フレイム・アイ 後編
金色の三日月が照らす深夜。
屋根から屋根へと飛び移るとカリスは自室の窓をこっそりと開けた。
(右よし、左よし。お父さんはいないね。よっと)
自分の部屋に入ったカリスは胸元から一枚のカードを取り出す。
ハートのA、切り札を構成する一枚、絵柄にはハートの紋章とAの文字が刻まれている。
「――聖杯封印」
純白の衣が純白の羽根に変化し、いっせいに虚空へ舞い散った。
羽根が風に乗って周囲を渦巻き怪盗カリスという名の仮面を剥がしていく。
飛び散った白き羽根は風に乗せてカードの中に封印。これで元の自分に逆変身したはずだ。
「でも、どういう仕組みだ。これ?」
世にも不思議な現象だが、ま、なるもんはしょうがない、そう割り切って自室のベッドにゴロンと寝転がる。
「ふう、疲れた」
一息つくとすぐに今日の出来事が思い浮かんだ。
〜その宝石はオレの母が残した大切な形見だ。絶対に盗らせはしない〜
思い出されるのは怒りの中にわずかな懇願を織り交ぜた表情。
盗む? or 盗まない?
盗んじまえ、と囁く悪魔な自分と、盗んじゃダメだ、と囁く天使な自分。天使と悪魔の自分が混沌と入り乱れる。
(だあ、ちくしょう!)
癖毛気味の頭をガリガリとかき、湊はひたすら悶々とした。
フレイム・アイ 後編
昼。
屋上で食堂特製の弁当で昼食を食べながら湊は考えていた。
一時間目から四時間目までを犠牲にして考えていたのだが一向に考えはまとまらない。
盗む? or 盗まない?
天使の自分と悪魔な自分がデスマッチ。現在、両者の意思は互角だ。
とりあえず大好物のエビフライを箸でつまんで、
「う〜ん、ちょっと塩気が強いな」
なぜかつまんだエビフライは香里の口に入っていた。
「のわぁ!?」
ミス・神出鬼没とまで称された自分を驚かすとは。そんな人物、ひとりしかいない。
「よ! たそがれてんな。青少年」
「お、オレになんの用だよ?」
「いや、心配になってさ。湊、朝から元気がないし」
「余計なお世話だっつーの」
香里から目を背けて不貞腐れる自分。天邪鬼は今日も絶好調だ。
「そう腐るなって。悩みがあるなら話してみろ」
「ハン、悩みなんかねえよ。あったとしても話せるか」
(泥棒の気持ちなんて泥棒にしかわからないしな。ハハハ)
「わからないって。ためしに言ってみなさい。あたしがビシッと悩み相談にのってやる」
「悩み相談ねぇ」
「うんうん。だから話してみ」
「――おまえさ。他人を傷つけたこと、あるか?」
「ん?」
「あ、いや、悪い、忘れてくれ」
人を傷つけることは誰にだって経験がある。求める答えが得られるとは限らない。
「あるなぁ。他人を傷つけたこと」
香里の声のトーンが下がる。雰囲気が変わった。どこか冷たくなった。
(あれ、ひょっとして地雷か?)
「あの、香里さん?」
「けど、わたしはその”行為”を後悔しなかった。わたしの倫理や正義に反しているとしても、やめたくなかったから」
「ど、どういう意味だよ」
「あ、いや。察するにあんたの悩みは他人に傷つける行為をしてしまったか、しようとしてるってことだろ。それについての私的な意見だ」
そうなのだ。この女はずぼらに見えてとてつもなく勘が鋭いのだ。
「じゃあ、結論として。オレはどうすればいいと思う」
「う〜ん、わたしは答えを出せないかな。それに悩みなんて自分で答えを探したほうがいいさ。これは実体験だから間違いない」
「悩み相談とやらはどうした、オイ」
「丸投げした」
「すんなよ!?」
(けど、なんかやる気出た)
湊はゆっくりと立ち上がった。
†
夜。
怪盗カリスからの予告状がふたたび狩谷邸に届いた。
橘は昨日と同じような配置で警備体制を組み立てる。
(あいつに小細工は無意味だ)
無線機に向かって橘はほえる。
『狩谷邸、および周辺をパトロール中の……』
「あ、来ましたよ。警部」
「あん?」
無線機をもどして、橘は部下が指差す方向を見つめた。
「どうも」
まだ高校生の少年だ。もろもろの事情で彼が狩谷家の代表者となっている。
「刑事さん、宝石は大丈夫なんでしょうか?」
「月並みの文句ですが。宝石は我々警察が護ります。ご安心ください」
橘は自分でも似合わないと思う笑みを口元に浮かべる。
「よろしくお願いします」
「ま、相手は尻尾を巻いて逃げ出した単なるコソ泥。大船に乗った気持ちでいいですよ。ナハハ――熱ぃっ!!」
「ご、ごめんなさい! つい手が滑っちゃって」
橘の足元には紅茶のような液体がこぼれていた。見上げるとお盆を持ったお手伝いさんの姿。
「本当にごめんなさい! 熱かったでしょう。大丈夫ですか?」
真剣に申し訳なさそうな表情で、お手伝いさんはズボンをふいてくれた。
(気のせいか? 今、わざとカップを)
しかし、深々と頭を下げる彼女を見るとそんな疑問はどこかに拡散した。
「本当にすみませんでした」
「いえいえ気にしないでください。べつにたいしたことありませんから」
「そうですか。よかった」
彼女は天使の微笑で橘に微笑む。
(さっきのは気のせいだよな、うん)
彼女の無垢な笑顔に橘はコロッと騙された。
†
(なにが大船に乗ったつもりでだよ。あんたのは沈没船だっつーの)
心の中で悪魔の微笑を湛えているのはお手伝いさん――に変装した怪盗カリスだった。
本物のお手伝いさんは屋敷のトイレですやすやとおねんねしている。
準備は万端。
カリスは頬をはたいて自分自身に気合いを入れた。
(おし、やるぞ!)
スロープ上の階段を上ってメインの二階にたどり着く。階段を上りきると歴代の肖像画がカリスを出迎えた。
書斎はこの奥。
広大な廊下をしなやかな動作で駆けるカリス。
豪奢な扉。
扉のすき間から中の様子を慎重にうかがってみる。
(警備の配置や人数は昨日の焼き増し。扉に警備システムの類はなしと)
「そこでなにしてる」
「わぁ!?」
不意打ち気味で肩に手が置かれた。びくびくっと体が勝手に反応する。
振り返ると、ぶすっとした仏頂面の男、カリスひき逃げ犯が立っていた。
「そこでなにしてる」
執拗に同じ質問をくりかえす男。
「すみません。つい興味本位で」
「ふん、君は相変わらず落ち着きがないな。だから、さっきみたいな失敗をするんだ」
「すみません」
ここは低頭で平謝り。内心で考えをめぐらせる。
(ここは眠らせるのが妥当かな)
そうと決まれば、
「あ、あの」
「そうだ。悪いがオレの部屋まで風邪薬を届けてくれないか」
「べつにいいですよ。すこしお待ちくださいね」
「頼んだ」
(やった、ラッキー! 風邪薬と称して睡眠薬を手渡せば)
しばらく間をおいてカリスは彼の部屋をノックする。
「どうぞ」
「失礼します。風邪薬、持ってきました」
「ありがとう」
手渡した薬をあまりありがたくなさそうに受け取る。これを飲めばたちまち眠るはずだ。
「――これでわかった」
少年は手に持った薬を地べたに落とす。
「おまえ怪盗カリスだろ。さしずめこの薬は睡眠薬か?」
「うぇ?」
「おまえ怪盗カリスだろ。そう言ったんだ」
真剣な眼差し。冗談で言っているのではなさそうだ。
「わたしがカリスだと言うんですか?」
「そうだ。実はおまえが変装したその人にな。さっきと同じ文句ですでに風邪薬を持ってこさせてたんだよ。――ミスったな」
「なるほど。納得」
(さすがに会話の内容までは調べられないからねぇ)
それにしてもずいぶんと油断のならない相手だ。ここは搦め手を狙って。
「やだなぁ。わたしが怪盗カリスなわけないじゃないですか。冗談はやめてください」
「なら、さっきのやり取りをどう説明すんだ」
「それは」
自然な動作で男との間合いを詰める。
「なんのマネ、むぐ!?」
「ごめんね」
流れるような動作で軽い口づけ。口に含んでいた丸薬を相手に飲ませる。
「て、テメェ」
「病人は素直に寝る。顔色悪いよ」
「余計なお世話……だ。くそ……」
そこで男の体は糸が切れたように崩れ落ちる。意識を失った男をすんでのところで支えた。
〜その宝石はオレの母が残した大切な形見だ。絶対に盗らせはしない〜
彼を眠らせて、自分は罪悪感から逃れたいのだろうか。
自嘲気味に笑うカリス。そして、そっと自身の唇に触れてみる。
(それに、カリスの精神じゃなんとも思わないけど。男のわたしはあのキスを死ぬほど後悔するだろうなぁ。自分にも悪いことしたよ)
それを思えば自分自身にも罪悪感が湧いてしまうカリスだった。
†
お手伝いさんの格好で書斎の中に堂々と入った。昨日と同じ手だが、いちおう考えはある。
「こんな場所にどのようなご用件ですか?」
警部は警戒心むき出しでこちらを見つめた。カリスの可能性を疑っているんだろう。当たり前か。
愛想笑いを浮かべて横目で獲物を凝視する。
ショーケースに封じ込められた女神像。その左眼にある炎を思わせるガーネット。
この屋敷には様々な仕掛けを施している。逃げ道も確保。後はあれを盗むだけ。
「あの宝石に用があるんですよ、警部」
お手伝いさんのエプロンと変装用のマスクが中空を舞い、カリス本来の純白の衣装に身を包む。
「――怪盗カリス、参上!」
カリスの周囲を純白の羽根が舞い散る。警部は邪魔臭そうに羽根を払うと、
「いい度胸だ。真正面から来るとは思わなかったぜ」
「そりゃどうも。こぼした紅茶は熱かったですか。警部?」
「テメェ、あれはやっぱりわざとか」
「ご明察♪」
右手と左手に扇状に五枚づつ。計、十枚のトランプを広げる。
「ケッ! マジックでも見せてくれるってか」
「お望みなら」
十枚のトランプをスナップを利かしていっせいに投擲した。カードは部屋の隅々、四方の角に突き刺さる。
「どこ狙って。うわ!」
ショックを感知して、仕掛けた装置から煙幕が噴き出した。
「こら、いつ仕掛けやがった!」
「秘密♪」
「くそ! どこだ」
ガスマスクをかぶって、いつものように手際よくバールでショーウインドウを割る。女神の左眼、フレイム・アイは無事に手元におさまった。
願わくば、この宝石が目当ての宝石じゃありませんように。
そう願ってカリスは窓枠のもとまで疾走した。
「そこか!」
足音を聞きつけて大柄で屈強な男たちが飛んでくる。その足元へトランプを投げた。
「まあ、そう動きなさんな。動いても怪我するだけだよ」
切れ味鋭い特製カードが彼らの足元に突き立てられた。
相手がひるんだ隙に内部からガラスドアのロックを解除する。
「今度こそ、グッバイ♪」
窓枠を蹴り、身軽な動作でカリスは屋根の上に逃げた。
(ふう、後は逃走するだけ。急がないと)
「――ま、待ちやがれ」
屋根の下から誰かの声が聞こえた。
次いでゾンビみたいに腕を伸ばして誰かが這い上がってくる。声で正体はわかったけど。
「アンタ、どうしてここに?」
「テメェの後ろ姿が見えたもんでな」
青白い顔でカリスひき逃げ犯が屋根上によじ登ってきた。
「あんた、なんでピンピンしてんの」
「お、オレはあの薬を飲んじゃいない。口に含んで後で吐き出した」
「けど、たしかに気絶してたはずじゃ」
「あ、あれは風邪でぶっ倒れただけだ。無理して動き回ったからな」
「それって現在進行形で無理してるんじゃ」
「おまえが心配することじゃない」
顔面は蒼白、呼吸も断続的で荒い。気分が優れないだろうということはすぐに察せた。
「その宝石は返してもらうぞ。大事な母の形見だ」
カリスはだまって後ろ手に宝石を隠した。無言の意思表示。
「なら、力ずくで返してもらう」
本当にきつそうだ。よほど重度の風邪をひいていたのか。見るほうも痛々しい。
「どうしても、やる?」
「愚問だな。その宝石は絶対に渡さ、うぐ!?」
頭痛に襲われたのか、彼の体がぐらっとかたむいた。その肉体は人形のように力なく踊り、屋根から落ちようと、
「世話焼かせんな、こら。ぐうううう、お、重い」
ギリギリで片腕をつかめたけど、女の力じゃ男子高校生の全体重を支えきれない。
「うう、どりゃあ!!」
それでも、かつおの一本釣りみたいに根性で引っ張り上げた。ありえない放物線を描いて彼の肉体はもとの場所におさまる。
この人間離れした馬鹿力、呪いのおかげだ。今回ばかりはこの呪いの魔法に助けられたらしい。
「それにしても、まったくあんたの熱意にゃ負けた。返すよ、これ」
ハンカチに包み込んだ宝石を肩で息をする彼にポイと投げる。
「情けをかけるってか。コソ泥の情けなぞ、オレはいらない」
「ちがうね、情けじゃない。これは男らしい根性をみせたあんたへのご褒美」
「……くっだらねえ」
それを最後に彼はまぶたを閉じた。安らかな呼吸。無理が祟って疲れが体の許容範囲を超えたのだろう。
「その男っぷりには恐れ入ったよ。わたしが”本物”の女なら惚れてた、なんてな」
そう言って怪盗カリスは今日も変わらず輝く月を見上げた。
(そう、この姿は偽り、偽者の存在。魔法が解ければわたしという存在は消えて、黒井湊として人生を終えるのかな?)
自分がやろうとしていることは本当に正しいのだろうか。
その答えを見つけるためにも自分は宝石を盗むのだ。これからも。
真下を見下ろせば警部がこっちに向かってほえている。
「ここらが潮時か」
カリスはどこから現れたのか闇色の気球につかまり悠々と屋敷から脱出した。
†
都内の上空を飛行し、とあるビルの屋上へと降下を開始するカリス。
気球から軽いステップでコンクリートの地面に着地した。
「ふう。ん?」
妙な気配を感じる。漆黒に塗り潰された空間にカリスは目を凝らした。
闇から溶け出すように現われるひとりのシルエット。給水タンクの上だ。
「怪盗カリス? こんな場所で会うとは。奇遇だな」
「えっと、どちら様でしょうか?」
「オレはおまえの同業者、かな」
軽快な身のこなしでそれは降り立った。夜の静けさを侵さぬように、無音で。
漆黒の衣を纏い、黒髪の上を青いバンダナが巻かれ、白のスカーフで顔を隠している。
浮世離れした出で立ちの黒衣の男だった。
「……コスプレ?」
見たまんまの率直な感想を述べるカリス。
「おまえに言われたくはないな」
そう言ってなにか物を投げてきた。反射的にそのなにかを受け取る。
それは見事な宝石だった。月光に照らされ幻想的な輝きを放っている。
「それは目的の品じゃなかった。盗品だがくれてやるよ」
「って、盗んだのか、おまえ!」
「言っただろ。オレはおまえと同業者だって」
そう言って漆黒の衣をひるがえす男。
「厄介なお客様が来たみたいだ。オレはお暇するよ」
そう言って男は夜の闇に帰っていく。それと入れ違いで複数の警察官が屋上にやってきた。
「か、怪盗カリス!?」「警部、カリスです。怪盗カリスが現れました!」「盗まれた宝石も持っています」
(盗まれた宝石。って、これかよ!?)
慌てて宝石から手を離した。コンクリートの上で転がる宝石。
その後もぞくぞくと警察官が、上空を旋回するヘリコプターが、真下にはパトカーが、四方八方からカリスの包囲網を狭めていく。
「……冗談きついぞ、コレ」
カリスはめずらしく不敵な笑みではなく、ひきつった笑みを浮かべた。
END