風の厄難 - 3
語り:ミレイユ・カロ
男たちが、地鳴りのような足音を立ててこちらへ向かっていた。
三十人はいるだろうか。
武器を握りしめ、同じ方向――私たちだけを見ている。
「ミレイユ、屋根に上がって! 早く!」
馬車の横にいた私は、セラ様の声に背を押され、御者台へ駆け寄って両手で縁をつかみ、そのまま屋根へよじ登った。
すぐ後からセラも上がってくる。
屋根から見下ろすと、男たちの異常さはよりはっきりした。
獣のような、理性の消えた眼。
荒い呼吸。
迷いのない直進。
港で襲ってきた二人と同じ、壊れた動きだった。
「ミレイユ、イヤーカフはつけてる?」
「まだです……っ、今つけます!」
慌てて耳に装着する。
魔法具が体温になじむ感触とともに、頭の奥のざわつきがすっと軽くなった。
セラは胸に右拳を当て、短く息を吸う。
「――応えて……私の風!」
空気が震えた。
足元から巻き起こる風が、馬車を中心に渦をつくり、つむじ風となって男たちの群れを丸ごと巻き込む。
男たちがぐらりと揺れ――
普通なら倒れるはずなのに、すぐに体勢を立て直し、さらに速度を上げて突進してきた。
「効いてません……!」
私が声を上げた瞬間、つむじ風が一点に吸い込まれるように収縮した。
次の瞬間――風がはじけた。
そこから黒い影が飛び出した。
鵺。
風が弾け、黒い影――鵺が飛び出した。
虎の四肢が地を蹴り、背後に伸びる尾は一本の蛇で、独立した生き物のように首をもたげていた。
その姿は、味方であるはずなのに、胸がすくむほど恐ろしかった。
鵺は一瞬で男の懐に入り、虎の腕で胸を裂いた。
血が飛び、男は倒れた。
まだ動く体を、鵺が無慈悲に踏みつけた。
セラはすでにスリングを構えていた。
腕をしならせ、空気を裂く鋭い音が響く。
石が、正確に男の額を撃ち抜いた。
鮮血が飛ぶ。
だが男は倒れない。
よろめきながら、また走ってくる。
「ミレイユ、怖くても我慢してね。
私たちは囮。鵺が倒してくれる。」
「は、はい……!」
鵺の咆哮とスリングの音が交互に響く。
セラは息を荒らしながら、私に話し始めた。
「……わかったの。指輪の力……もう自分で制御できる。
風で相手をふらつかせるのも、鵺を呼ぶのも……全部。」
スリングを振る音にまぎれて、セラの声が揺れる。
「鵺を完全に“外へ出す”と……
私の力が向こうに流れていくの。
気を抜くと意識まで持っていかれそうになる。」
「それって……!」
「大丈夫。今はまだ保てる。
でも長くは続かない……だから、早く数を減らさないと。」
尾の蛇が男を喉を食いちぎり、また一人を虎の腕で断ち切る。
その凄まじい暴れ方に、私は言葉を失った。
けれどセラがそっと横目で私を見て言った。
「大丈夫。絶対に、あなたは私が守るから。」
その一言が、不思議と胸の震えを止めてくれた。
敵の数が目に見えて減っていく。
残り三人になったとき、セラの動きが急に止まった。
「……石が切れた。」
その声には焦りより、静かな判断があった。
ちょうどその時、一人の男が馬車に取りつき、屋根へ上がろうとしていた。
セラは一歩踏み込み、踏み切って――敵の顔を思い切り蹴り抜いた。
男は横へ吹っ飛び、馬車の縁に叩きつけられる。
その手から、手斧がカランと転がり落ちた。
セラは素早くそれを拾い上げると、起き上がろうとした男の首元へ、迷いなく刃を打ち込んだ。
血が跳ね、男は力なく倒れた。
残るは二人。
一人が叫び声を上げ、セラへ突進してきた。
「……っ!」
考えるより先に、身体が動いた。
私は屋根の端で踏み切り、身体ごと飛び込み、膝を胸元へ叩き込んだ。
鈍い衝撃が脚を走る。
男が苦鳴を上げてよろめいた。
そこへ、鵺が影のように滑り込み、その喉を鋭く断ち切った。
最後の男も、鵺が一息に仕留めた。
静寂が落ちる。
血の匂いと、風の残り香だけが漂っていた。
セラがその場に膝をつき、肩で大きく息をしている。
「セラ様っ……!」
「……大丈夫……気絶は……しない。
でも……少しだけ、休みたい……。
ミレイユ……石……拾ってきて……」
セラの声は震えていた。胸が締めつけられる。
「すぐに行きます!」
馬車の縁へ向かおうとした私の視線の先――
鵺が空で旋回し続けている蝙蝠たちに向かって、低く、うなっていた。
その声を聞いた瞬間、胸の奥がじわりと沈む。
……やっぱり、まだ終わっていない。
そう思うだけで、思わずため息がこぼれた。




