旅立ちの朝
語り:ミレイユ・カロ
朝の霧がまだ地を覆っていた。
庭の花々は露に濡れ、白い息が空に溶けていく。
今日、セラはこの屋敷を発たれる。
帝国の都――フランカへ。
ルキウス・ヴァルメイン元帥の嫡男、エリアスのもとへ嫁ぐために。
けれど、私はその朝の空気を、どうしても“祝福”とは感じられなかった。
鐘の音さえ、どこか遠く、冷たく響いていた。
石畳の中庭には、帝国からの護衛隊が整列していた。
赤と白の旗がはためき、金具の打たれた鎧が鈍く光る。
先頭に立つ若者――ダリウス・エルネスト。
彼がこのたびの護衛隊長であり、ヴァルメイン家の近衛に連なる人物だという。
背は高く、動作には無駄がなく、どこか騎士らしからぬ静けさを持っていた。
その瞳に映るものは、命令よりも“覚悟”に近かった。
少し離れた場所で、セラとレオンが並んで立っていた。
私はその後ろで控え、荷物と馬車の準備を見守っていた。
レオンが掌を開く。
そこには銀の指輪があった。
淡い青の光を内に秘めた、小さな装飾品。
「セラ。これはお前の母が若いころに持っていたお守りだ。」
「……お守り?」
「そうだ。旅の無事を祈って、母がいつも身につけていた。
帝国の空気はこの地よりも乾いている。
お守りの風が、きっとお前を守ってくれるだろう。」
セラは指輪を両手で受け取り、しばらく見つめていた。
その瞳は静かで、けれどどこか遠くを見ているようだった。
「ありがとう、お父上。
必ず……無事に務めを果たしてまいります。」
レオンは短くうなずいた。
それ以上、何も言わなかった。
彼の沈黙には、言葉よりも重いものがあった。
そこへダリウスが歩み出て、胸に拳を当てた。
「アルヴェイン家のご息女、セラ殿。
我らは帝都までの道程を守護いたします。
どうかご安心を。」
声はまっすぐで、威圧感がなかった。
セラは少し驚いたように彼を見つめ、穏やかにうなずいた。
「ありがとう。
私の身の回りのことは、この侍女のミレイユが務めます。
旅のあいだ、よろしくお願いいたします。」
「心得ました。」
そう答えたダリウスの表情に、ほんの一瞬だけ柔らかさが浮かんだ。
兄たち――エドマンドとトリスタンも見送りに現れた。
エドマンドは沈黙を守ったまま妹の肩に手を置き、
「誇りに思うよ、セラ。」
とだけ告げた。
トリスタンは少し皮肉めいた笑みを浮かべた。
「お前が帝国の風に吹かれるとはな。
……けれど、雲の上にも風はあるさ。」
「なら、私はその風の中で生きていくわ。」
そう言ってセラは微笑んだ。
その笑みが、どこか儚く見えたのは気のせいだったろうか。
やがて、荷の積み込みが終わり、馬車の扉が閉じられた。
私はセラの側に乗り込み、ダリウス率いる騎士たちが前後を固めた。
蹄の音が響き、屋敷の門がゆっくりと開く。
丘を下る風が頬を撫でたとき、私はふと、背後に立つレオンを見た。
その背中は、誰よりも孤独に見えた。
「……旦那様。」
思わず小声で呼んだが、届くことはなかった。
ただ、風がレオンの外套をわずかに揺らし、
そのまま私たちの進む方角へと吹き抜けていった。
風は、旅の始まりの音をしていた。




