次兄 - 5
語り:ミレイユ・カロ
私は、何が起きたのか理解できなかった。
通りが静まり返る。
市場の布が風に揺れ、倒れた木箱から転がった果物が石畳の上でゆっくり止まる。
鵺も動きを止めていた。
低い唸り声だけが、かすかに残っている。
誰も動かない。
時間が、そこで止まったようだった。
セラが一歩、前に出る。
血の散った石畳を見つめたまま、かすれた声で言った。
「……兄さん?」
返事はない。
けれどセラは、もう一歩近づいた。
石畳の上には、割れた鎧の金具と、剣の破片が散らばっている。
赤黒い血が、その隙間をゆっくりと広がっていく。
セラが立ち止まった。
唇が震えている。
「……兄さん……?」
その声が、ひどく小さく聞こえた。
セラの膝が、がくりと折れた。
石畳に手をつく。
肩が震えている。
しばらく、声は出なかった。
ただ、荒い呼吸だけが聞こえる。
やがて。
ぽたり、と。
涙が石畳に落ちた。
その音が、やけに大きく響いた気がした。
周囲の兵たちがざわめき始める。
「トリスタン様が……」
「何が起きた……?」
「あの魔物の仕業か……?」
誰も剣を振り上げない。
誰も槍を突き出さない。
ただ、混乱した目で通りを見回している。
その時。
「ミレイユ。」
低い声がした。
振り向くと、ダリウスが剣を構えたまま立っている。
視線は兵ではなく、通りの奥へ向けられていた。
「周りを見ろ。不自然に動く奴を探せ。」
短い命令だった。
私ははっとして顔を上げた。
兵たちだけじゃない。
屋根。
市場の影。
通りの先。
どこかに、まだ誰かがいるかもしれない。
その時、胸の奥に、冷たい違和感が残った。
あんな風に、人間が爆ぜるはずがない。
セラの聖環に、鵺に、あんなことはできない。
――誰かが魔法で弾けさせた。
私は必死に目を走らせる。
教会の塔が、通りの向こうに見える。
白い石の壁。
尖った屋根。
その上の影が、風に揺れた気がした。
気のせいかもしれない。
でも。
背筋に、冷たいものが走った。
兵の一人が後ずさる。
「……撤退だ。」
誰かが小さく言った。
別の兵が、槍を下ろす。
「トリスタン様が……あんな……」
もう戦う気配はない。
数人が通りの奥へ逃げていく。
残った者も、ただ立ち尽くしているだけだった。
私はセラの方へ目を戻した。
セラはまだ膝をついたままだった。
肩が、小さく震えている。
泣いている。
私はどうしていいか分からなかった。
声をかけるべきなのか。
触れるべきなのか。
それでも、足が動いた。
セラのそばへ歩み寄る。
セラの横に立つ。
何も言えない。
ただ、そこにいる。
セラがゆっくり顔を上げた。
頬は涙で濡れている。
それでも視線は、まだ石畳の血だまりを見ていた。
「……こんなの……」
かすれた声だった。
「こんなの……あんまりよ……」
その言葉が、風の中に消えた。
セラが、ゆっくり立ち上がる。
ふらつきながら。
それでも、立った。
通りには血が広がっている。
転がった果物が踏み潰されている。
市場の布が、ぱたぱたと風に揺れている。
遠くで鐘が鳴った。
教会の鐘だ。
何事もなかったかのように、町の上で響いている。
私はその音を聞きながら思った。
この町のどこかに、この悲劇を仕組んだ誰かがいる。




