ダリアの花束
ピンポーン。
インターフォンの音が部屋に響いた。
僕は天井から吊り下げられた縄の先にある輪の中から首を抜き、玄関へと向かった。
「こんな時間になんだろう…」
声に出しながら扉を開けても目の前には薄汚れたアスファルトの床が広がっているだけ。
「いたずらか…」
ゆっくりと部屋に戻った後目の前の縄を見て、
「今日はもう、やめよう。」
自然と口から言葉が出た。
「明日の授業はもう、いいや。」
午前2時を指した時計を見ながらベッドに身を投げ、深いような浅いような眠りについた。
そう、僕は自殺しようとしていたのだ。
理由は―――――恋人が死んだから。
僕と彼女との出会いは大学の講義。
僕も彼女も大学の法学部で、学科科目を受けている時だった。
「すいません、シャーペン持ってくるの忘れてしまって…もしよかったら貸していただけませんか?」
大きなあくびをしながら遅刻間際の時間にたまたま空いている席についた僕に隣の生徒が声をかけてきた。
振り向くとノートには「影山向日葵」と綺麗な文字で書かれており、朗らかな表情の真っ直ぐな目をした美人な女子生徒がそこにいた。
「ああ、どうぞ、はいこれ。」
その真っ直ぐな目に一瞬たじろいでしまったが、特に断る理由のなかった僕は、寝癖のひどい頭をかきむしりながらシャーペンを貸した。
「ありがとうございます、授業が終わったらお返ししますね。」
お礼と共に向日葵の名に恥じない、ゆったりとしたどこか安心感のある笑顔が返ってきた。
そこからは彼女のことが気になって仕方なかった。
僕が居眠りをする前もした後も同じぐらいの集中力で板書をノートに写し続けていた。
居眠りから起きた後はその凛とした横顔をただひたすらに見ていた。
「真面目でかわいい、素敵な子だ。うちの大学にこんな子がいたんだな…」
と、彼女に対してろくな語彙力もなく率直に思った言葉を頭の中で羅列していると、一気に現実に引き戻すかのような大きなチャイムが講義の終わりを告げた。
「あの、これ、ありがとうございました。お名前は…」
「あ、えーっと…」
名前を聞かれたときにこれほど緊張したのは初めての経験だった。
うまくロレツが回っていない僕に彼女は、
「ごめんなさい、名前を聞くときは普通先に名乗ってからですよね!私の名前は…」
「影山向日葵」
「え?」
咄嗟に口から出てしまっていた。
恥ずかしすぎて顔から火が出るのはこのことかと身をもって感じた。
「あ、その、ノートに書いてある名前を見てしまって。すいません。」
「ちょっとびっくりしちゃいましたけど、全然大丈夫ですよ!それで…」
「あ、うん、僕は黒田…明といいます。」
彼女の前でこの名前を言うのは少し身が引けた。
当たり障りのないモノトーンで揃えた地味な服に目が隠れてしまうのではないかぐらいの重い前髪、性格も少し根暗で友達なんか0に等しい。
「明るい」の「明」という名が一切似合わないような人間であり、名前と人間が似つかわしい彼女とは正反対であると感じたからだった。
「明さんか…いいお名前ですね!それじゃあまた!」
そういうと彼女は他の教室で講義を受けていたであろう女子生徒数人と合流し、どこかに行ってしまった。
僕は初めてこの名前で生まれてきたことに感謝した。
彼女に褒められたというだけで。
そしてこのときこれが俗にいう一目惚れというものなんだということも理解できたし、信じていなかった一目惚れというものがあり得るということに少し驚いていた。
次の週も案の定寝坊をし、遅刻間際に教室に入った。
いつもと同じことを繰り返していた。
ここから空いている席を探すのだが今日は違った。
影山向日葵を探していた。
「あ、いた。席は…空いてるな。」
事実を脳で処理する前よりも早く体は彼女の方へ向かっていた。
席に着くと彼女は、
「あ、明さん、おはようございます!」
と寝起きには心地の良いトーンで話しかけてきた。
「おはよう…ございます。」
いつもと違う出来事への新鮮さ、楽しさを感じつつもその後はいつもの通りに机に突っ伏したまま眠りへと着いた。
はっと起きたときには講義が終わり、生徒がゾロゾロと教室を後にしていた。
もう隣に彼女の姿はなかった。
帰りに少しでも話すチャンスを失った喪失感と同時に来週も同じように隣に座れたらどんなにいいだろうかという期待感を同時に抱いた複雑な感情を胸に、僕も教室を後にした。
次の週もその次の週もその時間だけを楽しみに大学に向かった。
まず、影山向日葵を探し、隣の席が空いているかを確認する。
空いているか空いていないかで一喜一憂しながらも空いているときは必ず隣に座った。
毎回隣に座って気味が悪いと思われないか心配に思うこともあったが、そんなことよりも彼女と接したいという欲望の方が上回っていた。
彼女は毎回僕を卑下するような目は一切せず、笑顔を振りまいてくれた。
そんな彼女に僕はどんどん溺れていった。
こんなことを続けていけば話す頻度が上がることは必然で、僕達はいつの間にかタメ語で話すぐらいに仲良くなっていた。
ある日の講義終わり、いつもはそそくさと教室を後にする彼女だったが、その日は違った。
「明、この後のお昼、空いてる?」
「え?まあ、空いてるけど、なんで?」
あまりの驚きにきょとんとしている僕に彼女はこう続けた。
「いつもお昼一緒に食べてる友達たちが今日はサークルの集まりがあるんだってさぁ。私はそのサークルに入ってないから1人になっちゃってね、1人でお昼食べるのも寂しいじゃん?だから明空いてないかなーって!もし空いてるなら一緒にご飯食べない?」
雷に打たれたような衝撃。
言葉を発することができなかったが僕はコクリと頷いて見せた。
「やった、じゃあいこ!近くに美味しいパスタのお店があってさ〜。」
近くの飲食店が並ぶ賑やかな通りへと2人でくりだした。
このときのことはちゃんと覚えていない。
嬉しさのあまり極度の緊張、気が動転していたのだろう。
ただ、人生で味わったことのない多大なる幸福感と連絡先を交換したという事実だけは僕の中と携帯電話にしっかりと残っていた。
この日を境に連絡を頻繁に取るようになり、講義以外でもご飯を食べに行ったりと会うことも多くなっていった。
そうこうしてるうちに梅雨の明けた蒸し暑い日々がやってきた。
梅雨明けはジメジメとした空気から一気に猛暑へと変わり、大学生はすでに夏休みムード。
お祭り騒ぎだった。
皆浮かれ始める時期だが、僕は憂鬱な時期に差し掛かっていた。
そう、テスト期間だ。
しかし、彼女とテスト勉強をすることになった僕は憂鬱というよりか気分が晴れている初めてのテスト期間となっていた。
空調設備がしっかりとなされた図書館は外での猛暑を忘れさせるぐらい気持ちが良かった。
少し待っていると彼女がやってきた。
「あっついね〜、明、大丈夫?死なない?」
「こんなんじゃさすがに死なないよ。」
THE大学生というような会話から始まり、お互いに机に向かい始めた。
すると、本来机に向かった瞬間から集中しだす彼女がそっと口を開いた。
「明ってなんか、明るくなったよね〜、知り合ったときよりも全然!」
「そうかな、そんなことないと思うけど。」
口では否定しつつも自分でも明るくなったことは自覚していた。
彼女のおかげということもわかっていた。
「そういえばさぁ、明はどうして法学部なの?」
彼女はいつものように笑顔で唐突に疑問を投げかけてきた。
「え?ああ、僕は刑事になりたいって思っててね。単純なんだけど悪いことをした犯人を逮捕するとかかっこよくて。警察24時とか大好きなんだ。」
初めて他人に夢を話した。
こんな恥ずかしいことは絶対に言うもんかと思っていたけど彼女にはすんなりと話してしまった。
しかし、昔自分がいじめられていたところを刑事に助けてもらってそこから刑事になりたいと思うようになったという動機だけは偽った。
「へー、刑事かぁ、かっこいいじゃん!すごく!」
「あ、ありがとう。でもね…」
「ん?」
「最近冤罪とか、主に自白強要とかが目立ってきてて…僕はそんなこと刑事がするわけないって思ってるんだけどね。確かめたいけど確かめる術はないから。もし仮にそんなことをする刑事がいるなら…いらない。そんな刑事がいる警察で僕は刑事になりたくない。だからいずれは確かめられたらいいなっていうのが僕のちょっとした夢なんだ。」
「ちょっと怖いけど具体的にいろいろ考えてるんだね、すごいなぁ。」
「向日葵はどうして法学部に?」
「私はね、昔ドラマで見た弁護士がすごく印象に残っててさ。自分の思っていることをひたすらにぶつけ合う。私もこういう人になりたいって思ってたらいつの間にか弁護士目指してた。」
さすがの彼女でも恥ずかしかったのだろうか、頬を赤らめながらに話してくれた。
「弁護士になりたいって思ってからはすごく興味が湧いちゃって、『逆転裁判』っていうゲームにのめり込んだりしちゃってて。今でも大好きでよくやるんだ〜」
「『逆転裁判』、僕もすごく好き。ゲーム全般そもそも好きなんだけどたまたまやり始めたら刑事の証拠とかが鍵になってたりして、ずっとハマってる。」
「え!?ほんとに!?最新作とか持ってる?」
「うん、この前出たやつだよね?すぐ買っちゃった。」
「そうそう!私テスト明けに買おうと思ってて!テスト終わったら一緒にやろうよ!」
「うん、わかった、やろう。」
目をきらびかせながら必死に誘ってくる彼女を見て、自然と僕も笑顔が溢れていた。
そして勉強が終わった帰り際、僕にこう伝えた。
「お互いの夢、叶うといいね!私、明の夢応援するし協力するからね!」
テストが終わり、無事に僕と彼女は単位を取得した。
テストが終わってからは彼女とよく遊ぶようになってどんどん彼女に惹かれていった。
取り合っていた連絡も待ち時間すら疎ましく感じるようになり、すぐ返信するぐらいもうどうにもならなかった。
決心して誘った夏祭り。
金魚すくいや、ヨーヨー釣り、焼きそば、りんご飴など余すことなく満喫した。
「楽しいね!来てよかった!」
「僕もだよ。」
僕と彼女は常に笑っていた。
一通り楽しんだ後、僕は彼女に告白をした。
この関係が崩れるかもしれないという凄まじい恐怖を抱えていたがもう抑えることはできなかった。
彼女は静かに頷いてくれた。夢を語ったときよりも恥ずかしそうな、耳まで真っ赤になった顔が打ち上げ花火の光に照らされていた。
コンクリートでさえも溶けてしまうような猛暑であった夏休みも明け、季節の変わり目を知らせるかのような風が吹くタイミングで僕達は大学生活へと戻った。
僕たちの大学は珍しく秋学期からゼミに入る。
向日葵と出会い、付き合ってからさらに変わっていった僕は向日葵と異なるゼミだが友達ができ、順風満帆な生活を送っていた。
とある日のゼミ終わり、彼女と夕飯を食べる約束をしていた僕は、彼女が来るのをまだかまだかと待っていた。
僕の所属していたゼミが早く終わった後のことだったので、彼女のゼミが終わる時間が待ち遠しかった。
ゼミが終わるチャイムが鳴って少し経ち、向日葵は向かってきた。
隣を歩くとある男にとびきりの笑顔を振りまきながら。
僕の心に何かが刺さった。
何が何だかわからなかったが、気持ちのいいものではないということだけはかろうじて理解できた。
僕の目の前で2人は別れ、向日葵は、
「明、ごめん、お待たせ!」
と、とある男との会話の楽しさの余韻を残したテンションで話しかけてきた。
「う、うん…」
「大丈夫?なんかあった?」
「いや、全然。じゃあ行こうか。」
「うん!今日なに食べようかな〜!」
夕飯を食べ終わり向日葵と別れた後も、心に何か刺さった違和感が取り除かれることはなく、その日はその違和感と共にベッドに入った。
ゼミが終わった後に会うときは必ず向日葵の隣にとある男がいて、楽しそうにしていた。
その光景を見るたびに何かが心に深く鈍く刺さっていった。
また夕飯を一緒に食べていたとき、向日葵がとある男のことについて話をしてきた。
「そういえば陽さんがね、今度司法試験のことについて教えてくれるらしくてさ〜、ほんとにいい人なんだよね!」
「ごめん、陽さんって誰?」
「あれ、話してなかったっけ?」
とある男の名前は太田陽。
僕達の2つ年上で、彼もまた弁護士を目指しているということで向日葵と意気投合しているということがわかった。
写真を見せてもらうと、見た目、身長、着ている服装などほとんど僕と似ていた。
明白な違いといえば、太田と僕の纏っているオーラだった。
太田は生まれてからずっと人と接し、常に明るく振る舞う、俗にいう「陽キャ」と言えるような雰囲気を醸し出していた。
そしてプライドはとても高そうだった。
あだ名は名字と名前から取って「太陽」。
そのあだ名に引けを取らない、そんな人物だった。
それからはゼミでなくても向日葵と太田は一緒に勉強していたりと2人が会う機会が徐々に増えていった。
ある時偶然2人が一緒に歩いてるところで僕はすれ違った。
「あ、明!」
「ん?ああ、向日葵。」
「もう、なにそのよそよそしい感じは!」
僕は2人が一緒にいるときに会いたくはなかった。
心に刺さっている何かがより一層刺さっていくのを感じるからだった。
怪訝な面持ちをどうにか出さないようにしていると、太田が話しかけてきた。
「明くんだね、俺は太田陽。向日葵から聞いてるかな?向日葵がいつも楽しそうに君の話をするから一度挨拶しとこうと思ってさ、よろしくな。」
「あ、よろしくお願いします。」
「ちょっと陽さんやめてくださいよ、恥ずかしいから!」
「あーごめんごめん、それじゃあ明くん、俺達これから授業だから行くわ。」
「はい、それじゃあ。」
いきなり太田から話しかけられたことによる驚きはあったが、それよりも向日葵がいつも楽しそうに僕の話をしてくれているという事実を知り、何かが刺さった心が少し救われた気がした。
だが、来る日も来る日も向日葵と太田の2人は共に行動するようになっていった。
それを見た僕のゼミの友達が、太田は昔はやんちゃしてていい噂がない、気をつけた方がいいかもと助言をくれた。
何かが刺さった心を持つ僕にとって、もう限界だった。
嫉妬、困惑、憤怒、羨望。
何もかもが入り乱れていた。
せっかく変わっていった自分が元に戻っていってしまうようにも感じさせた。
そんなとき、向日葵から1件のメールが届いた。
「明には本当に申し訳ないんだけど、明日の休みの日、陽さんと司法試験の勉強したくて、図書館で会ってきてもいいかな?明には伝えておかなくちゃと思って。」
身も心も凍りついた。
嫌だ。行くな。やめてくれ。太田は危ないかもしれないから。僕の側にいてくれ。
何度もメールにそう書いた。
だが、向日葵のために、向日葵の夢のために僕は邪魔することはできなかった。
ただ一言、
「うん、わかった。」
とだけ返信をした。
次の日、僕は2人を尾行していた。
尾行せずにはいられなかった。
刑事志望の僕にとってバレないように尾行するのは簡単だった。
図書館での勉強を終えた2人は夕飯を食べに行き、そのまま太田が向日葵を家へと送っていった。
そのまま終わればよかった。
だが終わらなかった。
向日葵の家のすぐ近くで何かを話している様子であり、僕は見るに耐えず目を離してしまった。
何かあってはいけないと見る決心をして再び見るとそこには、顔と顔を重ねている2人がいた。
少し遠目からでも何が起こっているのかを理解するには十分すぎる距離だった。
再び目を離すことしかできなかった。
刺さっていた何かがついに僕の心を破壊した。
どうして…どうして…
なんで…なんで…
やめてくれ…やめてくれ…
やめろやめろやめろやめろ。
考えることを反射的に拒絶。
何も考えられなくなっていった。
意識は朦朧とし、自我を保てているかどうかさえ不明であった。
そして数日後のことだった。
向日葵は死んだ。
今までに起こったことを夢にみた。
長い長い夢をみて起きた時間はすでに午前が終わっていた。
案の定講義には行けなかった。
そしてまた天井から吊るされた縄の前に立つ。
縄の先の輪に顔を通したとき、突然ふと彼女の言葉が頭によぎる。
「私、明の夢応援するし協力するからね!」
頭によぎってからは何度も何度も頭を駆け巡る。
「そうだ…」
僕は生きる目的を見つけた。
向日葵が死んでから警察署に赴いていた。
警察に着いてからは個室に通され担当刑事が来るのを待った。
少し待っていると時間きっかりに担当刑事がやってきた。
相変わらず自信満々な顔立ちといかにも仕事ができるというような風格を持っていた。
「黒田くん、警察署に呼んでしまってごめんな。」
彼は、忍田優さん。
刑事の中ではかなりのエリートのようで、今まで数々の事件の犯人を逮捕し、難事件を解決、顔立ちと風格に見合った活躍をしている。
僕の憧れの人であり、ずっと目標としていた人。
ネットで記事を読み続けているほどだ。
「いえ、全然です。」
忍田さんは気難しい顔をしながら話を始めた。
「それで今回の事件なんだが、かなり厄介でね…検体結果から自殺ではなく他殺ということはわかったんだが、証拠が一向に見当たらなくてね、俗にいう完全犯罪というやつだ。」
「そうなんですか…向日葵は恋人だったんです。」
「ああ、そうなのか。恋人が亡くなった事件が完全犯罪なんて言い難いことであるが許してくれ。しかし、警察の威信にかけて、必ずこの事件の犯人を逮捕してみせる。必ずな。」
忍田さんはいつも通りの自信満々な顔をしていた。
「はい…」
「それでなんだが…影山さんが亡くなったとき、黒田くんはどこで何をしていたんだい?」
「もしかして、僕を疑っているんですか?」
「申し訳ないんだが、証拠がない以上黒田くんが犯人ではないと言い切ることはできないからね。とりあえずは影山さんと親しい間柄の人たち全員をしらみつぶしに話を聞いているところさ。」
「なるほど、わかりました。僕は家でずっと僕と彼女が好きだったゲームをやっていました。気を紛らわすにはこれぐらいしかやれることなくて…なにせ恋人が死にましたから…人に会う気にもなれなくて…これがアリバイとして不十分なのはわかっていますが…申し訳ありません。」
途切れ途切れの話でもしっかりと忍田さんはしっかりと聞いてくれた。
「いや、何も知らないよりは全然いい。辛いだろうに話てくれてありがとう。今日はもう帰ってゆっくり休んでくれ。」
「はい、ありがとうございます。あの…」
「ん?どうかしたかい?」
「絶対に犯人を捕まえてください。」
「ああ、約束しよう。」
忍田さんはしっかりと言い切ってみせた。
家に帰った後、今日はいつもより疲れ、夕飯をろくに食べずに寝てしまった。
また次の日も僕は警察署にいた。
忍田さんの自信満々な顔立ちが笑みを浮かべていた。
「黒田くん、君の住んでいるところの大家さんが君の部屋の電気はずっと付いており、微かにゲームの音も常に聞こえていたと証言してくれた、君のアリバイ成立がこれで少し近づいたよ。よかったよかった。」
「そうですか…」
「どうした?そんなに暗くて。」
「いえ、なんでもありません。」
「まあ犯人が捕まったわけではないからな。笑ってはいられないな、失礼した。」
「いえ、大丈夫です。」
「ああそれから、話を聞いていった結果、犯人と思わしき人物が浮上したよ。まだ可能性の話だがね。」
「それは誰ですか。」
「太田陽くんというんだが、知っているかね?」
「知り合いって程度ですが知ってます。同じ大学の2個上の先輩です。」
「ああ、そうだったのか、彼にはアリバイが全くなくてね。彼はずっと出かけていたの一点張りなんだ。」
大学でいい噂を聞かない人だ、何か隠してるのかもしれない気がした。
「とりあえず彼をもう少し調査してみるよ。黒田くんは今日はここまでで。」
「はい、失礼します。」
太田のことを少し考えつつ、僕は帰路に着いた。
向日葵の死から少し経った頃、いろいろなことが起きすぎて頭の整理が追いついていなかったが、少し落ち着いたので大学に行くことができた。
秋が終わり、体へと突き刺さるような寒さの季節がやってきた。
ゼミの先生や友達から大丈夫かと声をかけられながらもきちんと学生としての責務を果てしていた。
ゼミを終えた後、見覚えのある人とすれ違った。
太田だった。
だが今までの太田とは違い、オーラも何もなく、憔悴と疲弊が垣間見えるほどになっていた。
「明くんか、どうだ調子は…最近ずっと警察から呼び出されてて嫌になるわほんと…俺は何にもやってねーのに…向日葵もいい女の子だったのに…残念だわ…」
「そうですね。」
太田の言葉は何一つ頭に入ってこなかった。
僕はとりあえず当たり障りのない相槌を打っていた。
一刻も早く太田とは別れたかった。
「まあいいや、それじゃあな。」
「はい。」
これが僕と太田との最後の会話だった。
忍田さんから僕よりも太田の方を重点的に取り扱うといった旨の連絡を受け取ってから1ヶ月が経つ今日。
普段はあまり鳴らない携帯電話が急に鳴り出した。
電話の相手は忍田さんだった。
「黒田くん、今大丈夫か?もし大丈夫なら今すぐ私のところまで来てくれ。」
何か少し急いでいる様子だった。
僕は電話を切った後真っ先に警察署に向かった。
警察署に着くと忍田さんが僕を待っていた。
「来てくれてよかった、さあ来てくれ。」
いつも話をしていた個室へと案内された。
「まずは追って話そう。私たちが太田くんを犯人候補として重点的に取り扱ってたことは知っているだろう、それで情報を集めていたんだが、有力な情報を得てね。影山さんが亡くなる数日前に影山さんの家の近くで太田くんは影山さんと2人で会っていたらしいんだ。」
あの日のことかと僕は鮮明に思い出していた。
思い出したくもない忌々しい記憶を。
そのまま忍田さんは話を続けた。
「影山さんの家の近所の人が見かけたらしくてね、さらにその人が言うには、その2人は口論をしていたらしいんだ。太田くんは影山さんに彼氏と別れて俺と付き合えとか、さもなければどうなるかわかってんなといったことを言っていたらしいんだよ。影山さんも必死に反論して、また太田くんが言って、影山さんが反論してっていうのの繰り返しだったって。影山さんは太田くんの胸ぐらを掴みながらも反論してたって。結局らちがあかなくなってそのまま2人は解散したらしいけどね。」
僕の知らない真実がそこには語られていた。
僕が尾行していた日のことなのに内容が異なっていた。
「その話、本当ですか?」
「うん、その近所の人は一部始終を見かけたらしいから確かな情報さ。」
「そう…ですか…」
「そしてそれが動機となって太田くんが影山さんを殺したんだと思ってね。色々と動いた結果微かな証拠を手に入れることができた。その証拠が決め手となって太田くんを逮捕することができたんだ。」
珍しく忍田さんの話し方が意気揚々としていた。
「犯人、捕まったってことですか…?」
「そうだ、そういうことになる。よかったよ捕まえることができて。これで世間の私への期待はさらに高くなるな。」
忍田さんは顔と風格に似合わずはっはっはと恥ずかしがらずに大きく笑った。
「その決め手となった証拠って何だったんですか?」
笑っていた忍田さんの顔が冷静な顔に瞬時に戻った。
「残念だが、それは上からの命令で教えられないことになっているんだ。教えられるようになったらちゃんと話をしよう。」
「わかりました。」
「うむ、これで黒田くんとの約束も果たすことができた、君もここに来るのは今日で最後だ、お疲れ様だったな。」
「はい、それでは失礼します。」
「まだ辛いかもしれないが、頑張りなさい。」
「はい、ありがとうございます。」
僕は個室を出て警察署を後にした。
今日、全てがわかった。
無能だ。
なんて無能なんだ。
無能無能無能無能。
警察は無能だ。
忍田は無能だ。
犯人がわからないから1番犯人としてありえる太田に対して冤罪からの自白強要を行い、それを証拠としたに違いない。
自白強要は本当に実在したんだ。
僕はポツリと呟いた。
「ヒマワリヲコロシタノハ、ボクダ。コンナケイサツ、ナクナレバイイ。」
でも1番無能なのは、僕だった。
僕が見間違わなければ向日葵は死ななかった。
今でも楽しく生きていた。
今でもずっと僕の側にいたはずだった。
それを僕が自らの手で壊してしまった。
家に着いた僕は膝から崩れ落ち、突っ伏してただひたすらに涙を流した。
何時間経ったのかわからないほどに。
ただ、もう立ち直ることはできなかった。
生きる目的を二度も失ったことによる絶望と絶対に許されることのない過ち。
もう僕は空っぽだった。
ただただ息をするだけの肉塊となっていた。
一生分の涙を流し終え、ある程度落ち着いた後、
僕は―――――
最後にもう一度だけ、天井から吊るされた縄の先の輪に首を通した。