名門御曹司の婚約者を奪ったあざといルームメイトが、三日後「助けて」と泣きついてきた
1.彼女が奪ったのは、私がわざと放した獲物だった
午前一時、大学近くの女性専用シェアハウスは、エアコンの低い音だけが響いていた。森下莉香から一枚の写真が送られてきた。ホテルのスイートルームらしいベッドの上で、彼女は片方の肩を露わにし、鎖骨のあたりには生々しい赤い痕が残っていた。
背後の男の顔は写っていなかった。けれど、画面の端に映った手首だけで、私は十分だった。そこに巻かれていた白檀の腕輪念珠を、私は知っていた。
あれは、私が神宮寺怜央に贈ったものだった。
東京・港区の旧財閥系一族、神宮寺家の後継者。神宮寺家は老舗の不動産開発会社を中核に、近年は医療・介護施設への投資も広げていた。怜央はその跡取りとして、著名な卒業生であり、大学の有力なスポンサーでもある人物として、たびたび私たちの大学に顔を出していた。
外から見れば、彼は端正で、穏やかで、節度をわきまえた男だった。白金台の上流社会にいる、もっとも無害そうな貴公子。そう見られていた。
そして、私の名目上の婚約者でもあった。
私は電話をかけて問い詰めることも、泣いて彼を返してほしいと縋ることもしなかった。冷たく光るスマートフォンの画面を見つめたまま、ただ一言だけ返した。
「お似合いだと思う」
画面が暗くなったあと、私は寝返りを打ち、天井を見上げた。口元が、ゆっくりと緩んでいく。
莉香。
ようやく手を伸ばしたのね。
翌日、私は女性専用シェアハウスに戻った。莉香は共用リビングの姿見の前に座り、化粧を直していた。私のシルクのルームウェアを着て、肩紐をわざと落としている。昨夜、自分が誰の隣で眠ったのか、全員に見せつけたいらしかった。
そのルームウェアは、銀座のセレクトショップで私が予約して買ったものだった。安いものではない。けれど彼女が着ると、大人の服を盗み着た子どものように見えた。
鏡越しに、莉香が私を見た。勝者の笑みを浮かべている。
「紗月、帰ってきたんだ」
私は答えず、バッグを置いて自分の部屋へ向かった。莉香は胸元の赤珊瑚のブローチを指先で撫でた。深い赤の珊瑚が銀白色の台座に収まり、一目で安物ではないと分かる。
共用リビングにいた女の子たちが、すぐに彼女の周りへ集まった。莉香は全員の視線を十分に浴びてから、ゆっくりと私のそばに近づいてきた。
「怜央さんがどうしてもって。神宮寺家に昔からあるものらしいの。少なく見ても三百万円はするって」
「え、本当に? 三百万円?」
「莉香、すごすぎる」
「これが神宮寺家の未来の若奥様ってこと?」
莉香は輪の中心で、さらに深く笑った。私の耳元に顔を寄せると、香水と酒の匂いがした。
「紗月、悪く思わないでね。怜央さん、昨夜あなたのことも話してたよ」
私はうつむいたまま、指先に力を込めた。
「つまらない女だって。甘えることもできないんだって。そんな女を、男が好きになるわけないでしょう?」
共用リビングに、こらえきれない笑い声が漏れた。普段は私と一緒に食事をし、授業を受けていた子たちが、この新しい“神宮寺家の未来の若奥様”に取り入るため、誰一人として口を挟まなかった。
私は目を伏せ、ゆっくりと口を開いた。
「そんなに愛し合っているなら……譲るよ」
部屋に戻り、スーツケースを引き出した。服を一枚ずつ詰めていく私を、莉香は入口にもたれて眺めていた。本当に何か大きな勝利を手にしたかのように、肩を揺らして笑っている。
私は何も返さず、最後の一枚を詰めた。
「そんな顔しないでよ。私、あなたに現実を見せてあげただけだよ。相性が悪いからって捨てられる婚約者なんて、傷つく価値もないじゃない」
私はスーツケースのファスナーを閉め、部屋を出ようとした。そのとき、莉香が急に私のスーツケースを押さえた。視線は、サイドポケットから少しだけ覗いていた兎の耳に向いていた。
古い兎のぬいぐるみだった。布地は色褪せ、片目のボタンは取れかけ、縫い目もひどく歪んでいる。
「待って」
「その兎、置いていって」
私は反射的にスーツケースを抱え込んだ。声が初めて鋭くなる。
「それは私のもの」
莉香は鼻で笑い、ぬいぐるみを引き抜いた。
「怜央さん、こういう古いものが好きなの。彼が好きなら、もう私のものだよね」
私はよろめき、壁に肩をぶつけた。目の奥が熱くなる。
「森下莉香、いい加減にして」
彼女は兎のぬいぐるみを抱え、戦利品を掲げるように背を向けた。
「元婚約者が残したガラクタを、そんなに大事にしてたんだ」
私はスーツケースを引いてシェアハウスを出た。タクシーに乗り込み、周囲に誰もいないことを確かめてから、頬を拭った。そしてポケットからスマートフォンを取り出す。
画面の上で、赤い点が移動していた。
位置情報は、あの兎のぬいぐるみが莉香のスマートフォンとともに大学周辺を離れ、郊外へ向かっていることを示していた。やがて赤い点は、怜央の別荘の場所で止まった。
私が心の中で“地獄”と呼んでいる、あの別荘だった。
私はその赤い点を見つめ、かすかに笑った。
2.彼女はそれを愛だと思っていた
その夜、莉香のInstagramには何枚もの写真が投稿された。フレンチのディナー、クルーザー、黒塗りの高級車、ホテルのスイートルームに並ぶシャンパングラス。どの写真も丁寧に加工され、彼女が東京の上流社会へ足を踏み入れたのだと、周囲に宣言しているようだった。
キャプションも、いかにも彼女らしかった。
お姫様みたいに甘やかされた一日目。怜央さんが、世界中をあげるって言ってくれた。
コメント欄には羨望の言葉が並んだ。シェアハウスの子たちも次々と書き込み、運がいい、別世界に行ってしまったみたい、と騒いでいた。
私はその投稿にいいねを押し、コメントを残した。
「体には気をつけて。彼、体力があるから」
莉香はすぐに、呆れ顔の絵文字と一緒に返してきた。
「負け惜しみでしょ」
私はスマートフォンを閉じ、安いビジネスホテルの狭いベッドに横になった。心は、驚くほど静かだった。
怜央に体力があるのは本当だった。
ただし、その体力はベッドの上だけで使われるものではない。
もっと多くの場合、地下室で使われる。
それから丸一週間、莉香は大学に戻ってこなかった。その代わり、Instagramの更新はどんどん増えていった。バッグ、高級車、有名店の予約席。そして、少しずつ奇妙な“恋人同士の遊び”を匂わせる写真も混じるようになった。
首に巻かれた黒いリボン。手首の革製のバンド。冗談めいた顔文字の裏に、隠しきれない違和感が滲んでいた。
怜央さん、ほんとに意地悪。こんな遊びをしたがるなんて。
大学中がその話でざわついた。私が捨てられておかしくなり、外に逃げて戻ってこないのだと言う人もいた。莉香こそが神宮寺家にふさわしいのだ、と言う人もいた。神宮寺家と縁のある占い師まで、彼女と怜央の相性のほうがいいと言ったらしい。
私は毎日、いつも通り授業に出た。図書館に行き、一人で食事をした。噂は風のように耳の横を通り過ぎたが、私は説明も反論もしなかった。
私は、捨てられても反撃できない敗者を演じ続けた。
金曜の夜、シェアハウスのLINEグループに、莉香から音声メッセージが届いた。声は甘かった。けれど背後の音は、どこか乱れていた。
「怜央さん、すごく束縛してくるの。少し荷物を取りに帰りたいって言っても、行かせてくれなくて」
「家でかくれんぼをしようって。捕まったら、ご褒美があるんだって」
背景には、重い足音が入っていた。金属が床を引きずるような音も聞こえた。グループはすぐに盛り上がり、何人かが大げさなスタンプと茶化すような言葉を送った。
「甘すぎるでしょ」
「名門御曹司の独占欲ってやつ?」
「莉香、愛されすぎ」
けれど、私には分かった。彼女の声は笑っているのに、語尾が震えていた。甘えている声ではない。恐怖を押し殺して、平静を装っている声だった。
怜央の言う“かくれんぼ”は、本当に人が死ぬ遊びだった。
深夜、私のLINEに個別メッセージが届いた。莉香の文面は途切れ途切れで、一行打つたびに周囲を確認しているようだった。白い画面の光が顔に当たる。私は文字を見つめながら、彼女の表情を思い浮かべた。
「紗月、起きてる?」
「起きてる。怜央さんは?」
「ちょっと聞きたいことがあるの」
「怜央さんって、あなたと付き合ってたとき、何か……変わった癖とかあった?」
「たとえば?」
「決まった服を着せたがるとか、変な道具を使うとか」
私は唇の端をわずかに上げ、ゆっくりと返信した。
「ないよ。私にはずっと紳士的だった。たぶん、そこまで好きじゃなかったんだと思う」
「あなたにそういうことをするなら、怜央さんは本気であなたを自分のものにしたいんだと思う」
「莉香、幸せだね」
向こうは長い間沈黙した。返事は来ないのかもしれないと思った頃、ようやく一文字だけ届いた。
「うん」
彼女は本当に、怜央の支配欲を愛の証だと思い込んだらしい。
土曜の午後、莉香はようやくシェアハウスに戻ってきた。新作の高級ワンピースを着て、顔には厚く化粧をしていた。一番目立っていたのは、首に巻かれた分厚いエルメスのスカーフだった。
まだ初夏だというのに、首元だけを不自然なほど隠していた。
共用リビングにいた子たちが、すぐに彼女を取り囲んだ。
「神宮寺家の未来の若奥様、やっと私たちに会いに来てくれたの?」
莉香は無理に笑った。顔色は悪かった。
「服を何着か取りに来ただけ。すぐ戻るから」
彼女はぎこちなく部屋の扉を開け、荷物を取ろうとかがんだ。その拍子に、スカーフが少しだけずれた。白い首筋には青紫の痕がいくつも残り、煙草を押しつけたような丸い火傷の跡も見えた。
誰かが息を呑んだ。
「莉香、首、どうしたの?」
莉香は弾かれたように首を押さえた。目が一瞬泳いだが、すぐに相手を睨みつけた。
「大げさに騒がないでよ。恋人同士のことなんて、あなたたちには分からないでしょ」
スカーフを直しながら、彼女は必死に笑ってみせた。
「怜央さん、少し刺激的なのが好きなだけ。これは愛されてる印なの」
私は廊下の陰に立ち、その様子を冷たく見つめていた。
愛されてる印。
莉香。
まだ始まったばかりだよ。
3.誕生日パーティーの公開処刑
莉香は荷物を取ると、すぐに出ていこうとした。何かに追われているような足取りだった。彼女がリビングを通り過ぎるとき、私は声をかけた。
莉香は足を止めて振り返った。その目には、勝者らしからぬ怨みが滲んでいた。後悔し始めているのに、それを認められない人間の目だった。
「兎のぬいぐるみ、まだある?」
「あるに決まってるでしょ。怜央さん、毎晩抱いて寝てるよ。何、返してほしいの?」
私は黙って彼女を見た。莉香は紙袋を抱え直し、声を尖らせた。
「無理だよ、紗月。あれはもう私のものだから」
彼女が嘘をついていることは分かっていた。あのぬいぐるみは、抱いて眠るためのものではない。怜央が“解体”の練習に使う代用品だった。
ぬいぐるみがまだ残っているなら、彼はまだ遊び足りていない。
ぬいぐるみが消えたなら、次は莉香の番だった。
月曜の朝、大学中がその話でざわついた。怜央が著名な卒業生として、校外の五つ星ホテルで誕生日パーティーを開くというのだ。しかも、莉香が住むシェアハウスの女子全員を指名して招待したらしい。
女の子たちは興奮し、午後から服を選び、化粧を始めた。
「怜央さん、莉香のことを正式に認めるつもりなのかな」
「港区の名門のパーティーなんて、一度見てみたかった」
「紗月も行きなよ。気まずいかもしれないけど、せめていいもの食べられるし」
莉香はその中心で、誇らしげに立っていた。目の下の青い影は厚いファンデーションでも隠しきれていなかったが、それでも彼女は愛されている女の顔を保とうとしていた。
「行かせてあげれば。ちょうどお酒を注ぐ人が足りないし」
「怜央さん、今夜は大きなサプライズを用意してるって」
私は彼女を見て、静かに目を伏せた。
サプライズ。
ただ、彼女が想像しているものとは違うだろう。
夜七時、ホテルの宴会場はまばゆい光に包まれていた。シャンパンタワー、白いバラ、ダークスーツとドレスが混ざり合い、華やかな夢のような空間を作っている。
怜央は白いスーツを着て、ワイングラスを手に、企業の重役たちと談笑していた。穏やかで洗練され、まるで絵の中から抜け出してきた貴公子のようだった。
私たちに気づくと、彼はグラスを置き、莉香のほうへ微笑みながら歩いてきた。
「莉香、来たんだね」
怜央は彼女の腰に手を回した。動きは優しかった。けれど私は、莉香の体が一瞬こわばるのを見逃さなかった。
莉香は無理に笑みを作り、後ろの女子たちを彼の前へ押し出した。
「怜央さん、シェアハウスの子たちです」
怜央の視線が全員をなぞり、最後に私の上で止まった。その瞬間、彼の目から柔らかさが消えた。代わりに浮かんだのは、首筋が冷えるような興奮だった。
次の瞬間、彼はまた完璧な笑顔に戻った。
「桜井さんも来てくれたんですね。ようこそ」
席に着くと、莉香は“女主人”のように振る舞い始めた。全員の前で私に指示を出す。そうすることでしか、自分の恐怖を隠し、選ばれたのは自分だと証明できないようだった。
シェアハウスの子たちも、莉香に合わせて笑った。
「紗月、怜央さんにお酒を注いで」
「紗月、この海老、剥いてくれない?」
「紗月、靴紐がほどけた」
「紗月、早くしてよ」
「神宮寺さんにお酒を注げるなんて、光栄でしょ」
私は目を伏せ、一つずつ従った。怜央はずっと黙っていた。ただ莉香の胸元の赤珊瑚のブローチを指で弄び、冷たい珊瑚の表面をゆっくりとなぞっている。
そして莉香が、また私を見た。
「紗月、脚が疲れたの。しゃがんで揉んでくれる?」
宴会テーブルの周囲が、一瞬静まり返った。さすがに度が過ぎていた。
けれど私は反論しなかった。彼女の前に進み出て、従順に膝を曲げる。
膝が床に触れそうになった、その瞬間。
甲高い音が響いた。
怜央の手の中で、赤珊瑚のブローチが砕けていた。欠片が掌に食い込み、血が指の間から流れている。彼は痛みを感じていないかのように、暗い目で莉香を見ていた。
「君、彼女を跪かせるつもり?」
莉香は青ざめた。
「怜央さん、私はただ……」
「誰が許したの?」
声は静かだった。けれど宴会テーブル全体を凍らせるには十分だった。
莉香は救いを求めるように、すぐに被害者の顔を作った。
「怜央さん、違うの。紗月が私を――」
次の瞬間、怜央の手が彼女の頬を打った。莉香は頬を押さえたまま、動けなくなった。
「怜央さん……私を叩いたの? 彼女のために?」
怜央は彼女を見なかった。彼はただ私だけを見ていた。目の奥に、病的な光が揺れている。
「君はわざと、彼女に僕を奪わせた。これが見たかったんだろう?」
私はゆっくりと立ち上がり、スカートについたはずもない埃を払った。怯えたふりも、従順なふりも、その瞬間すべて消えた。
「神宮寺さん、彼女はちょうど役に立ちました」
私は彼を見て、床の上の莉香も見た。
「お気に召したなら、どうぞゆっくり遊んでください」
莉香は意味を理解した。顔から血の気が引いていく。彼女は私に飛びかかり、爪が顎をかすめそうになった。
「紗月、どういう意味? あなた、最初から彼がどんな人か知ってたの?」
「私を嵌めたのね! 最低!」
怜央が眉をひそめ、もう一度彼女を打った。
「うるさい」
彼が指を鳴らすと、数人の黒服が側の扉から現れた。床に崩れた莉香を抱え上げ、そのまま外へ引きずっていく。莉香は必死に暴れ、泣き叫んだ。
「紗月! 助けて! 私が悪かった!」
「彼はおかしいの! 私、殺される!」
私はその場に立ち、彼女が連れていかれるのを見ていた。
あのときの私を、誰が助けてくれた?
声もなく消えた三人の女の子を、誰が助けた?
私の姉を、誰が助けた?
宴会場には、私と怜央、そして声も出せずに固まっている女子たちだけが残った。怜央が私の前まで来て、頬に触れようと手を伸ばす。
私は一歩下がり、その手を避けた。
「神宮寺さん、用は済みました。私は帰ります」
彼は低く笑った。
「帰る? 紗月、君が帰れると思っているの?」
彼は金色の箔押しがされた名刺を取り出し、私のポケットに滑り込ませた。それから身をかがめ、耳元に近い声で囁いた。
「金曜、僕の別荘に来て」
「来なければ、君のかわいい友達が一人ずつ消えるかもしれない」
私は拳を握った。爪が掌に食い込む。
「分かりました。そこまでおっしゃるなら、時間どおりに伺います」
私は彼を見上げた。
「そのときも笑っていられるといいですね」
私は背を向けて歩き出した。背後から、怜央の隠そうともしない笑い声が聞こえた。
4.彼は自ら私を狩り始めた
森下莉香は行方不明になった。大学では噂が広がり、学生課の職員とシェアハウスの管理人が何度か私に確認を取った。彼女から連絡はなかったか、と。
私は莉香がInstagramに載せていた写真を見せた。クルーザー、ホテル、高級バッグ、怜央から贈られた品々。どの写真も、彼女が普通の学生生活から離れていったことを示していた。
学生課の職員は写真を見たあと、しばらく黙り、やがて小さくため息をついた。
「神宮寺さんと海外へ行きたいから、大学のことはしばらく放っておいてほしいと言っていました」
恋人や金銭を理由に、突然休学や退学を考える学生がいないわけではない。本人の家族から正式な相談や捜索願が出ていない限り、大学がすぐに大きく動くことは難しい。
莉香の失踪は、一時的に曖昧なまま扱われた。
けれど、私の面倒はそこから始まった。
怜央は金曜まで待たなかった。彼は私の生活のあちこちに現れるようになった。講義棟の廊下の奥、図書館の隅、大学前のカフェ。
優雅で静かな幽霊のように、彼はどこにでもいた。
彼は何も言わなかった。ただ、粘りつくような冷たい視線で私を見ていた。まるで、食卓に並べられる前の子羊を眺めているかのように。
獲物を狩る前の待ち時間を楽しんでいる。少しずつ精神を崩していく過程を味わっている。そういう目だった。
けれど私は、彼の期待どおりには壊れなかった。授業に出て、食事をし、眠った。時間があれば総合格闘技のジムで筋力トレーニングも続けた。
それが彼をますます興奮させ、焦らせていった。
水曜の夜、図書館を出たところで、一台の黒い車が路肩に停まった。窓が下がり、怜央の白く整った顔が見える。
「紗月、乗って」
私は周囲を見回した。完全な監視カメラの死角ではないが、人通りは少なく、正門からも距離があった。
私は走らなかった。ただドアを開け、車に乗り込んだ。
車内には強い消毒液の匂いがした。その下に、冷たく甘ったるい別の匂いも混じっていた。怜央はドアをロックし、横目で私を見た。唇に、不快なほど穏やかな笑みを浮かべている。
「怖くないの?」
「怖がれば、何か変わりますか?」
彼は私の髪に触れようとした。私は避けず、ただ静かに彼を見返した。
「紗月は、本当に特別だね」
彼は助手席前の収納から透明な密封袋を取り出した。中には切断された指が入っていた。爪には、莉香が好んで塗っていた赤いマニキュアが残っている。
「再会の贈り物。気に入った?」
胃の奥がひっくり返りそうになった。けれど私は吐き気を押し込み、無表情のまま袋を見つめた。
「神宮寺さん、仕事が雑になりましたね」
彼がわずかに目を見開く。
「切り口が荒いです。刃が鈍っているのでは?」
次の瞬間、彼は声を上げて笑った。肩が震えるほど笑っている。
「いいね。すごくいい」
「紗月、やっぱり君は僕を分かっている」
車は急発進し、郊外の別荘へ向かった。私は背もたれに体を預け、ポケットの中でそっと緊急連絡ボタンを押した。
5.別荘の地下室から聞こえる声
車が別荘地に入ると、外はどんどん静かになった。怜央は上機嫌で、調子の外れた旋律を鼻歌でなぞっていた。街灯の光が彼の顔を滑り、その完璧な顔を精巧な仮面のように見せた。
「紗月、知ってる? この別荘の下には、いろいろな秘密があるんだ」
「彼女たちはみんな従順だった。永遠に僕から離れない」
「今夜から、君も同じだよ」
私は窓の外を流れていく木々を見た。
「それは光栄です」
車は別荘の前で停まった。降りる前から、凄まじい悲鳴が聞こえた。声は地下から響いていた。
莉香だった。
怜央は私のために車のドアを開け、紳士らしい仕草で手を差し出した。
「古い友達に会わせてあげる」
私は彼について別荘へ入った。リビングには明かりが灯り、テーブルにはキャンドルディナーが用意されていた。赤ワイン、ステーキ、花、銀のカトラリーが冷たく光っている。
血の匂いさえ無視すれば、まるでロマンチックなデートのようだった。
怜央はすぐに地下室へは連れていかなかった。椅子を引いて私を座らせると、三分焼きのステーキを一切れ切り、私の口元へ運んだ。
「先に食べよう。お腹が空いていたら、遊ぶ体力がなくなる」
「君のために用意したんだ。味見して」
私は赤い肉を見つめ、口を開かなかった。彼は笑い、その肉を自分の口に入れ、ゆっくり咀嚼して飲み込んだ。
「毒を疑ってる?」
「安心して。こんなに簡単に死なせるのは惜しい」
彼は私に顔を近づけた。目の奥の光が、背筋を冷たくした。
「君を完璧な標本にして、僕のベッドの横に置きたいんだ。毎朝目を開けたら、君がいるように」
そのとき、地下室の扉が内側から叩き開けられた。血まみれの人影が、よろめきながら這い出してくる。
森下莉香だった。
彼女はもう、元の姿が分からないほど変わっていた。髪は半分剃られ、体には切り傷と火傷がいくつもあり、十本の指のうち三本が失われていた。私を見ると、ようやく命綱を見つけたように必死で這ってきた。
「紗月! 助けて!」
「私が悪かった! お金なら全部あげるから、ここから連れ出して!」
彼女は私の脚に縋った。血がスカートに擦りつく。私は彼女を見下ろした。
「莉香、名門の若奥様になるのは、そんなに簡単じゃないよ」
莉香は固まった。ゆっくりと手を離し、目の奥に残っていた希望が砕けていく。
次の瞬間、彼女は怜央に飛びかかった。
「あんたを殺してやる! この化け物!」
怜央はまぶた一つ動かさず、テーブルの上のナイフを掴み、彼女の肩に突き刺した。
「いやあ――!」
莉香は床に崩れ、体を震わせた。怜央はナイフを引き抜き、陶酔したような目で彼女を見下ろした。
「うるさいな」
彼はナイフを持ったまま、一歩ずつ莉香に近づいた。
「紗月、まず舌を取ってみようか」
莉香は床に座り込んだまま、もう這うこともできない。怜央がナイフを振り上げた、その瞬間。
私は口を開いた。
「神宮寺怜央、遊びたいんでしょう?」
彼の動きが止まる。私は立ち上がり、上着を脱いだ。中に着ていたのは、体にフィットしたトレーニングウェアだった。
「付き合ってあげます」
彼の目に喜びが走った。
「何をして遊ぶ?」
私は暖炉の横にあった鉄製の火かき棒を掴み、ゆっくりと構えた。
「狩りごっこ」
「ただし今回は、私が狩る側で、あなたが獲物です」
6.狩人と獲物
怜央は私の手にある火かき棒を見て、一瞬だけ固まった。すぐに笑い、ナイフを捨て、腰の後ろからメスを取り出した。刃が照明を受けて冷たく光る。
「紗月、僕を殺すつもり?」
「かわいいな。本当にかわいい」
彼は半歩下がり、まるで私をダンスに誘うように腕を広げた。
「おいで。君がどこまでできるか、見せて」
床に倒れていた莉香の目に、かすかな希望が戻った。彼女は私を見つめ、救ってくれるのを待っているようだった。
私は彼女を見なかった。
この七年、私は空手を習い、キックボクシングも総合格闘技も続けてきた。拳を振り、蹴りを打ち、かわし、倒れ、また立ち上がる。それを何度も繰り返してきた。
すべては、この日のためだった。
怜央は危険な男だった。けれど、専門的な訓練を受けた人間ではない。頼っているのは男の力、異常な興奮、そして手にした刃物だけだった。
彼が突っ込んでくる。動きは速かった。メスの先が、私の喉元を狙ってくる。
私は横へ身をずらし、火かき棒を彼の手首へ叩きつけた。鈍い音がして、メスが床に落ちる。
彼は悲鳴を上げなかった。むしろ、さらに興奮したように笑った。
「痛いなあ、紗月」
彼は反対の手でメスを拾い、また飛びかかってきた。
「もっと。もっと本気でやって」
私たちはリビングで揉み合った。テーブルが倒れ、ワインボトルが割れ、白いテーブルクロスが血と酒で暗い赤に染まっていく。
怜央は傷を気にしなかった。頭を打たれても、私の腕に一筋傷をつけようとしてくる。私の腕や脚にも、すぐに血が滲んだ。
けれど、私は乱れなかった。彼の足運びだけを見ていた。隙が生まれるのを待った。
彼が再び狂ったように前へ出た瞬間、私は体を沈め、膝を蹴った。バランスを崩したところへ、火かき棒をこめかみに叩き込む。
怜央の体が揺れた。
そして、床に倒れた。
私は止まらなかった。すぐに彼の手からメスを蹴り飛ばし、膝で背中を押さえつけ、両手を背後で捻り上げた。
「動かないで」
ポケットから、あらかじめ用意していた強力な結束バンドを取り出す。彼の手首と足首を縛り終えたところで、私は壁にもたれ、大きく息を吐いた。
勝った。
縛られた怜央は、それでも笑っていた。
「紗月、すごいよ」
「殺して。早く僕を殺して」
「君が僕を殺したら、君は永遠に僕のものになる」
私はポケットから小型の録音機とピンホールカメラを取り出し、冷たく彼を見た。
「殺す? そんなの、あなたには甘すぎます」
「生きたまま、自分の判決を聞いてください」
「警察はもう向かっています」
怜央の笑みが、初めて固まった。
次の瞬間、別荘の外から鋭いサイレンが聞こえた。赤と青の光が窓から差し込み、この地獄を白く照らし出す。
「あり得ない……」
彼は身をよじって起き上がろうとした。私はその背を踏みつけた。
「あり得ますよ」
警視庁捜査一課と所轄署の刑事たちが別荘へ踏み込み、すぐに現場を制圧した。救急隊も続き、莉香を担架に乗せて運び出していく。
彼女が私のそばを通るとき、複雑な目でこちらを見た。感謝、恐怖、そして言葉にならない羞恥が混じった目だった。
私は彼女を見なかった。私の視線は、警察車両へ連れていかれる怜央に向いていた。
彼が最後に振り返る。その目に憎しみはなかった。あるのは、背筋が凍るような執着だけだった。
「紗月、地獄で待ってる」
声には出さず、口の動きだけでそう告げた。
私は無表情のまま、同じように口を動かした。
「待たないで」
7.世論がひっくり返った日
怜央はその場で身柄を確保され、その後、傷害と逮捕監禁などの容疑で逮捕された。別荘の地下室からは、三体の白骨化した遺体が見つかった。拘束と傷害に使われた器具、大量の映像、そして彼が“記念品”と呼んでいたものも押収された。
地下室の床や壁の内部をさらに調べると、清掃された痕跡も次々と明らかになった。司法解剖とDNA鑑定が進み、警察は殺人、死体損壊・死体遺棄の容疑も視野に入れて捜査を進めた。
事件の悪質さはすぐに全国へ広がった。私は生存者であり、重要な証人として、多くの視線の中心に立たされた。
けれど、私はすべての取材を断った。
ただ普通の大学生として、残りの日々を過ごしたかった。
私は沈黙していたかった。けれど、事態はそこで終わらなかった。病院で意識を取り戻した莉香は、精神的に不安定な状態が続いていた。
彼女は、すべて私が仕組んだことだと言い始めた。私が彼女を怜央に近づけ、あの男と手を組んで地獄へ突き落としたのだと。
やがて、私が御曹司の婚約者の座を狙うため、ルームメイトを餌にしたという話まで広がった。ネットの空気は一気に変わった。私の個人情報を特定しようとする者が現れ、シェアハウスには花輪が送りつけられ、大学の前で私を罵る人間まで出た。
かつて莉香のそばで笑っていた子たちも、今度は私を踏み台にした。
「あの子、前から少し変だったよね。いつも暗かったし」
「莉香に嫉妬して、あんなことを考えたんだと思う」
私は何も言わなかった。
怜央の公判の日まで。
法廷で、私は一つの証拠を提出した。森下莉香が過去に他人の恋人を奪い、同級生をいじめていたLINEの記録と動画だった。彼女が私に送ってきたベッドの写真、怜央の“特殊な癖”を自慢げに語る音声もあった。
検察側も、地下室の映像、DNA鑑定の結果、被害者の遺留品、そして私の録音データを証拠として提出した。
私は証人席に立ち、静かに話した。
「私は、彼女が神宮寺怜央に近づくのを止めませんでした」
「でも、警告はしました」
「彼女は何度も一線を越え、自分の足であの罠に入っていきました」
私は被告人席の怜央を見た。
「私が彼と共犯だったかどうかは、本人に聞いてください」
法廷が静まり返った。怜央が顔を上げ、私を見る。目にはまだ、あの歪んだ執着が残っていた。
「違う」
声は掠れていたが、はっきりしていた。
「紗月は僕の共犯じゃない」
「彼女は、僕を裁ける唯一の人だ」
「あんな連中と、彼女を比べるな」
法廷内がざわめいた。怜央はすべての罪を認め、責任も自分にあると話した。
莉香を選んだのは、彼女の欲深さが退屈で扱いやすかったからだと言った。私については、自分を初めて躓かせた相手であり、唯一そばに置きたかった人間だと語った。
世論はまた反転した。私に同情する人が現れ、莉香を責める声も増えた。中には、怜央は恐ろしい男だが、私への気持ちだけは本物だったのではないか、などと言う人もいた。
その言葉を見たとき、吐き気がした。
本物の愛?
あれは異常な所有欲だった。
狂った執着にすぎない。
神宮寺怜央は、最終的に死刑を言い渡された。判決が読み上げられたとき、彼は私に向かって微笑んだ。
「紗月、会いに来て」
私は答えず、法廷を出た。外には陽が差していて、体を暖めるほど穏やかだった。
それでも、私の心は冷たかった。
誰にも言わない秘密が、まだ残っていたから。
8.姉の写真
森下莉香は壊れた。彼女は精神科病院へ入院した。意識がはっきりしているときは、膝を抱えて部屋の隅に座り、自分は何もしていないと繰り返した。症状が悪くなると、何もない空間に向かって化粧をし、自分は神宮寺家の未来の若奥様だと呟いた。
私は一度だけ、病院へ彼女を見に行った。面会室のガラス越しに、彼女はあの古い兎のぬいぐるみを抱えていた。目は虚ろだった。
私を見ると、莉香は突然叫んだ。
「来ないで!」
「悪魔はあなたでしょ!」
私はガラスの外に立ち、静かに彼女を見た。
「莉香、悪魔はもう捕まった」
「あなたは安全だよ」
莉香は一瞬固まり、すぐに乾いた笑い声を漏らした。
「安全? 違う。違うの」
彼女は天井を指差した。
「まだ見てる」
私も天井を見た。そこには何もなかった。白い照明があるだけだった。
けれど、彼女が何を恐れているのかは分かった。
骨に刻まれた恐怖だった。
私も同じだった。
怜央が逮捕されたあとも、私は何度も悪夢を見た。夢の中で、彼はメスを持って私を追いかけてくる。冷たい台の上に固定され、自分が標本にされていくのを見ている夢もあった。
目が覚めるたび、全身に冷たい汗をかいていた。
佐伯警部補が、個人的に私を訪ねてきたことがある。彼は温かいお茶を私の前に置き、警察署で会ったときよりも少し柔らかな表情をしていた。
「桜井さん、本当に勇気がありましたね」
私は答えなかった。佐伯警部補は少し間を置き、声を落とした。
「でも、どうしてそこまで危険なことを?」
「あの日、私たちの到着が少しでも遅れていたら、あなたは戻れなかったかもしれません」
私はお茶を一口飲み、目の奥の感情を隠した。
「誰かがやらなければいけないことでした」
佐伯警部補は長く黙っていた。やがて、静かに息を吐く。
「それでも、ありがとうございました」
「あの三人のご遺族からも、あなたにお礼を伝えてほしいと言われています」
“三人”という言葉を聞いた瞬間、私の指がわずかに震えた。
「礼を言われることではありません」
私は湯飲みの中で揺れる茶葉を見つめた。
「自分のためにやっただけです」
佐伯警部補が帰ったあと、私は一人で部屋に座っていた。机の上には、一枚の色褪せた写真が置かれていた。夏の海辺で、二人の少女が笑っている。
一人は私。
もう一人は、私の姉。
桜井美月。
三年前に失踪し、最後には神宮寺怜央の地下室で死亡していたと確認された人だった。
9.私は偶然罠に入ったわけではない
そう。
私は復讐のために動いていた。
三年前、姉が消えたあと、私は怜央にたどり着いた。彼の過去の恋人たちにもたどり着いた。彼女たちは皆、恋愛に失敗して海外へ行った、と噂されていた。
けれど、証拠はなかった。
神宮寺家には金がある。人脈もある。弁護士団もいる。疑いを押しつぶす手段など、いくらでもあった。
だから私は決めた。
自分が、彼の獲物になることを。
私は大学生として彼に近づき、二年かけて、彼の好む姿に自分を整えた。
清純。
無口。
扱いやすい女。
あまり露骨に近づきすぎてはいけなかった。彼は奪われたものを好む。手に入りにくい獲物を好む。
だから私は、ちょうどいい場所に現れ、ちょうどいい距離で退いた。彼自身が私を見つけたのだと、そう思い込ませるために。
そして、森下莉香を待った。
莉香は欲深く、見栄っ張りで、越えてはいけない線が分からない人間だった。他人のものを奪うのが好きだった。相手が大事にしているものほど、自分のものにしたがった。
私は彼女を怜央のもとへ押し出したわけではない。
彼女が自分で歩いていった。
私は、止めなかっただけだ。
莉香は名門御曹司を奪ったと思っていた。港区の上流社会への切符を手に入れたと思っていた。けれど、彼女が掴んだものは宝物ではなかった。
骨まで焼き尽くすものだった。
彼女は、最初の危険を私の代わりに受け止めた。怜央の限界も探ってくれた。彼女の惨状があったからこそ、怜央は私にさらに執着した。
あの別荘での戦いだけが、私の計算違いだった。
私は彼の狂気を甘く見ていた。七年の訓練と位置情報装置、そして警察の到着がなければ、本当に死んでいたかもしれない。
それでも、結果は十分だった。
判決は下った。
姉の仇は、討てた。
卒業式の日、私は卒業生総代として壇上に立った。客席から拍手が響いた。全員が、どこか畏れるような目で私を見ていた。
もう誰も、私を“婚約者を奪われたかわいそうな子”とは呼ばなかった。いつの間にか、後輩たちは私を「桜井先輩」と呼ぶようになっていた。
私はマイクを握り、壇下の若い顔を見渡した。
「この世界は、安全な場所ばかりではありません」
「だから、希望のすべてを誰かに預けないでください」
「最後に自分を守れるのは、自分自身です」
少し間を置いて、声を柔らかくした。
「特に、完璧に見える人ほど、簡単には信じないでください」
会場に小さな笑いが広がった。
私も笑った。
三年ぶりに、心から笑えた気がした。
――完――




