第30話 十年目の出来事。
お久しぶりです。
今日から投稿させていただきます。
よろしくお願いいたします。
夜気の残る草原で、カティアとリリスが火花を散らしているのを見ながら、ゼロスはどうにも言葉を失っていた。
目の前で繰り広げられているのは、敵味方を超えた複雑な因縁であり、執着であり、もはや説明のつかない何かにしか見えない。
「……どうして、あの二人はあそこまで……」
思わず漏れたその疑問に、少し離れた場所で腕を組んでいたグレイスが、なんとも言えない顔で息を吐いた。
「……十年前から、ああなんだ」
低く、疲れの滲んだ声だった。
風が吹き――遠くで氷と風がぶつかり合う轟音が響いた。
レイリアはそんな父の横顔を見上げ、それからぽつりとつぶやく。
「父様、昔の事ちゃんと話したことなかったよね」
「話す必要があるとは思わなかった」
「いや、あるでしょ。ゼロス様が完全に置いていかれてるし」
「……それもそうか」
グレイスはしばらく黙っていたが、やがて諦めたように遠い目をした。
▽ ▽ ▽
十年前――まだレイリアが今よりずっと小さく、兄姉たちも幼さを色濃く残していた頃の話だ。
その頃のエルヴァーン家は、王命によって各地の魔物や魔族の討伐に駆り出されることが多かった。
名門貴族でありながら、戦場を離れて暮らすことなどほとんど許されなかった時代である。
王国北東部、霧深い峡谷地帯。
そこは岩肌を縫うように冷気が漂い、昼なお薄暗い土地だった。
その日もまた、魔族討伐の任を帯びたエルヴァーン家は、王国兵の一隊を率いて峡谷へ足を踏み入れていた。
先頭を行くのはグレイスだった。
大剣を背負い、どっしりと前を歩くその背には当時から変わらぬ威圧感と安定感があった。
その隣を、槍を手にしたカティアが歩く。
まだ今ほど柔らかな母の顔ではなく、戦場に立つ女としての冷たい美しさが際立っていた。
後方には子どもたちがいた。
当時のセリナはまだ少女と呼ぶにも幼い年頃だったが、それでもすでに人並み外れた魔力を宿していた。
幼いレイリアは、そんな姉の背におぶわれている。
「ねえさまぁ、まだー……?」
「静かにしていてねレイリア。もう少しで終わるわ」
「ねむい……」
「ええ、知ってるわ」
小さな背に妹を乗せたまま、セリナは淡々と前を見て歩いていた。
その横でリヴィアがひそひそと囁く。
「ねえ、姉様。レイリアまた寝そう」
「いつものことよ」
「ほんとに戦場で寝るの好きよね……」
「好きというより、本能だと思うわ」
アレクは少し緊張した顔で、何度も前を見ていた。
兄として、幼いながらも妹たちを守ろうとしているのがよく分かる。
そんな子どもたちの空気とは裏腹に、峡谷の奥へ進むほどに空気は鋭く張りつめていった。
冷気が濃くなり――ただ寒いのではない。魔力を含んだ、異質な冷たさだった。
「止まれ」
グレイスが短く告げ、全員が足を止める。
次の瞬間、峡谷の奥から白い霧が這うように流れ出した。
石畳のような地面が音もなく凍りつき、兵たちの足元へ霜が走る。
「……来たわね」
カティアの声音が低く落ちる。
霧の向こう――ゆっくりと姿を現したのは、一人の女だった。
銀糸のような長い髪。
雪のように白い肌。
その立ち姿は人の娘と変わらぬほど美しかったが、纏う気配だけが決定的に違う。
凍てついた魔力が、呼吸に合わせてあたりの空気を冷やしていく。
女はゆっくりと目を細め、こちらを眺めた。
その視線が、兵たちを流れ、カティアをかすめ、最後にグレイスの上でぴたりと止まる。
「……へぇ」
その一音だけで、場の空気が変わった。
「今回は、当たりね」
女――リリスは、微笑んだ。
だがその笑みは親愛のものではない。
何か獲物を見つけた獣のような、ぞっとするほど濃い興味が滲んでいた。
グレイスが眉をひそめる。
「なるほど、魔族か」
「そうよ。あなたがエルヴァーン家の当主ね?」
リリスは一歩、前へ出る。
霜がその足元から広がっていった。
「強い男の匂いがするわ……うん、いいわね。そういうの嫌いじゃない」
「……褒められても嬉しくないな」
「ふふ、謙遜しないで。あなた自分がどれだけ魅力的か分かってないの?」
その言葉に、後ろの兵たちがざわめく。
魔族が戦場で何を言い出すのかと思えば、あまりに場違いだったからだ。
だが、カティアだけは笑わなかった。
槍を持つ手に、わずかに力が入る。
「…………旦那様から、少し離れてくださる?」
静かな声だった。
静かすぎるからこそ、返って冷たかった。
リリスがようやくカティアへ視線を向ける。
「あら。あなたが奥様、なのかしら?」
「そうよ」
「ふぅん」
リリスは頭の先からつま先まで、値踏みするようにカティアを見る。
その目つきがひどく気に入らなかった。
「綺麗な人ね。でも――」
リリスはくすりと笑う。
「この人の隣に立つには、少しおとなしすぎるんじゃない?」
その瞬間、空気が凍りついた。
リヴィアが小さく「うわ」と漏らし、アレクは本能的にレイリアを抱えたセリナの前へ出る。
そして当のグレイスだけが、妙に困った顔をした。
「……ええと、俺、どうしたらいい?」
「黙っててください、旦那様」
「うん、余計なこと言わない方がいいわ、父様」
妻とその娘のセリナに同時に言われ、グレイスは本気で黙った。
次の瞬間――風が唸り、氷が裂けた。
カティアの槍が突き出され、その切っ先に纏った風の刃が一気に峡谷を薙ぐ。
リリスは微笑んだまま片手をかざし、吹き荒れる風ごと空間を凍らせた。
そして、風と氷が正面からぶつかり、爆ぜる。
兵たちが一斉に後退し、子どもたちも本能的に身を固くした。
セリナはレイリアを背負ったまま、じっとその戦いを見ていた。
幼いながらも、その目には静かな観察の光がある。
「ねえさま、かあさま、怒ってる?」
「ええ、かなり」
「こわい?」
「とても」
「まぞくのひと……すごくきれいだね」
「そうね、きれいね」
「……でも、めっちゃつよいね」
「それ、母様と父様の前で言っちゃだめよ、レイリア」
「うん、わかった」
背中から聞こえる眠そうな声に、セリナは短く答えた。
レイリアはその言葉を言った後、大好きな姉の肩に頬を乗せる。
戦いは激しかった。
カティアの風槍は鋭く、リリスの氷は美しく残酷だった。
風が通ったあとには岩肌が削れ、氷が走った場所では地面そのものがきしんだ。
互いに一歩も退かない。
女同士の意地だけではない。
そこには明らかに、それ以上の感情があった。
「しつこいわね、あなた」
「そちらこそ。そんなに怒るなんて、もしかして妬いてるの?」
「妬いてるのではなく、心底気に入らないのよ」
「同じことじゃない」
「違うわ。私はあなたみたいに人のものへ勝手に手を伸ばす趣味がないの」
「人のもの、ねえ……」
リリスは氷の槍を無数に生み出しながら、うっとりしたような目でグレイスを見た。
「でも、この人はあなたの持ち物って感じじゃないわよ。もっとこう、誰にも縛れない感じがする」
「だからこそ、私が隣にいるのよ」
「へえ。じゃあ、私にも資格があるかも」
「ありません」
即答だった。
しかも、リリスが言い終える前に斬り捨てるように。
次の瞬間、カティアの風槍が地面をえぐり、リリスの氷の壁を粉砕した。
砕けた氷片が夜の光を受け、無数の刃のように降り注ぐ。
その中を、リリスが笑いながら滑るように抜ける。
「好きよ、こういうの」
「何がよ」
「自分のものを守ろうとして本気になる顔」
その笑みが、あまりにも気味が悪かった。
甘い。濃い。執着そのもののような目だった。
「あなたのそういう顔を見ると、余計に欲しくなるのよね。あなたの隣も、その男も、あなたが守ってる全部も」
「……気持ち悪いわね」
「あら、褒め言葉?」
「いいえ、本音よ」
風が唸る。
氷が咲く。
峡谷はもはや戦場というより災害の中心のようだった。
少し離れた場所で、ようやくグレイスが子どもたちの方を見た。
「…………本当に、俺、どうしたらいい?」
「父様は何もしないで、出たらたぶん悪化するわ」
「そうか……」
「うん。父様が喋るとたぶんもっと面倒」
「俺、そんなに悪いか?」
「存在が悪いのかもしれません……」
父親に対し、セリナ、リヴィア、そしてアレクの三人が言葉を口にした。
その間にも、カティアとリリスの戦いは続いていた。
最後には、風と氷の巨大な衝突が峡谷全体を揺らし、双方がそれぞれ距離を取る形で一旦止まった。
決着はつかなかった――だが、互いに相手の力は十分すぎるほど理解した。
荒れた大地の向こうで、リリスは髪を払いながら微笑む。
「……いいわね、あなた。すごく気に入った」
「光栄でも何でもないわ」
「でも、もっと気に入ったのは」
そこでリリスは、まっすぐグレイスを見る。
「やっぱり、あの人」
カティアのこめかみに、ぴきりと青筋が浮いた。
「次に会う時は、もっとちゃんと奪いに来るわ」
「来る前に叩き落とすわよ」
「ふふ、楽しみにしてる」
そうしてリリスは氷の霧の中へ消えていった。
その場に残ったのは、ぼろぼろの峡谷と、深いため息をつくカティア、そして本気で困惑しているグレイスだった。
「……カティア」
「何かしら」
「いや……本当に俺、どうしたらいい?」
「何もなさらなくて結構です」
「そうか」
「ただし次にあの女が近づいたら、ちゃんと避けてくださいませ」
「努力する」
「避けきれなかったら?」
思わずリヴィアが聞く。
「その時は父様ごと吹き飛ばすわ」
「理不尽では?」
「理不尽ですね」
セリナとアレクがそろって言った。
そして幼いレイリアだけが、姉の背中でとろとろになりながらつぶやいた。
「んー……ねえ、ねえさま」
「なに、レイリア」
「かあさまも、あのひとも、とうさまのことすきなんだね」
「……そうね。そういうことになるわね」
「とうさま、たいへんそう」
「ええ、とても」
その言葉に、グレイスは心の底から疲れた顔をした。
――それが、十年前。
カティアとリリスが最悪の形で互いを認識し、そして決して無視できない相手になった最初の出来事だった。
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