潮騒のあとで
語り:ダリウス・エルネスト
予定よりはるかに遅れ、アストリア港に着いたのは夕刻だった。
赤く沈む陽が水面にきらめき、海鳥の群れが塔の上を横切っていく。
船体が軋みを上げながら岸壁へ寄ると、潮と油の匂いが一気に押し寄せた。
港の街は、無数の運河と石橋でつながれている。
倉庫の壁面は潮に黒ずみ、鐘楼の影が水面に揺れていた。
ミレイユが隣に立ち、疲れた目でその光景を見つめていた。
「ここが……帝国の港なのですね。」
「正確には、カテドラの外港にあたります。南へ半日、内陸の丘を越えれば帝都が見えるはずです。」
「カテドラは海に面していないのですか?」
「いいえ。内海の水路が街の中まで続いています。運河の街です。
水門を抜ければ城壁の内に入り、教会と王宮がその中央にあります。」
ミレイユはしばらく黙って波間を見つめていた。
その瞳の奥に、戦いの後の空白のようなものが漂っているのが分かった。
船が接岸すると、担架を持った水夫たちが走り出した。
ギルデンは背に深い傷を負い、意識を失ったまま運ばれていく。
ウィルは脇腹を押さえ、顔を歪めながらも仲間の肩を借りて歩いていた。
その背を見送りながら、ひとりの水夫が低く吐き捨てた。
「……あの娘さえ乗らなければ、海は怒らなかった。疫病神め。」
風に乗って、その言葉が耳に届いた。
俺は振り向きもせず、ただ一瞥を送った。
男は青ざめて口を閉じ、視線を逸らした。
セラは意識を失ったままだった。
顔色は紙のように白く、唇には血の気がなかった。
ミレイユが彼女の手を握りしめている。
「宿を取ります。ここでは休ませられません。」
港に近い宿屋を借り、セラを寝台に運び込む。
毛布をかけ、ミレイユに指示した。
「体を温めて、しばらく休ませてください。目を覚ましたら水を少しずつ飲ませて。
俺が戻るまで外出は控えてください。」
ミレイユは小さく頷いた。
その眼差しに、どこか恐れと決意が同居しているように見えた。
外に出ると、港町の空はすでに薄紫に染まり始めていた。
護衛の者たちが最後の片付けを終え、報告に来る。
「皆の任はここまだ。残りは俺が報告する。」
短い言葉に、誰も異を唱えなかった。
彼らの顔には、戦いの疲労と、目の前の現実に対する戸惑いが滲んでいた。
俺は港を離れ、その足でヴァルメイン家へ向かった。
街の中央を流れる運河には白鳥が浮かび、石橋の上には行き交う商人の影が伸びている。
橋を渡ると、街の様相が変わった。
運河沿いの倉庫街から石畳の整った通りへ、そして城門をくぐると、空気が一変した。
屋根の高い家々が並び、整然とした街路の奥に、ヴァルメイン家の館がそびえている。
白い大理石の柱が並ぶ玄関。
二人の衛兵が無言で敬礼し、扉を開けた。
中は静まり返っていた。
広間の奥、長卓の前にルキウスとエリアスが座していた。
父ルキウスは灰色の髪を束ね、軍人らしい太い腕を組んでいる。
隣のエリアスは若く、落ち着いた瞳をしていた。
俺は一礼し、報告を始めた。
戦闘の経緯を、順を追って語った。
鵺の出現、風の異変、セラの指輪――。
話しながらも心の奥では思っていた。
(こんな話を、信じてくれるだろうか……。)
だが二人は一言も遮らず、ただ深く聞き入っている。
ルキウスの拳が机の上でゆっくりと固まっていくのが見えた。
「魔法具は、すべて教会の管理下にある。」
沈黙のあと、ルキウスが低く言った。
「セラの指輪も例外ではない。
没収せねばならん。それを理解しているのか。」
「理解しております。」
俺は姿勢を正した。
「ですが、あの力を奪うなら――師団ひとつを犠牲にする覚悟が要るでしょう。」
ルキウスの顔がみるみる赤く染まった。
「貴様……私を愚弄しているのか!」
声が広間に響く。
エリアスが静かに口を開いた。
「父上、彼は挑発しているわけではありません。」
ルキウスが睨むように息子を見たが、
エリアスは淡々と続けた。
「ただ、事実を伝えているだけです。
我々の理解を超える力が、そこにあったということを。」
長い沈黙が落ちた。
外では鐘の音が遠くで響いている。
ルキウスはやがて息を吐き、椅子の背にもたれた。
「……セラの回復を待ち、正式に面会の場を設けよう。
婚姻の件も、その後で決める。」
その言葉に、俺は深く一礼した。
扉に向かって歩き出した。
背後で椅子のきしむ音がしたが、振り返る気にはなれなかった。
ただ一礼を残し、重い扉を押し開ける。
外の空気が肺に刺さる。
港の方から潮の匂いを運ぶ風が吹いてきた。
ようやく任務を終えたはずなのに、
胸の奥には、鉛のような疲れだけが沈んでいる。
(もう、何も考えたくない……。)
石畳を踏む足音が、やけに遠くに聞こえた。
冷たいはずの風が、妙に重く感じられた。
それでも歩くしかなかった。




