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聖環  作者: 北寄 貝


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風の試練 - 1

語り:ミレイユ・カロ

潮の匂いが、まだ服に残っていた。

港を離れた船は、陽を受けながら静かに沖へ出ていく。

帆が膨らみ、索具が軋み、波が船腹を叩く音が心地よく響いた。


船の名はグランフェル号。

アルビオンとフランカ帝国を往復する商船で、今日の行き先は帝国北部のアストリア港。

半日の航程だと聞かされている。


セラは船首に立ち、手すりにそっと手を置いていた。

彼女の髪が潮風に揺れている。

そのすぐ横に立つ私も、同じように海を見ていた。


けれど――その距離の外側、護衛や船員たちは、皆どこかよそよそしい。

先ほど港で起きた“あの風”を目の当たりにした者たちが、セラを恐れているのだ。

彼女が何もしていないことを知っていても、恐怖というものは理屈では動かない。


「皆、私を避けているのね」

セラが小さく笑った。

それが冗談でないことを、声の響きで悟った。


「……少し時間が必要なのかもしれません」

私はそう答えながらも、胸が痛んだ。


潮風が髪を乱す。

彼女は遠くの水平線を見つめたまま言った。

「あなたまで巻き込んでしまったわね。……ごめんなさい。」


「私は、あなたのそばにいたいだけです。」


そう言ったとき、セラがようやくこちらを見た。

その瞳の奥に、一瞬だけ安堵の色が宿ったように思えた。

けれど次の瞬間には、また海を見つめる横顔に戻っていた。


やがて、ダリウスが甲板を渡ってきた。

「ミレイユ殿、しばらくお下がりを。セラ殿にはお休みいただきたい。」


彼の言葉は丁寧だったが、声の底に緊張があった。

私はうなずき、セラの肩に一言だけかけてから、甲板の中ほどへ下がった。


海風の中に立つと、少し体がふらついた。

陸とは違う、絶えず揺れる感覚――それが思いのほか堪える。

私は手すりにつかまりながら、深呼吸をした。


そのとき、背後から声がした。

「陸の娘には、こたえる揺れだろう」


振り向くと、年老いた船長――ギルデンがいた。

日に焼けた皮膚に白い髭、片目を細めた穏やかな顔。

彼は腰袋から小さな銀の輪を二つ取り出した。


「これを耳に着けておけ。酔わずに済む。

 もう一つは、あの弓の男にも渡してやりな」


私は驚いて受け取った。

繊細な紋が刻まれた銀の輪が、淡く青白く光っている。


「魔法具……ですか?」


「そうさ。このイヤーカフは耳と風のあいだに膜を張る。

 揺れで目と頭が狂わんようにな。

 風と海は似てる。抗うより、合わせるほうが生き延びられる。」


その言葉を聞いたとき、胸の奥が少し温かくなった。

――人の作る魔法具の方が、ずっと穏やかで優しい。


私は礼を言ってイヤーカフを耳につけた。

冷たい金属が一瞬で体温を帯び、ふらつきがやわらぐ。


遠くで、セラの淡い栗色の髪が風に揺れていた。

けれどその風は、いつの間にか弱まっている。

波の音が遠ざかり、帆が音を立てて垂れ下がる。


ギルデンが眉をひそめた。

「……風が止んだ?」


青い空に、音のない静けさが降りた。

海面は鏡のように凪ぎ、船はほとんど動かない。

私の鼓動だけが耳の奥で響いていた。


そして――甲板に影が走った。


思わず空を見上げる。――大きな海鳥かと思った。

だが、翼の中央に、鳥にはありえない“人の形”があった。

陽光を受けて、白い肌のようなものが一瞬きらめく。


「……鳥じゃない……?」


太陽を横切る黒い影が、旋回しながら甲板の上に迫ってくる。

その鳴き声が、鋭く空を裂いた。

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