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聖環  作者: 北寄 貝


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18/62

ヴァルメイン家の夜

語り:ミレイユ・カロ

夜風がカーテンをやさしく揺らしていた。

ヴァルメイン家の客間は、やけに広くて静かだった。

壁にかけられた戦勝画が淡い灯の中で沈黙している。


セラは鏡の前に立ち、髪飾りを外していた。

私はその背後にまわり、ドレスの留め金を一つずつ外していく。

滑らかな絹の音がして、濃紺の布が床へと落ちた。


「本当にお疲れさまでした、セラ様。今夜はお忙しかったですね。」

「ええ、もう笑いすぎて頬が痛いわ。」

セラが小さく笑う。その声に、ようやく一日の終わりが訪れた気がした。


私はドレスを丁寧に畳みながら尋ねた。

「エリアス様とのお散歩は、いかがでしたか?」


「穏やかで、よく話す方ね。」

セラは寝衣に袖を通しながら、少し考え込むように言った。

「花壇の前で“好きな詩人は誰か”って聞かれたの。

 それで、“海を詠んだ詩人が好き”と答えたら、

 “波の形は、風の意志に似ている”ですって。」

「……難しいお話ですね。」

「そうなの。誠実で、知的で、優しい――完璧な人。

 でも、できすぎていて、少し怖いの。」

「怖い、とおっしゃいますか?」

「人間って、もう少し欠けてる方が安心できるじゃない?

 あの方は、まるで計算された理想みたいで……息が詰まりそう。」

セラが小さく肩をすくめた。


私はその横顔を見つめながら、ふと胸の奥が温かくなった。

――この人だって、結局ただの女の子なんだ。

優雅に振る舞っていても、完璧な相手の前では戸惑う。

背負うものが重すぎるだけで、根っこは私とそう変わらないのかもしれない。


私は櫛を手に取り、髪を梳きながら話を続けた。

「ルキウス・ヴァルメイン閣下は、やはり迫力がおありでしたか。」

「ええ、あの人の声だけで空気が変わるわ。

 “指を切れ”って言われたのよ、初対面で。

 もうね、その瞬間――カチンと来て、

 本気で張り倒してやろうかと思ったの。」

「セラ様……!」

「もちろん、思っただけよ。実際にやったら戦争になるもの。」

セラ様はくすっと笑い、少し誇らしげに背筋を伸ばした。

「でも、あの人のような上官なら、兵は逃げないわ。

 怒鳴られても、ついていく理由があるもの。」

「きっと、そうなのでしょうね。」


「教皇陛下は、どのようなご様子でしたか?」

セラは少し目を細め、鏡越しに私を見た。

「穏やかで、包み込むような方よ。……でも、狸ね。」

「狸でございますか?」

「絶対に指輪のことに気づいていたのに、何も言わなかったの。

 きっと、どう反応するか見ていたんだわ。」

「それは……なかなかの策士でございますね。」

「でも、嫌いじゃないの。教皇といえど、“人間”なのね、と思ったから。」

セラ様は小さく笑い、息を吐いた。

「完璧な神官の顔より、少しずるい人間の方が、よほど信用できるわ。」


「宴は、どうでしたか?」

私がそう尋ねると、セラはため息まじりに笑った。

「もう、うんざり。

 将軍や諸侯が、“田舎の娘が元帥家の嫁とは出世だ”って、

 わざとらしく笑うのよ。」

「なんと失礼な……。」

「だから、笑って返してやったの。

 “きっと私の美しさが海を越えて帝都まで届いたのでしょうね。ああ、自分の美しさが怖いわ”って。」

私は思わず吹き出した。

「セラ様……それは、とても皮肉が効いております。」

セラはいたずらっぽく肩をすくめて、少し声を低くした。

「ええ。きっと皆、こう思ったでしょうね――

 “カンタベリオンから嵐が来た”って。」

私は思わず笑いながら、胸の奥が熱くなった。


私は心の中で呟いた。

あぁ、この方はやっぱり強い。けれど、その強さの中に寂しさがある。

この強さの裏で、どれほどの孤独を抱えているのだろう。

笑って立っているけれど、本当は泣く場所もないのかもしれない。


着替えを終え、寝台に腰を下ろしたセラにブランケットを掛ける。

「セラ様、明日、私はアルビオンに戻ります。」

セラの手が止まり、こちらを見た。

「ええ、聞いていたわ。港まで見送りに行く。」

「お気遣いなく。お疲れでしょうに。」

「いいえ。あなたがいなければ、私はここまで来られなかった。

 最後くらい、きちんと見送りたいの。」


その声に、胸の奥が熱くなる。

私は小さく頭を下げた。

「……ありがとうございます。」

「こっちこそ、ありがとう。

 明日はいい風が吹くといいわね。」


セラは窓の方を向いた。

夜の灯が髪に柔らかく反射して、

その横顔が一瞬、夢のように遠く見えた。


私は櫛を片付けながら、その姿を胸に焼きつけた。

――明日の風が、どうか優しくありますように。

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