風の試練 - 4
語り:ミレイユ・カロ
ハーピーは陽光の中で翼を大きく広げた。
次の標的を見定める、冷たい瞳が――私を捉えた。
体が震える。足が動かない。
風が渦を巻き、耳鳴りのような音が近づいてくる。
「ミレイユ殿!」
再び声が聞こえたが、その瞬間にはもう――遅かった。
影が迫る。
私は身を固くした。
けれど、代わりに飛び出したのは護衛のウィルだった。
鉤爪が彼の脇腹をかすめ、鎧ごと裂いた。
鈍い音とともに彼は崩れ落ちる。
続けざまに水夫のビーンが突進したが、ハーピーが翼を広げて強風を起こし、彼の体は弾き飛ばされて海に消えた。
水音が一つ――そして沈黙。
「もう……やめて……!」
セラの叫びが風を震わせた。
空気が変わる。
甲板の塩粒が舞い、髪がふわりと持ち上がった。
――また、あの風。
胸がざわつく。
甲板の全員が、同じ恐怖を感じているのが分かった。
あの風が吹けば、敵も味方も関係なく倒れる。
誰も、風の魔に抗えはしない。
「……だめ、いけない……」
セラの声がかすれた。
右手の指輪が光り始め、空気が唸る。
風が渦を巻き、索具が鳴る。
「落ち着け……セラ殿!」
ダリウスの声が掻き消える。
帆柱が軋み、甲板が震える。
セラが唇を噛み、涙を浮かべながら小さく首を振った。
「違う……今度は、私が……」
その瞬間、風が一瞬だけ静まった。
そして、彼女が叫んだ。
「――私の意志で吹け! 他の誰でもない、私の風であれ!」
叫びとともに、風が爆発した。
甲板に竜巻のような渦が立ち上がり、光と塵を巻き上げる。
その中心から、低い咆哮が響いた。
黒い影が形を取り、獣の胴に虎の脚、蛇の尾を引きずって姿を現す。
顔は猿に似て、目は光を宿していた。
その一声で、空が震えた。
――鵺。
私は息を呑んだ。
誰も近づけない。
風が壁のようにセラを包んでいる。
セラは鵺を見上げていた。
恐れではなく、何かを理解したような瞳だった。
彼女が言葉を発しなくても、鵺が動く。
踏みしめた空気が一瞬、固まり、風が弾けた。
鵺はその勢いのまま、空を駆け抜け、閃光のようにハーピーへ跳躍した。
空気が限界まで圧縮され、ひときわ鋭い破裂音が響いた。
甲板の樽や縄が吹き飛び、海面が泡立つ。
空では二つの影がぶつかり合い、鵺の咆哮とハーピーの悲鳴が交錯した。
「セラ様……」
思わず呟いた。
風が彼女の髪を持ち上げ、指輪が淡く脈打っている。
まるで彼女の鼓動と同じリズムで光が明滅しているように見えた。
鵺が翼で空を切り裂き、ハーピーの胸元に傷を負わせた。
羽根が舞い、血が陽を弾く。
ハーピーが悲鳴を上げ、距離をとる。
その瞬間、海の向こうから、もう一つの影が飛んできた。
もう一匹のハーピーだ。
二対一。
空の戦いが、さらに激しくなる。
鵺が押され始めた。
ハーピーの鉤爪が鵺の脇腹を裂く。
セラの身体が震え、同じ位置を押さえる。
まるで、ひとつの体を分かち合っているようだった。
「……繋がっている……!」
私は思わず声を漏らした。
鵺の痛みがセラへ、セラの痛みが鵺へ流れている。
鵺が苦しげに鳴き、旋回する。
それでも、セラは立ち上がった。
手にはスリング。
「……一緒に行こう」
彼女が呟いた。
鵺が空を駆け、二匹のハーピーを引きつける。
その瞬間、セラが身体をひとひねりさせて一回転した。
風を纏い、舞うように身を翻す――渾身のスリングショット。
風が弾を運び、石が閃光のように空を裂いた。
ハーピーの翼を貫く。
悲鳴。
一匹が制御を失い、甲板へ墜落した。
「今だ!」
ダリウスが飛び出し、剣を抜く。
倒れたハーピーの喉元に突き立てた。
その体がびくりと震え、静かに沈黙した。
残る一匹が、怒りと恐怖の叫びを上げた。
旋回し、遠くの空へ声を放つ。
その叫びに応えるように、空の彼方から影が二つ――
ひとつは他よりもひときわ美しく、その翼が金の光を放っていた。




