婚約の朝
語り:ミレイユ・カロ
朝靄のなか、鐘の音が街を包んでいた。
丘の上に建つアルヴェイン家の邸は、いつもより静かで、空気が重かった。
婚約の日というのは、本来もっと華やかで祝福に満ちているものだと、私は思っていた。
けれど、あの朝の風は違った。
まるで、誰かの涙の匂いが混じっていた。
私は執務棟の廊下で、会談の終わりを待っていた。
重厚な扉の奥では、領主レオン・アルヴェインが帝国の使者たちと話している。
白金の紋章をつけた騎士が、低い声で告げたのが聞こえた。
「――ヴァルメイン元帥の嫡男、エリアス殿は、貴家のご息女セラ殿を妻として迎えるご意向であられる。」
紙の擦れる音。
そして、レオンの低い吐息が響いた。
「……畏れ多きお話です。
我が娘には過分のご縁。
帝国の繁栄と、神の御心のままに。」
その声は落ち着いていたが、わずかに震えていた。
緊張か、それとも別の感情か――当時の私には分からなかった。
やがて使者たちが去り、執務室の扉が閉じる。
その音を聞いたとき、私は静かに身を翻し、別棟――セラの私室のある回廊へ向かった。
そこだけは、どんな日でも風が通り抜ける不思議な場所だった。
扉の前に立つと、中から呼び声が聞こえた。
「ミレイユ、そこにいるのね。入って。」
セラだ。
私は胸の前で手を組み、静かに扉を押し開けた。
部屋のカーテンが揺れ、朝の光が柔らかく差し込んでいた。
セラは窓辺に立ち、外の庭を見下ろしている。
淡い栗色の髪が光を受けて静かに流れ、灰青の瞳が遠くの空を映していた。
彼女が“風の娘”と呼ばれる所以は、その姿にこそあった。
「……決まったのね。」
「はい。フランカ帝国国教騎士団元帥ルキウス・ヴァルメイン様のご子息、エリアス殿とのご縁だそうです。」
「そう。」
セラは小さく微笑んだ。
それは、花が散る前に一度だけ見せる静かな輝きのようだった。
「お父上は……喜んでおられた?」
「はい……ええ、とても。」
「そう……よかったわ。」
言葉の端に、かすかな翳りがあった。
私は何も言えなかった。
二年前、あの日の出来事以来、セラは風に耳を傾けることが多くなった。
まるで、誰かの声を探しているように。
ほどなくして、長兄のエドマンドと次兄のトリスタンが部屋に入ってきた。
兄妹三人が並ぶと、不思議と血のつながりが際立った。
それぞれに穏やかな瞳を持ち、どこか遠くを見ているような横顔。
エドマンドは沈黙を守ったまま、ただセラの肩に手を置いた。
「誇りに思うよ、セラ。」
それだけ言って、背を向ける。
感情を押し殺した声音が、いっそう痛かった。
トリスタンは少し屈託のある笑みを浮かべた。
「お前がヴァルメイン家の妻になるとはな。
これで父上の肩の荷も下りるだろう。」
冗談のように聞こえたが、目は笑っていなかった。
セラは静かに首を振る。
「私は……帝国に嫁ぐけれど、ここを忘れたりはしないわ。」
「忘れなくていい。ただ――帰ってくる場所は、もうない。」
トリスタンの言葉が風に消えた。
私は部屋を出ながら、セラが窓辺に手を伸ばしているのを見た。
風がカーテンを揺らし、その指先に絡みつく。
その仕草は、まるで“何か”に触れようとしているようだった。
「ミレイユ。風の音が聞こえる?」
「はい……少し。」
「あの人の声みたいに、優しいわ。」
彼女の瞳に、一瞬だけ涙が光った。
でも、それを拭う代わりに、微笑んだ。
そしてその微笑みが、二度と戻らない“少女の顔”の最後の瞬間だった。




