プロローグ 儀式の夜
石造りの礼拝堂は、夜の冷気に沈んでいた。
吹きすさぶ風が割れた窓から流れ込み、蝋燭の炎をゆらめかせる。
光と影が交互に揺れ、床に広がる血の跡を銀に照らした。
祭壇の前には、一人の少年が横たわっていた。
カイル・セリオン。
両目は潰れ、両手と両脚は砕かれ、血と泥にまみれている。
彼は、セラを逃がすために戦い、襲撃者たちの凶刃に倒れたのだった。
生きているのが奇跡のような姿――それでも、まだ息をしていた。
「……セラ……生きて、くれ……」
その声に応えるように、黒衣の司教がゆっくりと歩み寄った。
ルーメン教の司教、モルヴァン・エルドレッド。
彼の足音は、石床に滴る血を踏みしだくたび、冷たく響く。
「まだ言葉が出るか。
見上げた“愛”だな。」
皮肉に満ちた声だった。
憐れみも慈悲もない。
ただ、人の愚かさを見下ろす冷笑がそこにあった。
「セラは……どこに……」
「心配はいらぬ。あの娘は無事だ。
お前が命を捧げるならば、彼女は神の御手に守られる。」
カイルの唇がかすかに震え、血の中で笑みが浮かんだ。
その表情を見て、モルヴァンは唇の端をわずかに吊り上げる。
「命を捧げる、か。
……お前のような愚か者がいるから、この世は神の試練に満ちる。
だが、ちょうどいい。お前の“愛”が、神の力となる。」
モルヴァンは祭壇の上に、淡く青く光る指輪を置いた。
銀の輪に刻まれた五芒の紋様が、わずかに震えている。
「神は風とともにあり。風は魂の道なり。
お前の命を、その風に乗せよ。
セラを――“永遠に守りたい”と願うのだ。」
カイルは動かぬ両手で、かろうじて空を掴むように指を伸ばした。
胸の奥で、何かが弾ける。
熱が、血流を逆流し、骨を焼き、心臓を貫いた。
「セラ……お前を、守る……風に、なる……!」
叫びとともに、祭壇の上の指輪が光を放った。
礼拝堂の天井が軋み、蝋燭の炎が一斉に消える。
風が吹き荒れ、血と祈りと絶望の匂いを巻き上げた。
モルヴァンは目を細め、青光を見つめながら、ゆっくりと笑う。
その笑みは、神を嘲る者のものだった。
「見よ、神の奇跡を。
人の愛が、神に並び立った。」
祭壇の上に、ひとつの指輪だけが残った。
淡く脈動するその光は、まるで心臓の鼓動のように規則正しく震えていた。
カイルの姿はもう、どこにもない。
やがて、司教は指輪を掌に乗せ、静かに呟いた。
「風よ、あの娘を包め。
そして――再び、我らの神を試すのだ。」
外の世界で、風が鳴いた。
それは祈りでも、赦しでもない。
ただひとつの声――
「セラ――」
風が泣いていた。




