不思議な声
そしてその夜、クーラーのきかない部屋で俺は布団を敷いて横になっていた。
田舎だからなのか相変わらず虫の音がうるさい。それに慣れていないからなかなか寝付くことができなかった。そして夜とはいえ、多少暑いせいで喉が渇く。
もぞもぞと布団を抜け出して下へ続く階段に向かった。こっそり母さんの部屋をのぞくと、やはりぐっすりと寝ている。しかし、隣で寝ているはずのおばあちゃんの姿がなかった。
少し心配になった。おばあちゃんは今回軽い脳梗塞をおこしたらしいが、それが原因で認知症などを発症する可能性があると聞いたことがある。
麦茶を飲みに行くついでにおばあちゃんを探すか、とひとまず階段を下りて行った。
カーテンから月光が差し込んでいるせいか、居間は薄暗く、不思議な光に包まれている。電気をつけなくても中の様子がよく見えたから、そのまま台所に向かった。
冷蔵庫を開けて麦茶を探す。ひんやりした冷気が気持ちいい。麦茶が入ったウォーターボトルを取り出してコップに注いだ。
その時。
何かが聞こえた。
コップを置いてよく耳を澄ましてみる。これは…歌だ。
「なんだ?」
なんでこんな真夜中に歌が聞こえてくるんだ?
台所を出る。その歌声は裏庭の方の縁側から聞こえてきていた。
聞いたことのない、不思議な抑揚の歌だ。
でも何でだろう。なぜだか、俺はその歌を知っている気がする。
その歌に身体を搦めとられるように、俺は縁側に歩を進めていた。
縁側の傍までたどり着いて、驚いて立ち止まる。
そこには縁側に腰かけて歌っているおばあちゃんがいた。か細い、なのにはっきりと聞こえる、心地よい声で歌っている。
歌詞でなく、ラーララーララ―というかんじで歌っていた。メロディ的に子守歌のようだ。
うるさいはずの虫の音さえ止んでいるようだ。月夜の静寂の中で、その歌声だけが耳に入ってくる。
俺は声を出すことが出来なかった。
ただ目を見張って、その歌に聞き入っていた。
そして次の日、その場で寝ていた俺を憤怒の表情をした母さんが起こした。
「陽杜。冷蔵庫が開けっ放しだったんだけど?一体どういうこと?」
ミーンミンミンミンミン―。
「あっつ……。てか川ってどこだよ」
俺は炎天下の中、山をさまよっていた。
それはさっきのこと―。
「そういえば陽杜、この近くに山があるから、そこでちょっと涼んできたら?」
約三十分ほどのお叱りが終わった後、母さんが朝ご飯のソーメンをすすりながら言った。
「川?」
「うん。母さん子供のころはクーラーなんてないからよくそこで水遊びをして涼んでたわよ」
「水遊びねえ・・・。」
「陽杜、プールに行きたいって騒いでたじゃない?同じようなもんよ」
「全然違うよ」
といってもやることもないしなあ。ここはクーラーがきいてるけどテレビかゲームくらいしかできないし。せっかく自然豊かなところに来たんだから遊んでおいたほうがいいか。
ということで俺はソーメンを食べ終わるとさっそく川へ行くための準備をした。半袖に半ズボン。帽子をかぶって軽装のリュックに水と水着用のショートパンツをいれる。母さんがいれておいてくれたらしい。
それから俺が物心ついたときから持っている大事な石。橙色で太陽にあてると宝石のようにきらきらと光る。ずっと肌身離さずつけている。持っていないとなんだか落ち着かないのだ。ペンダント状なので首から下げて服の中にいれる。なくしたら大変だからな。よし、準備は万端だ。
さっそく行こうとしたところで、母さんに呼び止められた。
「あんた、そんな恰好じゃ虫に刺されるわよ。スプレーしなさい」
「えー」
「えーじゃないの。山にはダニとかいっぱいいるのよ。ほら、そこに直って」
そして俺はいやというほどスプレーを浴びせられた。もう、びしょびしょだ。
「いってらっしゃい。気を付けてね。夕方くらいには帰ってくるのよー」
「へいへーい」
片手をあげて軽く答える。母さんが言うには門をでてすぐ右に曲がり、十メートルほど歩けば登山口が見えるそうだ。俺はその通り歩きながら昨晩のことを考えていた。
「あの歌、なんだったんだ…」
お叱りが終わってからすぐ、俺はおばあちゃんに歌のことを聞こうとしたのだけれど、おばあちゃんはまだ眠っているらしかった。無理やり起こすわけにもいかないし、仕方ない。
「……あ、あった」
そこにはボロボロの看板があり赤い文字で「登山口」とだけ書いてあった。
「これ、登るのか」
この山は登山口でいきなり急斜面だった。角度でいうと斜め七十度くらいのかんじだ。しかし俺は運動神経は悪くないし太い木の枝や時々挟まっているレンガのおかげで案外すいすい行けた。
そしてそのまま、迷ってしまったわけである。
「川の音が聞こえるからその通りに行けばいいって母さんが言ってたけど・・・」
目を閉じて耳を澄ませてみた。木がそよぐ音、虫の鳴き声、水が湧き出る音・・・。
「おいで」
「え?」
鈴を転がしたような、綺麗な声が聞こえた、気がした。
「気のせいか」
今度こそ川の音を聞き分けようと思いまた耳を澄ませる。
「おいで」
聞こえた。今度ははっきりと。
「誰だ?」
あたりを見渡す。が、誰もいない。
「おいで」
また聞こえた。間違いない。誰かがそう言っている。誰だろう。
でも、不思議と怖い気持ちはなかった。むしろ安心するような、懐かしいような声。
その声につられるようにして、俺の足は勝手に動き出していた。昨日の歌を聞いた時のように。通常の登山道とは別の方向へ進む。
「おいで」
俺の歩くスピードは声が聞こえるにつれて速くなっていた。最後の方はほぼ全力疾走だった。
なぜだかわからないけど、俺はその声の主を一刻も早く知りたかった。足が枝にひっかかれても転んでも気にせずただただ声がする方向に走った。走って走って走って―。
気づけば宙に飛び出ていた。
「っ!!!!」
冷たい水しぶきが顔を濡らす。水の衝突音と下に見える大きな水流。
「滝だ」
呟いた瞬間、自分の体が下へ下へと落ちていくのを感じた。かぶっていた帽子が自分の頭から離れていくのがわかった。そのままどんどんどんどん落ちていく。
バッシャーン!!!
あれ、なんで俺こんなことになっているんだ?
水の中で不思議と冷静になっている自分がいた。
不思議な声に呼ばれて……それで今、滝つぼに落ちている。
ゴボリと自分の口から泡が漏れる。
あたりは薄暗くて冷たい。
え。嘘だろ。これ、俺死ぬんじゃ。
頭に母さんの顔が浮かんだ。笑っている。陽杜、と優しく呼んでいる。
ここで俺が死んだら母さんはどう思うだろう。しかも死因が不思議な声に呼ばれて滝つぼでおぼれ死んだ、だなんて。そんなの馬鹿みたいだ。絶対嫌だ。
手足を必死にばたつかせた。上へ上へいこうともがく。
でも、もがけばもがくほど自分の体は重たい鉛のように、下へ下へと落ちていく。
父さんの顔が浮かんだ。父さんも陽杜、と優しく呼んで頭を撫でてくれている。父さんが赴任先で俺が死んだなんて言われたらどう思うだろう。友達のみんなは?担任の先生は?
水はそんな俺の思いをあざ笑うかのようにぐるぐると渦を巻いて俺を沈めていく。
ああ、ダメだ。
多分これはもうダメだ。
・・・ごめん母さん、父さん、みんな・・・。
俺は諦めて手足の動きをとめる。そしてゆっくりと瞼をとじた。




