだった頃に教わったことがある。
ダリウスに続き、セラも、私も、そして体勢を立て直せるようになった兵士たちも、手を組んで祈りを捧げた。
その静けさの中で、
パン、パン、パン。
妙に乾いた音が響いた。
見ると、クラリスと水夫の二人が、胸の前で手を三度叩いていた。
(手を……叩く?)
セラも不思議そうに見つめていると、クラリスが小声で笑った。
「船乗りはね、船の上で神様の名前で喧嘩しないように、“どの神へ祈るか” は言葉にしないの。
代わりに、この三拍を打つのよ。」
水夫たちはひそひそと話し合っている。
「そうなのか?」
「俺は“はい・おし・まい”の三拍って教わったぞ……?」
場の空気はまだ重いのに、そのやり取りだけは少しだけ力が抜けていた。
祈りが終わると、部隊長のヨークがキアの亡骸を見下ろし、ダリウスに向き直った。
「この男の遺体は……あの入り江で見つけた遺体と一緒に埋葬しようと思う。
聞けば、そこにはキアの息子もいるらしいな。」
ダリウスは深く頭を下げた。
「恩に着る。」
ヨークはうなずくと、こちらへ視線を移した。
「さて、俺たちはこのまま帰還するつもりだが……お前たちはどうする?」
ダリウスは少し間を置いて答える。
「言えない。……今はまだ。」
「だろうな。」
ヨークは苦笑し、だがすぐ真面目な声になる。
「なら、早めにここから立ち去ることを勧める。あちこち探してる連中もいるはずだ。」
その時、水夫の二人がヨークに詰め寄った。
「俺たちは悪いことなんてしてねぇ!
捕まってる仲間を、どうか……釈放してやってくれないか!」
ヨークはふたりを見据え、腕を組む。
「名前は?」
禿げ頭のほうが答える。
「ゲイリーです!」
鳥の巣みたいな頭のほうが続く。
「ヌーノ……です。」
「で、お前らは何をしに来てた?」
二人は顔を見合わせ、途端に口ごもった。
ヨークはため息をつく。
「……まあいい。
話したくないならそれでいい。
釈放してやるから、ついて来い。」
水夫ふたりは驚いて口を開けた。
「ほ、本当に……?」
「恩に着る! ありがとう、隊長さん!」
その様子を見て、ダリウスは少し眉を寄せた。
「随分と大盤振る舞いだな。どういうつもりだ?」
ヨークは肩をすくめて笑った。
「キアって犠牲は出ちまったが……お前たちのおかげで、魔物三体と出くわして誰一人欠けずに戻れるんだ。
安いもんだろう?」
それからセラ様をちらりと見て、苦いような笑いをこぼす。
「それに……お嬢ちゃんに挑んで勝てる気がしない。」
「……挑まれたくはありませんけど。」
セラは肩をすくめ、困ったように微笑んだ。
ヨークは手を打ち鳴らした。
「で、だ。大ムカデ三匹分の手柄は、俺たちの部隊で貰っていいよな?」
部下たちがざわめく。
「隊長?……」
「それ、カッコ悪くありません……?」
「……なあ、あれ普通に恥ずかしくないか?」
「言うな。聞こえたら斬られる。」
そんな小声のやり取りが背後から聞こえてきた。
「うるさい!
入り江の殺人犯を捕まえるより、魔物三匹倒したほうがよっぽど評価されるんだよ!」
あまりに身もふたもない。
だが、どこか憎めない調子だった。
「それで……大ムカデ三匹分のおかげといっちゃ何だがな。」
ヨークは続ける。
「水夫二人の釈放と……そっちの連中を見逃すのと……あと一つだけだが、頼みを聞いてやる。」
クラリスがすぐに手を上げた。
「じゃあ……拿捕された船の情報がほしい。」
「船か。」
ヨークは顎をさすりながら言った。
「詳しくは知らんが……最近、帝国軍は海軍力の増強を急いでる。
その一環で、帝国籍じゃない船を片っ端から拿捕して、軍用船に改造する作戦があるらしい。」
「つまり……?」
クラリスが息をのむ。
「お前たちの船も、いずれ帝国の軍用船に姿を変える、ってこった。」
クラリスは目を伏せたが、その顔には諦めより“手掛かりを得た確信”が浮かんでいた。
「十分です。ありがとう。」
ヨークは最後に、ダリウスを見つめた。
「ところで……あんた、ダリウスって呼ばれてたな。
まさか……ダリウス・エルネストじゃないだろうな?」
ダリウスは静かに頷いた。
「そうだ。」
ヨークは目を見開き、そしてしみじみと言った。
「国教騎士団の……弓で幾つもの武勲を立てたあのダリウス・エルネストと、こんな森の中で会うとはな……。」
そして、自分の剣を外し、部下から弓矢をひとそろい受け取って差し出した。
「丸腰じゃ不便だろう。持ってけ。」
「本当にいいのか?」
ダリウスは驚きを隠せない。
「騎士が嬢ちゃんに守ってもらってどうする。」
ヨークは笑った。
「そっちのほうがよっぽどカッコ悪い。」
私は思わず笑いそうになってしまった。
カテドラへ向かうヨーク隊と、クラリス一行は道を分ける。
ヨーク隊が道をとり、クラリスたちが海へ向かおうと背を向けたそのとき、セラがふと歩み出た。
「あの、クラリスさん。」
呼び止められたクラリスが振り返る。
「ええ。何かしら?」
セラは胸の前でそっと両手を合わせ、深く頭を下げた。
「助けてくださって……本当に、ありがとうございました。
あなたの癒しがなければ、私は立ち上がれませんでした。」
クラリスは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに柔らかな笑みを返した。
「礼なんていいわ。できることをしただけよ。
あなたも……ずいぶん強い娘ね。」
「強くなんてありません。
でも、あなたが名乗ってくださったから……私も名乗ります。」
セラ様は胸に手を添え、静かに告げた。
「セラ・アルヴェインといいます。
あなたのお名前を……忘れません。」
クラリスは少しだけ息を呑み、それから穏やかに頭を下げた。
「クラリスよ。覚えてもらえるなら光栄ね、セラ。」
二人が互いに微笑み合ったところで、私はそっと前に出て、クラリスへ癒しの腕輪を返した。
クラリスはそれを受け取り、穏やかに微笑んだ。
「あなたのおかげで皆の命が助かったわ。
本当にありがとう。」
「私こそ……助けてもらってばかりでした。」
「またどこかで、会えるといいわね。」
彼女と水夫たちは、海のほうへ消えていった。
その背を見送りながら、私は深く息を吸った。
(……ここから、どこへ向かうんだろう)
朝の冷たい風が、森の中を静かに吹き抜けた。




