旅のきっかけ -4-
露天風呂から上がったあと、客室に用意された料理を二人で食べた。
旅館から出されている浴衣に着替え、お互いに向かい合って夕食を口に運んでいく。
豪勢な料理だったという記憶はあるが、あとから考えるとどんな料理だったか、どんな味だったかもまったく覚えていなかった。作ってくれた料理人さんたちには申し訳ないが、お互い一言も発することができず、ただひたすら料理を口に運ぶだけになってしまった。
食事中、晴礼は俺の顔を窺うようにちらちらと視線を向けてきていた。しかし俺は、申し訳なさのような気持ちが心の中を渦巻いて、なにも答えてあげることができなかった。
最後の一品まで綺麗に食べ終えたところで、俺は箸を置いた。
「……悪い、ちょっと外で風に当たってくる」
いつも持ち歩いている小物入れのショルダーバッグだけを背負う。
「ぁ……」
後ろで晴礼が口を開きかけていたが、それが音となって届く前に、俺は部屋を出て行った。
フロントの人に一声をかけ、そのまま浴衣姿で夜の温泉街へと繰りだしていく。
すっかり日が暮れた下呂の温泉街は、昼間よりさらに涼しくなっており、湯上がりの火照った体を冷ますように撫でていく。
歩くたびにからんからんと、下駄が軽快に音を立てる。
特に行き先を決めていたわけではない。ただふらふらと温泉街に体を向けた。
やがて行き着いた場所で、塀の上に腕を乗せながら深々とため息を落とす。
下呂の温泉街を一望できる、【温泉寺】というお寺だ。
星が瞬く空の下で、街灯に照らされた温泉街が息づいている。
夜のお寺や神社は、古い建物や現代とは違う雰囲気も相まって本能的に怖いと思われることが多い。だけど、日が暮れたあとのお寺や神社は、そのときにしか味わえない趣や楽しみ方があるものだ。もっとも【温泉寺】に来るまでには、道中墓地も通らなければいけないので、相応のスリルも味わう必要があるが。
人が少なければ、それだけゆっくりと楽しむこともできる。……思えば、俺はどこに行っても人が少ない時間ばかりを訪れている気がする。根暗なのかな。知ってるけど。
「ああぁ……帰りたくねぇ……」
夜風に当たりながら、腕に顔を埋めて情けない声を発する。
旅館に帰ることがひどく憂鬱だ。
もうじき一月たつ晴礼との旅の中で、こんな気持ちになることは一度としてなかった。
基本的に、俺は異性が得意ではない。嫌いというわけではないが、あまり近い関わりがなかった分、友だち以上の接し方をされると耐性がついていかないのだ。
しかし、晴礼は年下で異性だが、それでも男女のあれこれなどに気を遣わせることもなく接してくる。俺自身も気を遣うことなく接することができてきたのだ。だから別に俺が晴礼の体に触れてしまったとか、俺の半裸を晴礼に見られてしまっただとかは、自分でも驚くほど気にしてはいなかった。
たしかに、思い返せば恥ずかしいは恥ずかしい。だが、小っ恥ずかしさの中でも、相手が晴礼だからという理由で、それ以上落ち込むことはなかった。
晴礼がいる空間が、俺の中で当たり前のものとなりつつある。だから本当に恋人同士のような触れ合いがあっても、起きてしまったとしても、俺はそれほど動揺することは、きっとない。
俺が、気にしているのは。
「あ……」
【温泉寺】からの下の温泉街へと伸びている階段から、声が上がる。塀の上から視線を向けると、そこには同じ浴衣を着た少女が目を丸くして立っていた。
俺はここに来て、数十分は呆けていたはずだ。反応を見ても、あとをつけてきたわけではないだろう。階段を上りきり、俺の顔色をうかがうように視線を向けてくる少女、晴礼に俺も視線を返す。
そして、ため息を吐きながら肩を落とした。
「風邪、引くぞ」
「……それは、渉瑠センパイもですよ」
晴礼は笑った。小さく、安心したように、夜空に浮かぶ月のように儚げに。
やや気後れするように、おずおずと俺の横へと並ぶ。
「いい、景色ですね」
「ああ、いい眺め、いい〈まほろば〉」だ」
【下呂温泉】の温泉街は、不思議な雰囲気を持つ。
温泉という一つの基盤に様々なものを積み上げ、千年も以前から発展し続けた街。自然災害などで何度壊れても、それでも何度も立ち上がり、そして今の形となっている。この街はこの街を好きだという思いで成り立っている。その思いが、現代でも、そしておそらくこれからも、人から愛される街たらしめる。
不意に、鞄に入れていたスマホが音を立てた。
大地からのラインだった。
『最近、普段の何倍も渚の寝起きが悪いんだけど、なんか知らないか? 一日中不機嫌なんだけど』
俺は、小さく吹きだしてしまう。
そして、返信を打つ。
「どうしたんですか?」
首を傾げてくる晴礼に、やりとりを見せる。
『俺がそっち出たの何日前だと思ってるんだよ。なんか、あれだろ、生理だ生理。直接聞いてみろ。兄の威厳を見せるときだ』
やりとりを見た晴礼は、頬を引きつらせて笑う。
「センパイ、平気ですごいことやりますね……」
晴礼が見ている間に、新たに返信があった。
『殴られたよ! やっぱりおめぇのせいじゃねぇか! 絶対そうだと思ってたんだよ!』
『どんまい』
と適当なラインを送り返して、スマホを下ろす。
再び、沈黙が流れる。
大地との慣れたバカなやりとりをしても、心にかかったもやがなくなることはない。
晴礼は口の端を結んだまま、言葉を発さない。
俺は下呂の街に目を向けたまま、小さくため息を漏らした。
「悪いな。嫌なもの、見せて」
暗い夜空の下でも、晴礼の顔はなぜか手に取るようにわかった。晴礼の表情が曇り、困ったように笑みを浮かべていた。
「センパイ、さっきから悪い悪いって、謝ってばっかりですよ。謝らないといけないのは、私の方なのに……」
顔を伏せ、小さな声で、それでいて泣き出しそうな声で、晴礼は言う。
「ごめん……なさい……」
「お前が謝るようなことじゃないよ」
言って、俺は浴衣の上から自分の胸に手を当てる。
薄い布地の下で、とくんとくんと、脈打つそれ。
「本当に、晴礼に対して怒っているわけじゃないんだよ。まあ、露天風呂に乱入してきたことには文句の一個でも、いや百個くらい言ってやりたいが、それは別の問題だ。俺はこの傷を誰かに見られることに、抵抗がある。ただ、それだけなんだ」
胸から離した手を、あの日と同じように、握りしめる。
「この胸の傷は、俺の罪。それと同時に、旅のきっかけになったものだから……」
「罪って……」
その先に言葉が続く前に、ぽんと晴礼の頭を叩く。
「そろそろ帰るぞ。本当に、風を引いちまう。旅はまだ、終わってないんだからな」
「……はいっ」
ほっとしたように、嬉しそうに晴礼は笑った。
Θ Θ Θ
「こんな布団敷くか普通……」
「そ、そうですね……」
部屋に戻ると、食べ終わっていた食器類は片付けられ、その代わりに一枚の布団が敷かれていた。
布団が一枚だけ、一枚だけなのだ。二つの布団をくっつけたようなキングサイズの布団が、一枚だけ敷かれている。枕も寄り添うように、二つ並べられていた。いや、こういう布団はあるんだろうけど、その、老舗温泉旅館が使うものじゃないだろ。
なに考えてんだよ千波さん……俺に、一体なにをさせるつもりなのよ……。
今日何度目になるかもわからないため息を、長々と落とす。
「あー。畳だし、俺は隅で雑魚寝するから、晴礼は布団で……」
逃げだそうとした俺の袖と、小さな手がくいっと引いた。
低い位置にある晴礼が、頬を赤く染めて、曖昧な笑みを浮かべていた。
「……大丈夫……ですよ?」
「いや、欠片も大丈夫じゃないから」
なにかあるとかあるとかの問題ではない。ダメなものはダメである。俺としては当たり前のことを言っているつもり。
しかし晴礼は、少しむっとしたように口を尖らせた。
「これでも私、本当にセンパイのこと信用してるんですよ? セ、センパイがその、エ、エッチなことをするとかも思ってません。せっかくの温泉旅館なのに……」
言葉を紡ぎながらも、それでも羞恥が勝ってしまったのか、顔をさらに赤くし、晴礼は俯く。
「だから、その、センパイっ……一緒に、寝ましょ?」




