風の試練 - 5
語り:ミレイユ・カロ
空の向こうに、二つの影が近づいてくる。
ひとつは、ほかのハーピーよりもずっと艶やかで、豊かな曲線を帯びていた。
陽光を受けた羽根が金に光り、白い肌は絹のように滑らかだった。
その身体の動き一つで風が撫で、潮の匂いまでも変わるように思えた。
美しい――だが、その美は威厳と冷ややかな畏れを伴っていた。
金翼のハーピーはゆるやかに旋回しながら、艶のある声で言った。
「お嬢さん。……その異形の獣は、あなたのものかしら?」
その声は人の言葉だった。
まるで普通の人間のように、自然に、流れるように喋っている。
潮風に混じる声の響きが、肌に触れるたび、ぞくりと背筋を走った。
セラは風の中に立ち、鵺を見上げたまま答えた。
「……ええ。私の呼びかけに応えたの。」
金翼のハーピーは、唇をゆるやかに歪めた。
それは笑みとも、挑発ともつかない。
「呼びかけに応えた……? ふふ、いいわ。
あなたが呼んだのか、それとも“あれ”があなたを呼んだのか――
どちらでも構わない。
いずれ分かるわ。あなたの中の“風”がどちらを選ぶか。
ああ――その時が楽しみ。」
金翼のハーピーはくすくすと笑い、羽根を一振りした。
その動作ひとつで、潮風が香り立つようだった。
「今日はここまで。人の子にしては、よく耐えたもの。
でも――きっとまた会うでしょう。
次は、あなたの方から私を探す番かもしれない。」
その声は潮に溶け、金色の光とともに消えていった。
背後の従者が短く鳴く。
三匹のハーピーは陽光の中へ舞い上がり、海と空の境に消えた。
――静寂。
それから、波の音が戻ってきた。
帆が膨らみ、船が軋む。
潮の匂いが再び漂い、風が甲板を渡る。
生きている――そんな感覚が戻ってきた。
「……終わったの?」
自分でも聞こえるかどうかの声で、そう呟いた。
水夫たちが我に返ったように動き出す。
「ビーン! 掴まれ!」
海面にロープが投げられ、波間から手がのびた。
数人が綱を引き、ずぶ濡れのビーンが甲板へ引き上げられる。
続いて、倒れていたウィルも運び込まれた。
脇腹の傷は深かったが、息がある。
ダリウスが止血を施し、水夫たちが布を結んで固定する。
誰も――死んでいなかった。
甲板のあちこちで、水夫たちが互いを支え合いながら立ち上がっていた。
ギルデンは背中に深い傷を負い、甲板に横たわっている。
だがその胸が、かすかに上下しているのが見えた。――生きている。
海に落ちたジョージも、縄で引き上げられ、仲間たちに囲まれて咳き込みながら息をしている。
その水音と嗚咽が、戦いの終わりを告げていた。
その光景を見た瞬間、胸の奥が熱くなった。
潮の匂いが涙と混ざり、喉の奥が痛くなる。
セラは甲板の中央で、静かに風を受けていた。
髪が潮に濡れ、淡い光を帯びて揺れる。
右手の指輪が、陽を反射してかすかに光っていた。
私は恐る恐る近づき、声をかけた。
「セラ様……もう大丈夫ですか?」
セラは少しのあいだ海を見つめ、かすかな声で答えた。
「……私が命令したんじゃないの。
でも、鵺は――私を見てた。
嵐みたいな力なのに、まるで“待って”くれてたみたい。」
言葉は、潮風に溶けて消えていった。
私は何も言えなかった。
ただ、その横顔を見つめていた。
次の瞬間――セラの顔から血の気が引いていくのが分かった。
唇の色が薄くなり、足元がふらりと揺れる。
「セラ様!」
駆け寄った。
けれど、間に合わなかった。
彼女は力を失い、私の腕の中に崩れ落ちた。
軽い。あんなに強かった人が、こんなにも軽い。
頬を撫でる風が、静かに吹いた。
まるで“もう休め”と言っているかのように。




