五里霧中 - 2
語り:ミレイユ・カロ
トマスは、重くなった空気をそのままに、肩をすくめた。
「ここはノルドハイムと縁のある土地だ。
君がセラ・アルヴェインだったとしても、今のところ問題はない。
……だが、いやはや、というところだな。」
セラは、何も言えずに震えていた。
唇を噛み、視線を落としたまま、指先が小刻みに揺れている。
私は一歩前に出た。
「もう少し、詳しく教えていただけませんか。」
トマスは私を見て、わずかに申し訳なさそうな顔をした。
「正直に言えば、俺も伝聞でしか知らない。
船乗りたちの噂話だ。ここまでが限界だな。」
そのとき、セラが、絞り出すような声を漏らした。
「……父が……そんなはず、ない……」
ダリウスが、低く唸る。
「アルヴェイン家、というか、カンタベリオンはルーメン教の信徒だ。
それが教皇暗殺を企てる?
噂にしては、ずいぶん乱暴だな。」
「俺も、そう思う。」
トマスはうなずいた。
「だが、事実として――
フランカ帝国国教騎士団が、すでに入城しているという話だ。」
その言葉に、ダリウスの表情が変わった。
「……国教騎士団、だと?」
トマスは、セラに視線を向ける。
「クラリスから、君のことは聞いている。
野暮だと分かっていて言うが……君は、その……」
言いよどんだ、その瞬間。
「そんなわけ、ないじゃない!」
セラが、声を荒げた。
私は、思わず息を呑んだ。
セラが、誰かに怒鳴るところを見るのは、初めてだった。
「誰が、そんな話を作ってるのよ!」
吐き捨てるような言い方だった。
「……すまない。」
トマスは、すぐに頭を下げた。
クラリスが、慎重に口を挟む。
「でも……あなたがカンタベリオンに行ったら、それこそ大騒ぎになるんじゃない?」
「そんなの、知らないわよ。」
セラは、突き放すように言った。
トマスは、考え込むように腕を組む。
「噂を総合すると、もっとも可能性が高いのは――
フランカ帝国が、アルビオン島を征服しに来た、という見立てだ。」
「それはない。」
即座に、ダリウスが否定した。
トマスが眉をひそめる。
「なぜだ?」
「氷境戦争を続けながら、アルビオン島に侵攻する余力など、帝国にはない。
長引く戦争で、民心もすでに離れ始めている。
そんな状況で戦線を広げるのは――愚かだ。」
トマスは、ゆっくりとうなずいた。
「確かに、理屈はそうだ。
だが……俺は、フランカが本気でアルビオンを攻めてきたと思っている。」
「なぜだ?」
「カンタベリオンに来たフランカ軍の総大将が――
ルキウス・ヴァルメインだからだ。」
ダリウスの顔から、血の気が引いた。
「……元帥自ら、だと……」
セラも、驚いた表情を隠せずにいる。
彼女は、ルキウスと面識がある。
私は、恐る恐るダリウスに尋ねた。
「ルキウス元帥って……エリアス将軍のお父様、ですよね。」
「ああ……そうだが……」
ダリウスは、そこで言葉を切り、考え込んだ。
私にとって、エリアス・ヴァルメインこそが、追われ、逃げ、苦しみ続ける原因だった。
けれど今、ダリウスが問題にしているのは、その父――ルキウスのほうだった。
クラリスが、不安そうに聞く。
「それって……何か、まずいの?」
ダリウスは、顔を上げた。
「元帥が出陣してきたということは――
帝国の目的は、アルビオン島の征服ではない。」
全員が、息を呑んだ。
「え……?」
ダリウスは、断言する。
「アルビオンを征服する以上に、価値のある何かがある、ということだ。」
私は、その横顔を見て思った。
――この人は、騎士だ。
戦士の理で、世界を見ている。
ダリウスにとって、アルビオンは戦場の一つでしかない。
私やセラが生まれ育った土地だという感覚は、そこにはないのだろう。




