ヴァルメイン家の夜
語り:ミレイユ・カロ
夜風がカーテンをやさしく揺らしていた。
ヴァルメイン家の客間は、やけに広くて静かだった。
壁にかけられた戦勝画が淡い灯の中で沈黙している。
セラは鏡の前に立ち、髪飾りを外していた。
私はその背後にまわり、ドレスの留め金を一つずつ外していく。
滑らかな絹の音がして、濃紺の布が床へと落ちた。
「本当にお疲れさまでした、セラ様。今夜はお忙しかったですね。」
「ええ、もう笑いすぎて頬が痛いわ。」
セラが小さく笑う。その声に、ようやく一日の終わりが訪れた気がした。
私はドレスを丁寧に畳みながら尋ねた。
「エリアス様とのお散歩は、いかがでしたか?」
「穏やかで、よく話す方ね。」
セラは寝衣に袖を通しながら、少し考え込むように言った。
「花壇の前で“好きな詩人は誰か”って聞かれたの。
それで、“海を詠んだ詩人が好き”と答えたら、
“波の形は、風の意志に似ている”ですって。」
「……難しいお話ですね。」
「そうなの。誠実で、知的で、優しい――完璧な人。
でも、できすぎていて、少し怖いの。」
「怖い、とおっしゃいますか?」
「人間って、もう少し欠けてる方が安心できるじゃない?
あの方は、まるで計算された理想みたいで……息が詰まりそう。」
セラが小さく肩をすくめた。
私はその横顔を見つめながら、ふと胸の奥が温かくなった。
――この人だって、結局ただの女の子なんだ。
優雅に振る舞っていても、完璧な相手の前では戸惑う。
背負うものが重すぎるだけで、根っこは私とそう変わらないのかもしれない。
私は櫛を手に取り、髪を梳きながら話を続けた。
「ルキウス・ヴァルメイン閣下は、やはり迫力がおありでしたか。」
「ええ、あの人の声だけで空気が変わるわ。
“指を切れ”って言われたのよ、初対面で。
もうね、その瞬間――カチンと来て、
本気で張り倒してやろうかと思ったの。」
「セラ様……!」
「もちろん、思っただけよ。実際にやったら戦争になるもの。」
セラ様はくすっと笑い、少し誇らしげに背筋を伸ばした。
「でも、あの人のような上官なら、兵は逃げないわ。
怒鳴られても、ついていく理由があるもの。」
「きっと、そうなのでしょうね。」
「教皇陛下は、どのようなご様子でしたか?」
セラは少し目を細め、鏡越しに私を見た。
「穏やかで、包み込むような方よ。……でも、狸ね。」
「狸でございますか?」
「絶対に指輪のことに気づいていたのに、何も言わなかったの。
きっと、どう反応するか見ていたんだわ。」
「それは……なかなかの策士でございますね。」
「でも、嫌いじゃないの。教皇といえど、“人間”なのね、と思ったから。」
セラ様は小さく笑い、息を吐いた。
「完璧な神官の顔より、少しずるい人間の方が、よほど信用できるわ。」
「宴は、どうでしたか?」
私がそう尋ねると、セラはため息まじりに笑った。
「もう、うんざり。
将軍や諸侯が、“田舎の娘が元帥家の嫁とは出世だ”って、
わざとらしく笑うのよ。」
「なんと失礼な……。」
「だから、笑って返してやったの。
“きっと私の美しさが海を越えて帝都まで届いたのでしょうね。ああ、自分の美しさが怖いわ”って。」
私は思わず吹き出した。
「セラ様……それは、とても皮肉が効いております。」
セラはいたずらっぽく肩をすくめて、少し声を低くした。
「ええ。きっと皆、こう思ったでしょうね――
“カンタベリオンから嵐が来た”って。」
私は思わず笑いながら、胸の奥が熱くなった。
私は心の中で呟いた。
あぁ、この方はやっぱり強い。けれど、その強さの中に寂しさがある。
この強さの裏で、どれほどの孤独を抱えているのだろう。
笑って立っているけれど、本当は泣く場所もないのかもしれない。
着替えを終え、寝台に腰を下ろしたセラにブランケットを掛ける。
「セラ様、明日、私はアルビオンに戻ります。」
セラの手が止まり、こちらを見た。
「ええ、聞いていたわ。港まで見送りに行く。」
「お気遣いなく。お疲れでしょうに。」
「いいえ。あなたがいなければ、私はここまで来られなかった。
最後くらい、きちんと見送りたいの。」
その声に、胸の奥が熱くなる。
私は小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます。」
「こっちこそ、ありがとう。
明日はいい風が吹くといいわね。」
セラは窓の方を向いた。
夜の灯が髪に柔らかく反射して、
その横顔が一瞬、夢のように遠く見えた。
私は櫛を片付けながら、その姿を胸に焼きつけた。
――明日の風が、どうか優しくありますように。




