07
それからの話は、語るまでもない。
断りもなく部屋に入って来たロディに見つかったので、脱走は失敗。挙句、誤魔化そうとすれば大笑いされた。何がそんなに面白いのか知紗には疑問しか浮かばなかったが、人生何事も楽しむタイプの人間はいるものだ。彼もそういう人種なのだろう、と知紗は割り切って考えることにした。
それよりも今は、同じベッドに腰かけている彼から逃げられないことが問題だ。
(私……この人とキス、しちゃったんだよね……?)
あくまで心肺蘇生などの医療行為に近いものなのだろうが、色恋と無縁だった知紗にとっては一大事だ。羞恥心やら緊張やらでとにかく気分が落ち着かない。
そう思い、また魔力を与えようとされても困るので必死に距離を取っていたのだが、相手は信じられないことに魔法使い。彼が少し手を動かしただけで体が浮かび、引き寄せられるという摩訶不思議な現象を体験した。
魔力などある訳がないと思っていた知紗も、未知の力を目の当たりにしてしまえば信じる他なかった。
そうして、なす術もなく知紗は彼に捕らえられてしまったのだ。
しかし、だからと言って命が脅かされるかと言えば、そうではなかった。
その証拠に今、青年は知紗と向き合っている。
言葉を教え込むように、何度も、一言ずつ区切りながら音を紡いでいる。
それがどういう意味であるか、分からないほど知紗は鈍感でもなかった。
真剣な眼差しを見つめ返し、知紗は意を決した。
「…………ろ…………ろ、でぃ……」
躊躇いながらも言葉を返せば、目の前の青い瞳がぱっと大きく見開いた。薄い唇が優しく弧を描き、嬉しさを隠しきれていないような、そんな表情を浮かべる。
「〈そう! ロディ。僕の名前、ロディ。君は?〉」
発音は合っていたらしい。
ロディは何度も頷き、自分に向けていた人差し指を知紗に向けた。
先ほど引き寄せられた魔法を思い出してついビクリと体を震わせた知紗だが、少し身を引きながらも震える手で自分を指し示した。
「ち……知紗」
「〈……? チシャ?〉」
「ち・さ」
「〈ち、しゃ?〉」
知紗は沈黙した。
(……なんか、違うんですけど……)
ロディ達には、知紗の母国で発音されるさ行の音が少し訛って聞こえるのかもしれない。
――正しい音になるまで正すべきか、それともあだ名だと思ってそのままにするか。
知紗は悩みながらロディを見上げた。
「〈……ちしぇ? チ、シャ?〉」
困惑した視線は伝わったようで、ロディも首を捻りながら確かめるように何度も名前を口にしてくれた。
やはり、知紗の名前は『チシャ』と発音されていた。
なんだか面倒になって、知紗は黙って頷くことにした。
「〈んー……ま、いっか〉」
知紗が早々に訂正を諦めたように、ロディもなかなか大雑把な性格をしているようだった。
知紗が気にしないなら問題ないのか、彼は気を取り直して自分達を見守っている使用人達を指差した。
「〈トーマス〉」
「……とーます」
「〈ポール〉」
「ぽーる」
「〈ニーナ〉」
「にーな」
ロディの指は、執事、子ども、侍女を順番に指し示した。
紡がれた名前を素直に反芻すれば、彼は人差し指を立てた。
もう一回復唱するように言われたのかと思い、知紗は失礼を承知で一人ずつ指し示した。
「ぽーる。にーな。とましゅ……」
「〈トーマス、だよ〉」
「と、とーます」
「〈そう。いい子だ。僕の『花嫁』は覚えが早いね〉」
満足げに微笑みながら頭を撫でられ、知紗はきゅっと唇を嚙みしめた。
(子ども扱いされてる……?)
親にもあまり頭を撫でられた記憶がないので、異性に頭を触られるというのは少々複雑な気分になる。
だが、褒められること自体は悪い気がしない。
知紗は俯き、大人しく撫でられることにした。
その時、視界の端で銀色の毛並みがもぞりと動いた。
銀狼がリラックスした様子で床に腰を落としたのだ。
やれやれと言いたげな眼差しを向けてくる彼に、失礼だと思いながら知紗は指を向けた。
知紗の意を汲み取ったロディはすぐに答えた。
「〈『フェンリル』だよ〉」
「ふぇ……?」
「〈フェンリルと言っただけだ〉」
銀狼には本当に名前がないらしい。
なるほど、と知紗は頷いた。
次は、ロディが知紗の名前を呼ぶ番だった。
「〈チシャ。一緒に果物を食べよう〉」
「……なんて?」
知紗は助けを求めて銀狼を振り返った。
銀狼は答えた。
「〈果物だ。一緒に食べると言っている〉」
知紗はロディの顔を見上げた。
ロディは人当たりの良い笑みを浮かべると、トーマスを呼んで彼から器を受け取った。
知紗は目の前に現れた果実を見てひょいと眉を上げる。
「……これ、何?」
差し出された器の中に浮かんでいたのは、たくさんの粒がついた赤い実だった。表面がぶつぶつとしていて、ラズベリーのような形に見える。この世界の果物は初めて見るが、なんだかそのぶつぶつが気持ち悪いと思った。
水に浸しているその果実を一つ摘まみ上げ、ロディがゆっくりと発音した。
「〈イチゴ〉」
「……?」
「イチゴだ」
(あ……やっぱりこれ、いちごなんだ……)
想像通りの物で少し安心したが、それを口に入れられるかどうかは別の問題だ。
口元まで近づけられ、食べるように促されているのだと察した知紗は首を横に振った。
「〈美味しいよ〉」
「……」
「〈お願い。何か少しでも食べないといけないんだ〉」
「……」
どれだけ優しく声をかけられても口を開かない。知紗はきゅっと唇を引き結び、顔を逸らして拒絶した。
ロディはひょいと肩を竦めると、差し出していたイチゴをおもむろに自分の口に入れた。
「〈……ほら。何も入っていない〉」
半分だけ齧り、見せてくる。
自分が食べているところを見せて、安全性を訴えているのだ。
――そうまでして何か食べさせたいのか。
齧られた果物とロディを交互に見て、知紗は小さく息を吐いた。
ふさふさした銀色の尻尾が揺れ、床を叩いた。
「それを拒めば、また魔力を与えられるかもしれないな」
「……分かった」
知紗とて、これ以上他人の手を煩わせたいわけではない。
楽し気な狼の声にしぶしぶと器の中に浮いているイチゴに手を伸ばせば、自分を見つめる者達が一斉に目を輝かせた。
あまりに凝視されるので食べづらいが、気にしないフリをしてぱくりとイチゴを口の中に入れた。
プチプチと表面の粒を噛み砕いた時、知紗の目は見開かれた。
(うわ……何これ! めちゃめちゃ甘い!)
故郷の店で売っている果物では比にならない甘さだ。イチゴらしい酸味も少なく、甘さだけが口に広がる。少し残念なのは周りの粒を噛み砕く触感だけだが、それを差し引いても美味しいと思えた。
「〈美味しい?〉」
首を傾げているロディに、知紗は意味も分からず頷いた。
それに、ロディは表情を綻ばせたまま頷き返した。
「〈やっぱり君は敏い子だね〉」
(なんかよく分からないけど、やっぱり子ども扱いされてる……)
振り払って抗議したいところだが、言葉が通じないのではきっと上手く相手に伝わらない。何より、頭を撫でている本人が嬉しそうに笑っているので、水を差す気分も削がれてしまった。
知紗は無心になることにした。
人間、有事の際には食べられる時に食べておくべきである。パクパクとイチゴを放り込むことに専念していると、次は執事が紙袋の中から見慣れた果実を取り出した。
「あ……!」
差し出された物を見て、知紗は声を上げた。
「〈? ……リンゴを見たことがあるのかい?〉」
ロディが指差しながら首を傾げる。
見た目も知紗の知るそれと全く同じの果実は、真っ赤に熟れていて美味しそうだった。
知紗はこくこくと何度も首を縦に振った。
「〈これはこの国で最も高級な果実なんだけど……チシャの故郷では珍しい物でもないのかな?〉」
不思議そうに首を傾げつつ、トーマスから果物ナイフを受け取ったロディ。
凶器を手にした彼に、知紗は咄嗟に身構えて距離を取ったが、ロディは気にすることなくリンゴの皮に刃を差し込んだ。
「……わぁ」
人知れず感嘆の声が漏れた。
知紗はこの短い人生の中で料理男子と出会ったことがない。男性が包丁を使いこなす様をこんな間近で見たのは初めてだった。
するすると手慣れた様子で皮を剥き始めた彼に、知紗は釘付けになる。
その時ふと、知紗はロディの腕に巻かれた包帯に気づいた。
うろ覚えの記憶が間違っていなければ、そこは地下牢で会った時に知紗が噛みついた場所だ。
(初対面で噛みつくような女相手に、この人はここまでしてくれるんだ……)
お人好しなのか、それともこの優しさに裏があるのか。どちらか判断することはできないが、怪我をさせたことに対する謝罪もできないというのは居心地が悪い。
せめて言葉が分かればいいのに、とヤキモキした気持ちで腕を睨んでいる間にも、リンゴの皮は綺麗に剝かれていく。
最後まで器用に途切れることなく剥けた皮を摘まみ上げ、知紗は半目になった。
(え。何、この器用さ……私は桂剥きも満足にできないんですけど……これが料理男子の女子力?)
これはこれで女性としての自信がなくなる。
軽くショックを受ける知紗とは反対に、ロディは得意げに微笑んでいた。
「〈すごいでしょ? 僕の特技なんだよ〉」
「〈師匠……なんかすごい睨まれてませんか?〉」
「〈気のせい、気のせい〉」
知紗の嫉妬の視線に気づいたポールがロディに声をかけるも、またしてもロディは意に介していない様子だった。
皿の上で丁寧に切り分けたあと、彼は一切れ摘まんで知紗の口元に運んだ。
「〈はい。口をあけて〉」
「え」
知紗は首を振り、リンゴを受け取るべく手を伸ばした。
しかし、ロディがひょいと腕を上げたため、それは阻止されてしまう。
「〈チシャ。あーん〉」
「……」
なんでそうなる。
言葉が分からずとも、知紗はロディのしようとしていることを察した。
どうして人目のある状況でバカップルの真似をしなければならないのか。手ずから食べさせなくてはいけないほど、自分は子どもだと思われているのだろうか。
好物を前に難関にぶち当たってしまった知紗は、助けを求めるべく銀狼に目を向けた。
銀狼はすでに二人のやり取りに飽きたのか、大きな欠伸をして完全に寝入る体勢に入っている。
やむを得ず、次は従者達に目を向けた。
執事と侍女はただ生温い微笑みを返すだけだったが、少年はそうでもなかった。
ポールは知紗の訴えに気づき、ロディから皿を取り上げるとすんなり手渡してくれた。
「〈はい。自分で食べたいんでしょ〉」
皿を受け取った知紗は感動した。
素早くポールの手を握り、感謝の意を込めて握手する。
ポールはギョッと目を大きくさせ、慌てて顔を赤くしながら手を振り払った。
「〈ちぇ。もう少しでイチャイチャできそうだったのに〉」
「〈師匠! 花嫁をからかうのもほどほどにしてくださいよ〉」
「〈やだなぁ、ポール。僕はいたって真剣だったよ〉」
「〈余計にタチが悪いです! 見てください、彼女の物言いたげな顔!〉」
「〈真っ赤になっちゃって可愛いよね。初心なのかな……ますますからかいたくなっちゃうな〉」
「〈って、やっぱりからかってるんじゃないですか!〉」
胡乱な目でポールがロディを見つめる。ロディはニコニコと笑いながら知紗の隣で新しいリンゴを剥き始めた。
そんな二人の声を右から左に聞き流して、知紗はシャリシャリと音を立てながらリンゴを食べることに専念する。
ようやく食べ物を口にしたことが嬉しいのか、これ幸いとニーナが水をコップに入れて知紗に差し出した。
知紗はそれを少し見つめたあと、受け取ろうとした。
だが、知紗が手を動かすより先に、ロディがそのコップを手に取り、口に含む。
「〈大丈夫。何も入ってない〉」
「……」
それが自分を安心させるための毒見行為であるというのは理解した。
差し出されたコップを受け取り、知紗は素直に口づける。この際、間接キスだとかくだらない事は考えないことにした。
それよりも、ニーナの安心した顔が視界に入り、またしても自分の態度を思い返して居心地が悪くなった。
「〈少しずつでいい。こうして慣らしてあげてくれ〉」
「〈かしこまりました〉」
ロディの指示に頷くニーナの隣で、トーマスが知紗に新たなリンゴを差し出す。
「〈チシャ様。もう一ついかがですか?〉」
知紗は首を横に振り、満腹を知らせるべくお腹を叩いた。
トーマスはにっこりと微笑んだ。
「〈それはようございました〉」
(……変な人達)
知紗はぽつりと心の中で呟く。
言葉も知らない女など、気味が悪いだろうに。それでも彼らは嫌な顔一つ見せず、優しく自分に接してくれる。
(本当に……助かった、のかな……)
誠意はしっかりと受け取った。
彼らの善意は本物なのだ。
それなら、次にやるべきことは一つだけ。
(ここで世話になる間に、少しずつでいいから言葉を覚えよう……)
そして、きちんと謝罪と感謝の気持ちを伝えなくては。
そう心の中で誓いながら、知紗は大人しく残りのリンゴを口に放り込んだ。
ちらりとロディの顔を見上げる。
瑠璃色の瞳は、視線が交わる度に優しく笑んだ。
その笑顔にドキッと心臓が高鳴ったが、知紗は平然を装ってそっぽを向くしかなかった。
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