タイムリミット
雪だるま視点
事故で両親を亡くし、親戚中をたらいまわしにされ、義務教育が終わったら当たり前のように独り立ちした。手っ取り早く稼ぎたかったから、夜の仕事に興味を持った。それなりに恋愛もして、それなりに社会の厳しさってのも味わって、気付いたら俺、は、俺、になっていた。
ばあちゃんの作るメシは優しくて、今まで食ったどんなメシよりもうまかった。美雪との会話は裏表がなくて、今まで話したどんな女よりも楽しかった。
――ねえ、俺は雪だるまになりたいよ。あんたたちの雪だるまになりたいよ。
出会った日と同じような曇天の空を見上げて、俺は溜め息をついた。そろそろこの家を出て行かなきゃいけない。一週間前ショッピングモールで出会った女への、その場しのぎの嘘を思い出してうんざりした。
「雪だるま、何溜め息ついてるの?」
「そういう美雪も浮かない顔してるよ」
「そりゃそうだよ。だって、冬休み、終わっちゃうんだもん。明日には、帰らなきゃ」
美雪の瞼が憂うつそうに震えた。あ、そういやあ、自分が楽しいばっかりで忘れていた。「真由子」のことを。
たまに、美雪がぼんやりしてるのは「真由子」のことを考えてるから?
ここを出たあと、ばあちゃんには古くなって使いにくそうな洗濯機と掃除機、炊飯器をまとめて買ってここに送ってやろうと考えてた。美雪にもなにか後からお礼を送らなきゃなあ、と考えてたんだけど。
「きーめた」
「ん?」
「真由子って悩みのタネ、解決しようか」
「はあああっ?」
欲しいものは無いって言ってた。確かに何かが欲しそうな素振りはなかった。俺にとったら、それも珍しい。そんな美雪が気にしてるのは、ばあちゃんと「真由子」だけ。
「なな、何、言ってん、の」
「こないだ聞きそびれたから。そんな事よりどもってるよ」
「そりゃどもりもするよっ。ゆ、雪だるまに言ったって、わかんないってこないだ言ったじゃない」
まゆ毛を八の字にした美雪はぷい、と自分の部屋の中に入っちまった。
「みゆきー」
ばあちゃんの家に鍵なんて無い。襖をスルリと開ければ、美雪は結構デカい荷物に囲まれて膝を抱えて体操座りをしていた。何この可愛い生き物。
「入ってこないでよ」
なんつーか、怯えた子リスとかハムスターみたいになった美雪。覇気も無くそう言われたら、余計に庇護をしたくなる、よな? 普通、そうだよな?
誰に何を聞いてんのか自分でも全く分かんないまま、俺は顔に笑顔を貼り付けて、美雪の横に腰をおろした。もう慣れればいいのに、やっぱりビクリと体を揺らせる。そして俺の顔を盗み見するように目線だけを寄越して、はあ、とため息をついた。
「そんな楽しそうに笑ってるアンタに、私の気持ちなんかわかるわけないんだもん」
「そう思う? 俺、楽しそう?」
「……違うの? アンタ満面笑顔じゃない」
「ああ、そうだね。これが、デフォルトだから」
そう言った俺に、美雪は怪訝そうに眉を寄せた。
「言っちゃいなよ、楽になるよ」
刑事ドラマで犯人に自白を促しているような台詞になってしまったけど、それにクスリともせずに、また、抱えた膝に顔を埋めてしまった。
「……だもん」
「え?」
「楽になんて、なっちゃいけないんだもん」
なに、美雪はMなの? なんて冗談で聞ける雰囲気じゃない。なにより、美雪の苦痛が、うつってしまったんだろうか。俺も、この小さくまとまってしまっている子を見て、息苦しくなってしまったから。
「全然楽しくないんだよ、なのに笑うんだよ、私。真由子が泣いてるのなんて、全然面白くないのに、なのに」
くぐもった声は決して大きなものじゃない。けれども車一台通らないこの田舎では、そんな声でもはっきりと鼓膜を震わせる。
「こわいんだ。みんなから色々言われるのが、こわいの。こわいのよ。そんなのに負けないで、真由子と居ればいいって、そうするのが本当なんだって、本当に大切なんだって、そう思うのに」
俺は頷いたりしない。相づちも打たない。ただ、美雪からの拙い言葉を聞きもらさないように。
「漫画とか、ドラマとか。あんなに酷いもんじゃないんだ。一日に、一回、あるかないか。くさいって、言われるんだ。臭くなんて、ないのに。真由子、臭くなんて、ないのに。それなのに」
この子は、美雪は。こんな小さな体を罪悪感でいっぱいにしていたんだ。
おばあちゃんが大好きで、バカみたいに単純で、素直で、幼くて。雪だるまが人間になるなんて戯言、信じたりして。
「真由子は、話すときに、ちょっとどもっちゃう癖があって。でも臭くないし、笑われるようなことなんてしてないのに。私が、いちばん知ってるのに」
だから、私は楽になっちゃいけないんだと、そう言った。なにがどうして「だから」に繋がるかわからなかったけど、優しくてバカなこの子は。きっと。
「ごめん」
高校生は高校生なりに。この子はこの子なりに、いろんなことを感じて、考えていたんだ。それなのに俺ときたら。
「なんで雪だるまがあやまってんの」
「……ごめん」
「雪だるま?」
美雪からの質問に答えずに、もう一度謝った。気付けば美雪は顔を上げていた。
「うぬぼれてた。美雪の悩みくらい、解決してやれるって」
「は、はあ? あんた、今日、色々唐突だよ?」
呆れるくらい自分勝手な俺の言い分はスルーして、違うポイントにツッコミを入れる美雪。ああ、もう、ほんとにこの子は。
少なくとも俺にとったら些細なことに、夢にうなされるくらいに一生懸命悩んで、小さくなって、楽になっちゃいけないとか言って。あああ、本当に本当に。
なんだか色々たまらなくなって、大声で何かを叫んで撫で回したい衝動にかられた。もちろん我慢したけど、なんとも言えないソワソワした感じが消えない。
そのソワソワを押し込むように「だから、ごめん」と、続く言葉を口に乗せた。
「これは、美雪にしかわからないことだったね」
「……ほら、雪だるまなんかにわかんないって、言ったじゃん」
それでも、きっと期待はしてたのかも知れない。美雪の言葉には、少しガッカリした色が混じっていた。それに気付いて、また何だか息苦しくなった。
「うん、だから、ごめんね?」
「いいよ、もう!」
いつもの調子で小さく笑って顔を近付けると、顔を真っ赤にして、凄い勢いで避けられた。その行動に、自然と笑みが深くなる。
「解決はできないけど、美雪に魔法をかけてあげるよ」
俺がでしゃばって、解決しちゃあいけないから。俺をたまんない気持ちにさせるこの子は、全身で真由子のことを考えてるから。だから。
「や、やっぱりアンタ、今日ちょっと変だよ?」
「変かなあ。雪だるまだからね。変な日もあるさ」
「そうなの!?」
「そうだよ」
だから。名前だけしか知らない真由子。あんたが少し、うらやましいよ。
「はい、それじゃあちょっと目を瞑って?」
魔法はとってもデリケートなんだから、なんてうそぶきながら。
――ちくりと痛む胸の奥に、せいいっぱいの謝罪と感謝を込めて。
***
夜明け前、月も太陽もいない、薄い世界の中。肌を刺す冷たい空気に、吐いた息が凍って落ちた。
「とうとう行きなさるか」
「っ、ば、ばあちゃん!?」
「鼻は大丈夫なのかい?」
「え、うん。……え? あれ?」
二人が寝静まっているのを確認してから出てきたのに、何で、ばあちゃんが?
「ばあは眠りが浅いからな。それに、雪だるまさんが、どこか気もそぞろだったしのう」
出会ったときと変わらない、優しくてやわらかな笑顔で、ばあちゃんはゆっくりと俺に近付いてきた。俺は、何も言えずに、小さく雪を踏み鳴らす音を聞きながら、ばあちゃんを見ていた。
そして、俺を見上げるところまで来て、「とうとう、行きなさるか」と、同じことを言った。俺はやっぱり、何も言えなかった。
「のう、雪だるまさん。あの子は優しい子だから、あんたが行くと、泣いてしまうよ。それでも、どうしても、行ってしまうのかい?」
「雪だるま、だから。春が来る前に……帰らなきゃ」
俺がそう言うと、ばあちゃんはフフ、と笑った。
「帰るところがあるんなら、帰ればええ。ひきとめて、悪かったなあ。でも、最初に言うたろう? そうじゃないなら、いくらでも、おりなされ」
「ばあ、ちゃん……」
帰るところ、なんて、あるわけない。なんでそんなこと言うんだよ、ばあちゃん。
ぐらりと揺れる決意をなんとか持ち直し、俺はばあちゃんの手を取った。冷たくて、小さくて、しわだらけだった。
「ばあちゃん、風邪ひくよ。うち、入んなきゃ」
「大丈夫、ばあはどうってことない。雪だるまさんこそ、大丈夫かい?」
泣きそうな、顔をしてらっしゃる。
そう、ばあちゃんに言われて、ここに来てからの思い出が胸を締め付けた。
「なあんも気にせんで、ええんよ」
一瞬忘れた笑い方を思い出したけど、詰まった言葉は出てこなかった。
美雪がおばあちゃん大好きな理由が、よく分かった。まるでたいしたことがないように、大きな優しさを、くれる。それがまるで、当たり前のように。
「ばあちゃん、ごめん」
「おやおや。今日はずっと謝ってばかりだね」
「え……? あ、そうか。ああ、そうだね」
昼間の美雪との会話が聞こえてたんだろう。小声でしゃべってた訳じゃないから聞こえててもおかしくはない。
「いっぱい悩んだらええのよ、いっぱい悩んだら。それはいつか、美雪のためになるからねえ」
ばあちゃんも、同じようなことを思ってたのか。
「ありがとうね、雪だるまさん」
――どうしても、耐えられないくらい苦しいときは、美雪にはばあちゃんがいるんだから――
昼間、美雪に言った言葉だった。美雪みたいにまっすぐで純粋な子だから、きっと両親も人間ができているんだろう、けど。俺は、ばあちゃんしか知らないから。
静けさを割るように、どこかの家の鶏が一声、けたたましく、鳴いた。
朝を告げる合図。もう、時間がない。
「……もう、行くね。ばあちゃん、色々、ごめんなさい」
「あんたも、だよ」
「え?」
「あんたも、耐えられんくなったら、ここにばあがおるでなあ」
ばあ、ちゃん。
ふいにせりあがってきた涙に、俺は慌て頭を下げた。見えないけれど、感じる。俺みたいに偽物じゃない、本当の笑顔がそこにあることを。
ともすれば傲慢にも聞こえるその言葉に、俺はひどくひどく安心を覚えた。
「帰って、きても、いい?」
つい、言葉がこぼれた。
せめてばあちゃんに届かなかったらいいのに、という思いは見事に裏切られ「いつでも、おいで」と返された。
そしてもう一声、鶏が鳴いたのを合図にして、俺はばあちゃんの言葉に返事も頷きすらもせず、勢い良く踵をかえした。
走る、走る、走る。
こんなに走ったのは何年ぶりだろう。
あんなに温かく穏やかな気持ちでいられたのは何年ぶりだろう。
これほど自分のついた嘘に後悔したのは何年ぶりだろう。
涙を流したのなんて、何年ぶりなんだろうか。
冷たいバス停に、始発のバスがやってきた。
タイムリミット(意味:制限時間)/ 了