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遠ざかる夏背に想う

作者: 夕焼けの蜩

最早現代日本では、地域差はあれど9月までは夏日が続くことも珍しくは無いだろう。しかし、10月に入ると季節の様相は徐々に変化を遂げる。


私の住んでいるのは日本でも南の方である。特に今年は暑く、昼間は8月の入道雲の下程では無いが未だに蝉の声が聞こえる。昼間の気温も30度を超えることもしばしばだ。

一見すると夏の様であるが、身の回りの世界には端々に秋を感じる。夜は涼しく、鈴虫がどこからともなく共鳴する。空は青く透き通り、繭を軽く解いたような筋雲がどこまでも伸びている。気温は高くても雲の摩天楼はもうそこには無い。


夏は既にここには居らず、砂浜を歩いて行ってしまった。今は波に(さら)われ消えゆく夏の足跡を眺めているようなものだ。


加えて今日は雨であった。夏のコンクリートを焦がしたような独特の香りがする雨ではない。冷たく、湿気を纏った霧の立ち込める秋雨である。夏はその霧に紛れてより遠ざかってしまう。


私はいつ頃からだろうか、ずっと夏に囚われている。天を突く入道雲を切り裂くように進む飛行機雲。緑青色の海辺をひたすらに眺め、古いカセットテープを持ち出していつの誰が歌ったかも知れない曲を聴く。ひまわり畑が延々と広がる中、そこに佇む少女。夕焼けに照らされ、要塞のように空を覆う入道雲。レールの向こうに海を望む蝉時雨の中の無人駅。


これらは私を夏に執着させ、夏の消えゆく今でもその名残を探してしまう。それらは既に離れて行ったというのに。


しかし、私は夏にノスタルジックなイメージを持ってはいるのだが、体験が欠如している。夏に夏らしいことをしたのはいつが最後なのだろう。少年の頃、田圃の用水路を飛び越えて草で足を汚しながら走っていた夏はある。炎天下の中、いやに塩素臭いプールでメドレーの練習をさせられた夏休み。低い橋桁から川に飛び込み、先生に怒鳴られたクーラーの効いた職員室。


どれもこれもが夏の暖かく、優しい部分だ。

いつ頃から私の中で夏は哀愁を含んだものになったのだろう。

少年の頃は夏は遊ぶことで忙しかった。とても入道雲や海の恐ろしいまでの美しさに目を向ける暇はなかっただろう。


だか中学、高校に入ると夏は部活や勉強で忙しくなった。遊びの場も徐々に自然から離れていく。いつしか、私は夏の風景を家の窓から眺めるようになった。窓からはいつかの私が走り回る光景がありありと想起できる。それと同時に、夏を俯瞰し、生命の息吹の中に感じる哀愁が私の心を揺さぶった。


夏のノスタルジーは体験すると言うより、観覧するものである。それは家の窓から眺めているのかもしれないし、記憶の窓からなのかもしれない。私は恐らく後者であろう。


ともあれ、私の中で夏は決して手の届かない概念となってしまった。手を振りながら行ってしまった。季節外れの暑さと蝉だけを残して。


そして、手を振り去ろうとする夏を見ると毎年必ずこう思うのだ。


来年こそは、その手を掴んでやる。


結局、それは実行されず、また古びた記憶の窓から去りゆく夏背を眺めるだけに終わるのだろう。


それでも私は夏が恋しい。また来年。僕はいつでも待っている。





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