じわじわと
桃は夢の中にいた。
半明晰夢とでも言えばいいのか、そうと認識できているのに夢から逃れられないでいる。
夢は荒唐無稽なものだった。
年の離れた兄妹のうち実は魔族だった妹が、あろうことか兄を殺そうとしていた。そこに兄の友人である男子2人が駆け付け、それぞれ兄と妹を説得している。奇妙なことに人間の誰もが妹の事を恐れていなかった。それどころか妹に話しかけた男子などは同情を見せている。妹は見た目が幼くとも魔族だ、扱いに激昂して見せたが、誇らしげに自身の胸元を抑えたときに胸元にぶら下がるキーホルダーに気付いた。それは、武の達人と言って差し支えない兄が、悲壮な決意で妹に手向けた餞別だった。実力差に恐れおののいた妹は互いの能力を平均化して戦う事を提案し、兄はそれに頷いた。妹がにやりと笑い、魔法を行使する。その結果、兄妹は双子の様な見た目となっていて、傍観者のはずの桃は驚きを隠せず叫ぶ――
「ちーちゃん!?」
――同時にバチッと目を見開いて飛び起きて、
「リアルのときにそっちで呼ばれるの恥ずいなー」
「ひいっ!?」
突然声をかけられて驚きながら左を見た桃は、赤く光る双眸と目が合って小さな悲鳴を上げてしまったが、そこに居たのはいつものパーカーワンピースを着た翼だ。桃の椅子を引っ張ってきたところだったらしく、ちょん、と座った。
「んーー。ねえ、やっぱり怖い?」
首を傾げて尋ねる翼を見て、しまった、と思った。
見れば翼の表情は柔らかい。きっと桃を怯えさせないためだろう。自分は他人から恐れられる存在であると認識し、受け入れていると思われた。
魔族と聞いて驚きはしたけれど怖いとは思わない。記憶操作などは事情を知った今なら肯定的ですらある。
「まさか。怖くないですわ」
「そう? 気を使って無理してない?」
「昨夜のお話は現実離れしていて実感が無かったのですけど吹き出したお茶を魔法で集めるなんて実演見た後でしたし、翼ちゃんの正体がなんであれ誰よりも優しい性格なのはわたくしが知っていますもの」
「ん。信じる」
呟くように言う翼の表情は嬉しそうでもあり、いたずらっぽくもあった。
「桃ちゃんがお化け苦手なの知ってるしね」
悲鳴のことを指してるのだと直ぐにわかった。桃が心霊現象を恐れるのは事実だし否定する理由なんて無い。
「怖いものは怖いのですわ」
「んとね?」
「うん?」
翼が暖かい眼差しとしか言いようの無い表情になって何かを伝えよ!うとしている。桃は首を傾げつつ目線で先を促した。
「怖がりを笑うつもりはないけどさ、亡くなった途端に超常現象を起こせるなんて変だと思わない?」
「うっ……それは、そうですわね」
呟く桃を安心させようとしているのか、翼がニッコリ笑う。
「ね? お化けなんてファンタジーだから実在しないんだって。怖くない怖くない」
「魔族というファンタジーの代表がここに居ますけど?」
桃が思わず突っ込む。だけど翼は。
「実在してるからファンタジーじゃないよ?」
しれっと言い切って椅子から立ちあがりベッドに乗ってきた。そのまま体を寄せてくる。桃のお尻の横に手を着いたためだろう、ゆさ、と体が揺らされた。
「翼ちゃん?」
反射的に名を呼びはしたけれど、本能が警鐘を鳴らすより早く左腕を絡め取られ、胸に抱えられてしまった。密着された桃がジロリと睨む。
「――顔が近いですわ」
「何をしてもいいって言ってたじゃん」
そう返されて分別ある翼らしくないと思った桃だったが、一瞬考えて「ああ、ちーちゃんでしたわね」と声を漏らした。
「起こすときのお話ですわ」
「まだおはようを聞いてないよ?」
「そういう事でしたら――」
おはようですわの言葉を用意した桃は、翼の視線が自分の唇を見ている事に気が付いた。まさか?と翼の唇に目線を落としたら僅かに開いている。嫌な予感しかしない。
「翼ちゃん」
「うん?」
呼んだ瞬間にピクッと動いた。最初の音に反応するとかアスリート並ねと呆れる。
「もしかしてだけど、今ちーちゃんになってますの?」
「あははー!何言ってんの」
翼はケラケラと笑い、
「どっちもあた「やっぱりですわあ!!」オゴォっ!!」
開き直って唇を奪いに来たところに桃の右ストレートがカウンターで決まり、吹き飛んだ翼がベッドから転がり落ちた。
「次やったら――」
「痛いよぉ」
「――ぎゃあ!!」
警告しようとしたら右から翼の声が聞こえ、桃が悲鳴を上げて飛び跳ねた。落ちた瞬間に転移したらしいと理解したのはその後だった。卑怯な手を。
「モロ顔面じゃん。ただでさえ低いお鼻が潰れたらどうしてくれんのよー」
そう愚痴る翼は、赤い目も体もほんのり発光している。
「……あっさり治りましたわね。完全にチートですわ」
「えーー!ズルじゃないもん、生まれつきだもん!」
「お黙りですわ!次やったら容赦しねぇですわよ?」
「なんでーー!!」
「護身のために決まってますの。枠でのコメントが本性ならあなた間違いなく暴走しますわ」
「人前ではしないくらい弁えてるもん!」
「言質なんて取らせませんわよ? 人前でなくともダメに決まってますわ」
「ちっ」
「ああっ、舌打ちしましたわ!? ……ったく、油断も隙もないですわね」
呆れ気味に言う桃を翼が睨む。そして。
「仕方ないじゃない。好きになっちゃったんだから」
「あ、あ、なっ、なにを言ってますの!?」
コメントのテキストではない生の声での告白に、桃の顔が真っ赤に染まる。既に昨日聞いてはいるもののハイそうですわねと慣れるものでもない。
「くすっ」
翼が小さく笑った、と思った時には腕も抑える形で抱きしめられていた。
「ちょっ!? だから!!」
「なんもしないってば。実は奥手とゆーヘタレだからさ、これくらいは許してよ」
騒ぎかけた桃の耳に届いた寂しそうな声。瞬間、昨夜聞いた切ない事情を思い出す。翼自身が「厄介な恋」と称したその戦いで――彼女は選ばれなかった。
桃はどう慰めるべきか考えた。抱きしめ返す?いえ、腕を拘束されてましたわね。文字通り手も足も出ませんわ。そんな事を考えていたら翼が動いた。桃の拘束を解いて立ち上がる刹那、一瞬だけ距離がゼロになった。
「あは、ちょっとズルしちゃった」
翼はベッドから降りると、肩越しに振り向いて下の共用ソファの方を指差し。
「んじゃ、ごはん行こ。下で待ってるねー」
そう言い残して狭い階段を降りて行った。
「油断しましたわ」
桃は右頬を手で押さえて呟いた。
ほんの一瞬だけ触れた、柔らかい感触を思い出しながら。
あれから10日ばかり過ぎた火曜日。桃から見た翼はいつもと変わらなかった。
相変わらず桃の配信に来ると誰憚る事なくコメントで大好きと叫ぶくせに、リアルだと学園では1歩後ろを歩く様なお淑やかさを全面に出して大人しく、寮で一緒にアニメを見ているときでも――そこで桃は思考を止めた。
「うん?」
「どしたの?」
桃が隣を見た。クッションを抱えた翼が見つめ返している。瞳が赤いのは寮内に限り擬態を解いているからだそうで、信頼の証と言う事らしい。
「近いですわね」
「そう? 気にし過ぎでしょ」
お茶の入ったマグカップを取った翼は、ちびりと飲んでテーブルに戻すと、ぽすんと体をソファに預けて、桃の肩に頭を載せた。
「いやいやいやいや!恋人みたいにくっついていますわ!」
「女子校じゃ普通普通、んしょっ」
「どこが普通よ!!しれっと腕を絡めないで下さいまし!!」
「しっ!いいところだから静かにして」
「それはそうですわね!」
オタクの悲しい性を刺激されて画面に集中した桃をチラッと見ると、翼はこっそりほくそ笑んだ。
桃は過度の接触を嫌う。だから、少しずつ侵食することにした。その初手が、頬へのキスという一瞬のゼロ距離。
そして日常では。
一緒にいる時の距離をヒットアンドアウェイの様に揺さぶって、ふと落ち着いた時には最初より距離を縮めているというのを繰り返してきた。それも定規で測ったように10cmずつ。一気に詰めてもすぐに離れさえすれば、キスの距離よりは開いているのだから全く警戒されない。やがて体温を感じる距離すらも当たり前にして、傍に居る事に慣れさせる――今やってるのがその仕上げだった。そして。
「あ、そうだ。桃ちゃん」
「んーーなんですの?」
桃は物語に集中力を割いている。翼は偶然を装って二の腕の内側をスっと撫でて、性的な本能に自分を認識させる。
「――!?」
桃がピクンと反応しこちらを見たけれど、気付かない振りをして腕を抱え直しながら、ふと思い付いた事を尋ねる。
「この男の子ってどっちを選ぶと思う?」
「緑髪以外認めないですわ」
「うんうん、銀髪の子って本当はクローンで幼女だもんね」
同じ感覚だったのが嬉しくて、抱えていた腕を無意識にぎゅっとした。
(――っ! ふふっ、翼ちゃんも同じってことかしら)
密着に慣れさせるつもりで冷静に事を運んでいたのに気持ちが入ってしまったというのが真実だけれど、桃には肯定の仕草として正しく作用し、こちらはこちらで悪い気はしていないのであった。
逸早く変化を察知したのは菜乃花だった。
土曜日になって一緒にカフェでお喋りしていたときの事である。桃が紅茶の香りを愉しみつつ含んだとき。
「桃。ちーちゃんと会った?」
ふいにそんな質問をしてきた。
「ぶふぉっ!!」
桃は咄嗟に横を向いた自分を心の中で褒めながら、かろうじて零さなかったカップをソーサーに戻す。
「ど、どうしてそれを……」
口元をハンカチで拭いながら菜乃花を見ると、聖母の様な微笑みを浮かべてじっと見つめていた。
「ひいっ!こっちを見ないで下さいまし!」
「いや、正面にいるんだから見るでしょ」
「視線が痛いのですわ!」
「そう? なにか疚しいところでもあるのかしら」
「なんにも無いですわよ!」
「あら、あんなに熱烈なのに?ちーちゃんて意外に奥手なのね」
そう微笑まれて桃がハッとする。
これはカマかけと誘導尋問だと。
「の、のーこめんとですわ」
「ふふふ、そっかそっか」
菜乃花はニコニコと笑いながら、やっぱり会ったのね、と思っていた。
というのも、先々週の週末明けからちーが大人しくなった気がしていた。桃の配信枠では相変わらずだけれど、菜乃花の枠では愛を叫ばなくなったし、なにより来る頻度が減った。そして桃がその事を気にしていないのだ。こうして会えばちーの話をするのに、である。今も枠で一緒にアニメを見ていたときの反応を楽しそうに話していた。
「いいんじゃない? 2人とも男の人が苦手だし消去法もありだと思うわ。なんたって桃が楽しそうだしね」
誰と付き合おうが桃の自由だし、なにかの時は話くらい聞くとしよう。そんな菜乃花の包容力を、桃は当然のごとく察している。
「楽しい……えーーー、まあちょっと距離感のバグった子ではありますわね」
バグったというのならそれは桃で、じわじわと侵食されているのに本人が認識出来ていないのだから菜乃花にも伝わらない。
「へえーー。嫌そうな表情にならないって事は受け入れたのね」
「受け入れ……うーーん、慣れただけかもですわね」
「え?」
「え?」
2人ともキョトンとした顔で見つめ合う。そして。
「ちーちゃんが来なくなったのってまだ最近なんだけど」
「そですわね」
「桃、学校終わったら寮に直帰よね」
「そですわね」
「会って間もないちーちゃんに慣れたって……どこにそんな時間あるのよ」
菜乃花が首を傾げ、桃の目が見開かれ
「ああっ!!」
叫んだ。
菜乃花がじいっと見つめる。
桃の首がギギギと横を向く。
「桃って浅い付き合いは広いけど、深い付き合いだとニアぼっちよね」
「いっそぼっちと潔く」
ちら、と視線だけ菜乃花に送って頬をぷく、と膨らませる。
少しだけ身を乗り出した菜乃花は、テーブルに肘をつき両手を組んで顎を載せた。桃は目をちらちらと動かして落ち着きがない。瞬きも増えている。菜乃花の首が軽く傾いて。
「翼ちゃんか」
「ぎっくうっ!」
「もう襲われた?」
衝撃の問い掛けに驚いて顔を戻す。
「ななななにを言ってますの?パイセン」
「なぁんだ、バラ色でいいじゃない。あ、女同士だから百合色か」
「上手いこと訂正した気になってません??バラの意味を履き違えてますわよ、パイセン」
「ーーっ!!…………」
指摘されてハッとすると、菜乃花は無言で桃を見つめる。ただただ、見つめる。
「困ると黙って見るの止めて下さいまし!」
桃は視線から逃れるように横を向いた。