風の試練 - 2
語り:ミレイユ・カロ
「ハーピーだ……!」
誰かが震える声でそう言った。
その言葉が、火のように船上に広がる。
「本当にいるのかよ……」「祈れ、祈れ……!」
水夫のひとりが胸の前で祈りの印を切り、別の者は縄を落として青ざめた顔で空を見上げている。
翼は大鷲よりも大きく、その根元に、細い女の胴が続いていた。
乱れた髪が風に流れ、爪先は猛禽の鉤爪だ。
人とも鳥ともつかない姿が、凪いだ空を自由に駆けていた。
ギルデン船長が、そんな騒ぎを一喝する。
「全員、持ち場を離れるな! 甲板中央から出るな!」
その声にも、わずかな震えが混じっているのを私は聞き取ってしまった。
それでも、水夫たちは命令に従って樽の影や索具の陰に身を寄せる。
護衛たちはセラと私の周りを固め、武器を抜いた。
「何て……ものを呼ぶんだよ、あの小娘は」
誰かが呟くのが聞こえた。
私は振り向けなかった。ただ、胸の奥が冷たくなるのを感じる。
ハーピーは一声、甲高く鳴くと、船のマストの上に視線を向けた。
そこには、索具の具合を見ていた航海士のジョージがいた。
「まずい……」
誰かが息を飲む。
次の瞬間、ハーピーが弾かれた矢のようにマストめがけて突っ込んだ。
褐色の翼が陽光を切り裂き、鉤爪が閃いた。
「――ジョージ!」
ギルデンの叫びが、ほとんど同時に響いた。
ジョージはマストの上で一瞬固まったように見えたが、すぐに足を踏み外すようにして身を投げた。
高い位置から、海へ。
ざぱん、と水柱が上がる。
私は反射的に手すりに駆け寄り、海面をのぞき込んだ。
泡と飛沫の中で、必死にもがく影が見える。
「セラ様!」
気づけば、セラはすでに動いていた。
彼女は甲板の中央まで駆け出し、スリングに石をつがえていた。
ぐるり、と腕を回す音が風を切る。
ハーピーは海面すれすれに高度を落とし、落ちたジョージに向かって滑空していく。
獲物を狩る猛禽の軌道だった。
「させない……!」
セラの唇がそう動いたのを、私は確かに見た。
次の瞬間、石弾が唸りを上げて空へ放たれる。
狙いは正確だった。
けれど、ハーピーは身体をひらりと捻り、ぎりぎりでそれをかわした。
石はそのすぐ脇を通り過ぎ、遠くの波間に消える。
「くそっ、外したか!」
舷側から覗いていた水夫が歯噛みする。
「ジョージを引き上げろ! ロープだ、急げ!」
ギルデンが怒鳴ると、水夫たちが樽の脇からロープを引きずり出し、海へ投げた。
マストの上から落ちたジョージは、どうにかそれを掴もうと手を伸ばしている。
波にのまれれば、一瞬で見えなくなる距離だ。
私の手の中で、何かが冷たく触れた。
ギルデンから渡された、二つ目の銀のイヤーカフだ。
「……ダリウスさん……!」
私は振り返り、甲板の反対側、すでに弓を構えているダリウスのもとへ走った。
足元が揺れて、何度もバランスを崩しそうになる。
それでも、止まってはいけない気がした。
「ミレイユ殿、下がって――」
私が駆け寄るより先に、彼がそう言いかけた。
「これを!」
私は遮るように、銀の輪を彼の手に押しつけた。
「ギルデンさんから。酔い止めの魔法具です。
これで、目を回さずに済むはず……だから、セラ様を守ってください!」
ダリウスは一瞬だけ目を見開いた。
すぐに短く息を吐き、イヤーカフを耳に装着する。
「恩に着ます。――あなたは護衛たちの側を離れないで」
低い声だったが、そこには迷いがなかった。
私はうなずき、彼から半歩分だけ身を引いた。
その頭上を、ハーピーの影が再びかすめていった。
誰かの肩がぶつかり、悲鳴と怒号が入り交じる。
甲板が、恐怖そのものになっていた。




