風の厄難 - 4
語り:ミレイユ・カロ
スリング用の石を拾ってくるよう頼まれたはずなのに――
私は、一歩も動けなかった。
目の前の現実が、それを許さなかった。
入り江の上空では、馬を噛み殺した蝙蝠たち が黒い渦となって旋回し、今にも落ちてきそうな不穏な影を落としていた。
その真下で、セラはかろうじて立っているだけだった。
肩が上下し、呼吸も不規則で、少し触れれば倒れてしまいそうなほど、消耗しきっている。
「セラ様……もう、本当に限界です……!」
私の声に、セラはかすかに首を振った。
「……あれ……降りてくる……
今度は……わたしたちを……“狩りに来る”……」
明確な殺意を感じ取ったかのような声だった。
上空の蝙蝠の群れが、急にひとつの意志で動き出したように、軌道を揃え始める。
嫌な予感が背中を伝う。
次の瞬間――
蝙蝠の群れが一斉に急降下した。
鵺が低く唸り、前方へ飛び出す。
黒い爪が閃き、一匹の腹を裂く。
別の一匹は宙を駆ける鵺に蹴とばされ、浅瀬の上を転がった。
散らしても散らしても、次の蝙蝠がすぐに襲いかかってくる。
鵺は跳び、舞い、巻き上げた風と鋭い爪で応戦する。
だが――
ほんの一瞬の隙に、蝙蝠のひとつが鵺の脇腹に噛みついた。
「ガァッ――!」
鵺が苦鳴する。
その瞬間、セラ様が同じ場所を押さえて崩れかけた。
「セラ様!!」
「……っ……鵺が傷つくと……わたしにも来るの……
ほんと……厄介だわ……」
立っているのが奇跡のようだった。
そこへ――
浅瀬に落ちた蝙蝠の身体から、淡い紫の霧が滲み出てきた。
「な……何ですか、あれ……」
霧は生き物のように蠢き、入り江の中央へとゆっくり集まっていく。
セラがその霧を見つめ、息を乱しながら小さくつぶやいた。
「……あの……色……
濃い紫で……まるで靄みたい……
“パープルヘイズ”って……呼びたくなるわね……」
こんな状況で名前をつけられる胆力に、私は逆に震えた。
でも……たしかに、あの霧には名前がなければならないような、そんな“禍々しさ”があった。
霧が凝縮し、形を成す。
それはゆらゆらと揺れる半透明の影――
霧を無理やり人型に押し固めたような、異形の存在。
目だけが、毒のように濃い紫で光っていた。
そいつは、セラを真っすぐ見つめて――
「……指輪……」
と、一言だけつぶやいた。
背筋が凍りついた。
霧の腕が固まり、地に落ちていた剣を拾い上げる。
腕は関節を無視した角度で曲がり、次の瞬間――鵺へと襲いかかった。
鵺は浅瀬を蹴り、空中を舞う。
風を巻き上げるように跳び、爪で応戦する。
何度も衝突する黒い影。
だが、パープルヘイズは剣を振ったかと思えば体を霧化し、霧の尾のような部分を伸ばして鵺を絡め取ろうとする。
ついに――
霧の尾の一部が、瞬間だけ刃のように硬く凝縮したように見えた。
その半透明の“突き”が鵺の胴に深く食い込み、鵺が悲鳴を上げる。
同時にセラが胸の横を押さえ、崩れ落ちる。
「セラ様!!」
「……ああ……また……痛みが……
いけない……押されてる……」
その直後だった。
鵺の咆哮――
それとともに空気そのものが潰されたように、地面が沈み込んだ感覚が入り江に満ちた。
耳の奥が痛い。
胸が詰まり、頭がぐらりと揺れる。
(っ……イヤーカフがあって……これ……!?
もし着けてなかったら……即座に倒れてた……!)
その空気がひずみに耐えきれなかったのか、蝙蝠の隊列が乱れる。
パープルヘイズの輪郭がかき消えそうに揺らぐ。
そのうち霧が薄くなり、形が保てなくなっていく。
「……キ……エ……ル……」
最後は霧散し、霧は糸のようになって周囲の蝙蝠へ吸い込まれた。
蝙蝠たちはふらりと飛び立ち、隊列を整えると、夜影の群れのように飛び去っていく。
「……終わった……のでしょうか……」
私がつぶやいた瞬間、鵺が霧となって姿を消した。
セラは完全に膝が崩れ、前のめりに倒れそうになった。
「セラ様っ!!」
「……だいじょうぶ……生きてる……
でも……もう……限界……」
私は両腕で必死に抱きとめた。
(お願い……誰か……
この人を……助けて……)
入り江の風は、戦いが終わったはずの静けさとは裏腹に、まだどこか、深いところで唸り続けていた。




