風の厄難 - 2
語り:ミレイユ・カロ
馬車の窓から外を眺めると、アストリアの街並みがゆっくりと遠ざかっていく。
箱型の馬車は揺れが少ないとはいえ、胸の奥のざわつきばかりは収まらなかった。
馬車の中に、言葉を選びあぐねる沈黙が落ちていた。
「……なんだか、すみません。私のせいでご迷惑ばかりで。」
思い切ってそう言うと、セラは目を伏せ、つぶやく。
「迷惑だなんて。むしろ私の方よ。
ここ数日、厄難が続きすぎて……本当に呪われてるんじゃないかって、思ってしまうの。」
その言い方があまりに弱々しくて、私は慌てて笑った。
「じゃあ、きっと私のほうが疫病神なんですよ。
セラ様の旅に、悪いものを呼んじゃったのかもしれません。」
自分でも、空元気なのがわかる。
でも、指輪のことが頭をよぎった。
(本当は……指輪のせいなんじゃ?)
そんな考えが、胸のどこかに残っていた。
セラは右手の薬指を見つめながら、小さく息をこぼす。
「……指輪のせいって、思いたくはないんだけどね。」
そのときだった。
――ゴォォォン……。
腹に響くような鐘の音。
思わず窓の外に視線を向ける。
海風にそびえるカテドラの鐘楼。
灰色の石で組まれ、上部には四角い見張り台と、その上に尖塔が乗った威圧的な塔。
私が「あれって……?」とつぶやこうとしたその瞬間――
鐘楼のてっぺんから、黒い影がばさりと飛び出した。
最初は鳥かと思った。
でも、飛び方がおかしい。
ひらひらと広がる薄い翼。
そして、甲高い鳴き声。
蝙蝠。しかも、群れ。
複雑な形を描きながら、空を黒く染めていく。
「……あれ、こっちに来そうですよね……?」
私の悪い予感に応えるように、群れは一斉に鳴き声を上げ――
想像どおり、こちらへ向かって真っすぐ飛んできた。
「やっぱり……!」
馬が悲鳴のように嘶き、馬車が大きく揺れる。
御者の叫び声が上がった。
「ぎゃあっ!! 噛まれた、噛まれた!!」
御者台で何かがはじける音。
御者は転げ落ち、そのまま全力で逃げ出した。
手綱を失った馬は、恐怖のままに暴走を始めた。
「きゃっ……!」
体が横へ投げ出されそうになる。
セラがすぐに私を抱き寄せ、
「大丈夫、ミレイユ。落ちないように。」
「は、はい……っ!」
黒い影が馬車の外壁にぶつかり、がん、と木がきしむ。
本来なら港の南へ進むはずが――
馬は完全に制御を失い、道を外れ、西の海岸沿いへと走り続けた。
石畳が砂地に変わり、波の音が近くなる。
海鳥の鳴き声も、風の音も、すべてが混ざって耳に響く。
どれほど走ったかわからない。
急に衝撃が走り、馬車がぐらりと傾いた。
どうやら馬が倒れたようだった。
外に出ると、そこは海へつながる大きな入り江のほとりだった。
朝日が水面にきらきらと反射している。
そして――
馬が倒れていた。
全身に噛み傷。
皮膚は裂け、血が砂に吸い込まれていく。
もう息はなかった。
「……そんな……」
声が震えた。
セラも、呆然とその姿を見つめていた。
頭上を見上げると、蝙蝠たちはひとまとまりになり、上空で渦を描くように旋回していた。
その黒い輪が落とす影が、馬の亡骸の上を何度も何度も通り過ぎる。
見ているだけで、背筋が冷たくなった。
いつ自分たちも、あの馬のように噛み殺されるのか――
そんな考えが頭から離れなかった。
周囲を見渡すと、入り江沿いに並ぶ建物のひとつ――
船大工の工房らしい大きな建物が目に入った。
工房の扉がぎぎ、と開いた。
剣や斧を握る男たちが、次々と姿を現す。
その足取りが、ひどく異様だった。
一様に息が荒く、声ではなく獣のような呼吸だけが漏れている。
そして、一直線にこちらへ向かう“迷いのなさ”。
――その様子を見た瞬間、背筋が冷たくなった。
港で襲ってきた、あの二人と同じだ。
ゆっくりでも、速くもない。
ただ走ることだけに体を使っている、そんな“壊れた動き”。
遠目でも、それが普通の人間ではないと分かった。
次の瞬間、全員が一斉に駆けだした。
埃が舞い上がり、地鳴りのように迫ってくる。
セラは大きくため息をついた。
「……もういいわ、ミレイユ。
毒を食らわば皿まで、ってね。
ここまで来たら逃げる意味もないわ。」
そして、スリングを手に取った。
その背中は、怖いほどまっすぐだった。




