帰郷 - 5
語り:ミレイユ・カロ
しばらくぶりにカンタベリオンへ戻り、アルヴェイン家の邸の門をくぐったとき、胸の奥にふっと力が抜けた。
帰ってきたのだ、と思った。
見慣れた石畳。
中庭を囲む回廊。
磨き込まれた窓硝子に映る曇り空。
どれも旅のあいだ何度も思い出したものばかりだった。
この邸から旅立ってからのこと。
海を渡ったこと。
逃げるために歩いたこと。
魔物に襲われ、死にかけたこと。
そのすべてが、遠い夢のように思えた。
けれど、そんな感傷に浸っている場合ではなかった。
私は胸の内で自分を叱る。
ここからが正念場だ。
一つ言い間違えれば、全部が終わる。
案内役を装って先を歩くヨークの背を見ながら、私は気持ちを引き締めた。
邸の中は、私がいた頃と変わらぬ静けさに包まれていた。
廊下を行き交う使用人たちは、私の姿を見て一瞬ぎょっとした顔をしたものの、すぐに目を伏せて通り過ぎていく。
あまりに普通の光景で、かえって足元が揺らぐようだった。
やがて、執務室の前に着く。
分厚い木の扉。
真鍮の把手。
見慣れたはずなのに、今日はまるで別のもののように思えた。
この中に、レオンがいる。
そしておそらく、エドマンドも。
隣に立ったヨークが、声を潜めて言った。
「ここが正念場だぞ。」
私は小さく頷いた。
喉がひどく渇いていた。
ヨークが扉をノックする。
「入れ。」
中から低い声が返った。
ヨークが扉を開ける。
私はその後に続いた。
執務室の中には、三人いた。
正面の机の向こうに、レオン。
その少し脇に、腕を組んだエドマンド。
そして、もう一人。
見覚えのない男だった。
年は三十代の半ばほどだろうか。
痩せすぎず太りすぎず、背筋を伸ばして立っている。
服装に派手さはないが、腰の剣も姿勢も、ただの従者ではないと分かった。
目立たないようでいて、妙に目につく男だった。
部屋に入った瞬間、レオンが私に気づいた。
「おお、ミレイユ。」
顔をほころばせる。
「心配していたぞ。」
その声音は、我が子の帰郷を喜ぶ親のようにやわらかかった。
私は慌てて頭を下げた。
「ご心配をおかけして、申し訳ございません。」
レオンはすぐに首を振る。
「お前が謝ることはない」
立ち上がりこそしなかったが、その目はひどく穏やかだった。
「すべては不肖の娘のせいだ。
お前には苦労をかけたな。
すまなかった。」
あまりに優しい口ぶりに、胸の奥がざわついた。
本当に心配していたようにも聞こえる。
けれど、今はその言葉にほっとしてはいけない。
エドマンドが口を開いた。
「連れてきたのは貴様か?」
棘のある声が、ヨークへ向く。
ヨークはすぐに背筋を伸ばした。
「はい。」
「監視塔にて、セラ様とダリウス・エルネストに追われているミレイユを発見し、保護いたしました。」
淀みのない口調だった。
「その後、セラ様が魔物を繰り出してきました。
魔物相手では手も足も出ず、やむなく監視塔を放棄。
ミレイユを連れて、カンタベリオンに退却してまいりました。」
エドマンドは眉一つ動かさない。
「では、セラは監視塔にいるのか?」
「はい。」
ヨークはうなずいた。
「あそこには十人程度が一週間は滞在できる食糧が保管されております。
カンタベリオン近くで拠点を設けるつもりなら、まず間違いなくそこに留まるはずです。」
「ふうん。」
エドマンドは気のない返事をした。
だが、その目は少しも緩んでいなかった。
信用していない。
そう言わずとも分かる。
そして、次にその視線が私へ向いた。
「ミレイユ。」
背筋が強張る。
「はい。」
「なぜセラから逃げた?」
心臓が跳ねた。
とうとう来た。
私は手を握りしめる。指先が冷たいのに、掌だけがじっとりと汗ばんでいた。
用意していた言葉を、頭の中でなぞる。
「もともと私は、セラ様がヴァルメイン家に着かれるのを見届けたら、カンタベリオンに戻るはずでした。」
声が震えていないか、そればかりが気になった。
「ですが、セラ様がカテドラで騒ぎを起こされたせいで、成り行き上、ともに行動するしかなくなってしまって……」
エドマンドは黙って聞いている。
「それで、アルビオン島まで渡り、ようやくこちらに戻ってまいりました。
見知った土地まで帰ってこられたところで、これ以上セラ様に振り回されるのは……その……」
喉が詰まりそうになる。
だが、ここで止まれば疑われる。
「耐えられませんでした。」
言い切った瞬間、自分の手が汗でびっしょりになっているのをはっきり自覚した。
心臓の音が、やけに大きく聞こえる。
エドマンドは目を細めた。
「だが、お前はセラの侍女だ。」
静かな声だった。
「最後まで付き従うのが筋ではないのか?」
その問いは冷たかった。
責めるというより、試すような響きだった。
私は唇を湿らせる。
「……無給でお供するのも、限界でございました。」
言った瞬間、自分でも浅ましい返答だと思った。
だが、ミレイユという女が今ここで口にするなら、むしろこれが一番自然なはずだった。
エドマンドの口元が歪む。
「……卑しい女だ。」
吐き捨てるような声だった。
胸の奥がかっと熱くなる。
けれど顔には出せない。
出してはいけない。
そのとき、レオンがエドマンドをたしなめた。
「ミレイユを腐すでない。」
声音はやわらかいが、ぴしゃりとしていた。
「この子もまた、不肖の娘に振り回された被害者だ。」
エドマンドは面白くなさそうに口を閉ざした。
視線だけがなおも私を値踏みしている。
私は改めて思った。
やはり、私はこの人が苦手だ。
エドマンドのこういう尊大な性格は昔から好きになれなかったし、セラが彼を嫌う理由の一つでもあるのだろう。
目の前で向けられると、なおさらそれがよく分かる。




