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聖環  作者: 北寄 貝


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135/136

次兄 - 5

語り:ミレイユ・カロ

 私は、何が起きたのか理解できなかった。

 通りが静まり返る。

 市場の布が風に揺れ、倒れた木箱から転がった果物が石畳の上でゆっくり止まる。

 鵺も動きを止めていた。

 低い唸り声だけが、かすかに残っている。

 誰も動かない。

 時間が、そこで止まったようだった。

 セラが一歩、前に出る。

 血の散った石畳を見つめたまま、かすれた声で言った。

「……兄さん?」

 返事はない。

 けれどセラは、もう一歩近づいた。

 石畳の上には、割れた鎧の金具と、剣の破片が散らばっている。

 赤黒い血が、その隙間をゆっくりと広がっていく。

 セラが立ち止まった。

 唇が震えている。

「……兄さん……?」

 その声が、ひどく小さく聞こえた。

 セラの膝が、がくりと折れた。

 石畳に手をつく。

 肩が震えている。

 しばらく、声は出なかった。

 ただ、荒い呼吸だけが聞こえる。

 やがて。

 ぽたり、と。

 涙が石畳に落ちた。

 その音が、やけに大きく響いた気がした。

 周囲の兵たちがざわめき始める。

「トリスタン様が……」

「何が起きた……?」

「あの魔物の仕業か……?」

 誰も剣を振り上げない。

 誰も槍を突き出さない。

 ただ、混乱した目で通りを見回している。

 その時。

「ミレイユ。」

 低い声がした。

 振り向くと、ダリウスが剣を構えたまま立っている。

 視線は兵ではなく、通りの奥へ向けられていた。

「周りを見ろ。不自然に動く奴を探せ。」

 短い命令だった。

 私ははっとして顔を上げた。

 兵たちだけじゃない。

 屋根。

 市場の影。

 通りの先。

 どこかに、まだ誰かがいるかもしれない。

 その時、胸の奥に、冷たい違和感が残った。

 あんな風に、人間が爆ぜるはずがない。

 セラの聖環に、鵺に、あんなことはできない。

 ――誰かが魔法で弾けさせた。

 私は必死に目を走らせる。

 教会の塔が、通りの向こうに見える。

 白い石の壁。

 尖った屋根。

 その上の影が、風に揺れた気がした。

 気のせいかもしれない。

 でも。

 背筋に、冷たいものが走った。

 兵の一人が後ずさる。

「……撤退だ。」

 誰かが小さく言った。

 別の兵が、槍を下ろす。

「トリスタン様が……あんな……」

 もう戦う気配はない。

 数人が通りの奥へ逃げていく。

 残った者も、ただ立ち尽くしているだけだった。

 私はセラの方へ目を戻した。

 セラはまだ膝をついたままだった。

 肩が、小さく震えている。

 泣いている。

 私はどうしていいか分からなかった。

 声をかけるべきなのか。

 触れるべきなのか。

 それでも、足が動いた。

 セラのそばへ歩み寄る。

 セラの横に立つ。

 何も言えない。

 ただ、そこにいる。

 セラがゆっくり顔を上げた。

 頬は涙で濡れている。

 それでも視線は、まだ石畳の血だまりを見ていた。

「……こんなの……」

 かすれた声だった。

「こんなの……あんまりよ……」

 その言葉が、風の中に消えた。

 セラが、ゆっくり立ち上がる。

 ふらつきながら。

 それでも、立った。

 通りには血が広がっている。

 転がった果物が踏み潰されている。

 市場の布が、ぱたぱたと風に揺れている。

 遠くで鐘が鳴った。

 教会の鐘だ。

 何事もなかったかのように、町の上で響いている。

 私はその音を聞きながら思った。

 この町のどこかに、この悲劇を仕組んだ誰かがいる。

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