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国盗りアルト

作者: 三色団子

「もう船には乗らねぇ」

 青ざめた顔で口元を抑えながら、アルトはタラップの端をふらふらと渡り地上に降り立つ。道中は何度もゲロを吐き、ひどい二日酔いにも似た波に揺れる余韻は、地面に足を着けてなお健在である。

 宿に泊まってさっさと寝ようか。そう思考しながらも、足は酒場へと向かっていた。

『ちょっと、宿は?』

 同居人の声が脳内に響くが肉体の主導権は自分にある。アルトは構わず港にほど近い酒場の扉をくぐった。

『昼間からお酒なんていいご身分ね』

「あんたほどじゃねーよ」

 平日の昼間から繁盛するほどこの街の人々は暇ではないようで、酒場の中は閑古鳥が鳴いている。店主と思しき男が退屈そうにコップを磨いていた。

「水を一杯」

「冷やかしなら帰ってくれ」

「酒は勘弁してくれ。船旅から帰ったばっかなんだ」

 男はコップに水を注いでカウンターに置き、椅子に座ったアルトをざっと観察した。艶やかで長い黒髪を後ろ一つに束ねて、瞳は黒く左目は眼帯に覆われ、肌は白い。服装は突然お金持ちになったスラムの住人のようで、高貴ではあるものの服に着られているといった感じだ。かつては水の都や大陸の玄関口、世界の貿易港とまで呼ばれたこの都市で、長年店を開けている男でも、アルトはあまり見たことのない部類の人間であった。

 アルトは煽るように勢いよくコップの水を飲み干した。

「それ銀貨一枚な」

 男の言葉にアルトはむせ返り、「はぁっ?」咳混じりに怒りと困惑の表情を浮かべた。

「高すぎんだろ」

「最近じゃ高級品になっちまったからな」

「いやいやいや、でっけぇ川流れてんだろ。海もあんじゃん。水不足なんて、嘘つくにしてももっとまともな嘘つけよ」

「海水は飲めねぇだろ」

 冷静に返しつつも、男はこの国の現状を簡単に教えてくれた。

 先述の通り、つい二十年くらい前までは、世界有数の開かれた港と豊富な水源により、都市は大いに活気のあるものだった。しかし、先代の国王が突然崩御し、長男の王太子が玉座に着いてから少しずつおかしくなった。治水のためと作られたダムを悪用して河川の水量を大幅に制限し、その水を人質に国民から税金を巻き上げる。貿易に際しては関税を引き上げ、さらには出入国税を導入したことで、港は徐々に閑散としていった。また、貿易による歳入が減ったことで税金の負担率が増加し、今では水の一杯までもが高級品となってしまったのだ。

「アホな王様だな」

 アルトは吐き捨てるように言った。男は苦々しい顔をしてその言葉を受け止めた。

「国民だって馬鹿じゃない。反発もしたし暴動も起きた。でも、あの力の前じゃどうにもならなかったんだ」

 当時の光景を振り返り、絶望と諦めに満ちた声で男は言った。

十種(とくさ)神宝(かむだら)、聞いたことくらいあるだろ。かつて世界を統一した王が持ち、その一つで千年王国を築けると謳われる神のもたらした伝説の秘宝を。ありゃ本物だ。あの宝珠は本物なんだ。あの力の前じゃ、俺たちのそれは蟻の抵抗だ」

 固く握る拳にあるのは怒りか恐怖か、はたまた別の何かか。アルトは男の話を聞いてニヤリと笑った。

「その王様ってのはどこにいるんだ?」

「市中に流れる水路を上って、合流するでかい川を辿るとダムの真ん中に要塞と城が見える。そこに一握りの金持ち、貴族、それと王様がいる」

「へぇ、なるほどね」

「おいおい、間違っても変なことすんなよ。とばっちりで殺されるのはごめんだ」

「大丈夫、上手くやるさ」

 言ってアルトは立ち上がり、カウンターに一枚の硬貨を置いて背を向ける。

「おい待てこりゃ」

「情報量だ」

 男の静止も聞かずにアルトは酒場から出て行ってしまった。

「……この金貨はもう使えねぇよ」

 ぽつりと呟く男の声は、静かな店内に虚しく溶けて消えた。


 水平線に太陽が半ばまで沈みかけ、山向こうにはほの白い月が夜を引き連れている時分に、宿を取ってひと眠りしたアルトは起床した。

 大きなあくびと伸びをしたアルトはベッドから出て支度を始める。

 左腰に短剣を下げ、後ろにナイフの入ったポーチを着ける。背負ってきた荷物の中から全身を覆う黒い外套を羽織り、これまた真っ黒な革の手袋を履いた。ぐっ、ぱっ、と何度か手を握って感触を確かめると、「うしっ、行くか」アルトは荷物を持って宿の外に出た。その頃にはもう、陽はすっかり沈みきっていた。

 市中を流れる水路の一本を辿り、他の支流が一つになるくらいまで歩くと、アルトは自然と街の外へと出ていた。

 岸から下、川底は深く、長年の水流によって抉られた跡が見て取れる。しかし、目測で二キロメートルほどの川幅からは、本来あるはずの水が中流域くらいの水量しか確認できない。昼間に会った酒場の男の言っていた通り、水は大幅に制限されているようである。

 アルトはその光景を眺めながら、活気のない先ほどの街と自身の故郷とを思い浮かべて重ね、小さく舌打ちをした。

 真新しい馬車の通った跡がいくつも刻まれた川の横の街道から逸れ、木々の生い茂った森へと入っていく。

『真っ直ぐ進まないの?』

「人に見つかったら面倒だろ」

 ガサガサと草木をくぐり、獣道を見つけて歩き出す。

 いくら夜とはいえ、車輪の跡等を見る限り人とすれ違う可能性もなくはない。加えて、この時間に街の外を出歩いている連中など、どうせろくな人間ではないのだ。自身の装いも含めて、森の中を進むというのは理に適っている、とアルトは考えたが、世間知らずのお嬢様に説明するのが面倒で口には出さなかった。

 街を出てから五時間ほどだろうか。アルトはダムとその真ん中にそびえる王城が見えるところまでやってきた。整備されていない道、邪魔な草木、上りの傾斜、などなど時間と体力をかなり消耗させられる結果となったが、その甲斐あってか道中は誰にも出会っていない。

 さらに少しだけ山を登り、城壁より高い位置から全体を見下ろす。

「飛べると思うか?」

『ギリギリね』

「まあ、ダメだったら泳ぐか」

 アルトは背負っていた荷物を下ろすと、右手の親指と人差し指で作った輪っかを右目でじっと覗いた。遠く、遠く、城壁の上、篝火と篝火との間に出来た暗い影、石造りのブロックの角の一つ。ぼやけていた焦点が少しずつ合わさっていき、同時に、風景が、空間が、意識までもが世界に溶け合い同化していく。

『アルト』

 消え入る自我の中で自身の名を呼ばれ、アルトははっと気が付いた。

 瞬間、上下左右縦横斜めとあらゆる方向にぐるぐる回された眩暈と嘔吐感、そしていつまでも地面に足が着かない浮遊感が体に纏わりつく。また理解が現実に追いつくよりも先に、その浮遊感は自由落下へと反転していた。

『アルト‼』

 叫び声に脳が揺らされながらも辛うじて城壁の縁に指がかかり、落水を免れる。アルトは絶え絶えの息でなんとか城壁をよじ登り、大の字に転がった。

「ほんっとに、ギリッギリじゃねぇか」

『だから言ったじゃない。私の目測は外れないのよ』

「はいはい、すごいすごい」

 ものの数秒で一キロメートル以上は離れているであろう距離を音もなく移動できたものの、体力と精神の消耗は著しい。いつもならある二、三の嫌味の応酬も、今はそんなことをしている余裕はなかった。

 一歩間違えれば落水してそのまま溺死していた可能性の方が高かったのでは、と思わなくはないが、成功したのだから反省は後回しにして、ただ呼吸を整える。

 落ち着きを取り戻したアルトは立ち上がり城下を見渡した。

 星々に彩られた夜の下で、月明かりに濡れる街並みはひっそりと静まり返り、人々の営みにも似た家々の明かりは闇に紛れて息を潜めている。道行く人は一人もおらず、廃墟と言われれば信じてしまいそうなほど、生命というものをまるで感じなかった。

『どうしたの?』

「いや、静かすぎると思って」

 人が見えないのも、声が聞こえないのも、家々に明かりがないのもまだ分かる。夜も更け、飲んだくれさえいびきをかいて寝静まる頃合いなのだろう。だが、巡回する兵士どころか、城壁に見張りの一人もいないというのはどういうことなのか、アルトは嫌な予感がしていた。

 周囲は水に囲まれ、一見して船以外に渡る術はなく、渡れたとしても高い城壁に阻まれ侵入することは困難を極めている。そう簡単に侵入されることはない、と言えばその通りだが、いくらなんでも不用心がすぎるのではないか。

 逆説的に考えればつまり、脱出するのもまた困難であるということを表している。

 罠かもしれない、とアルトは事ここに及んで思い至る。しかし、と頭を振った。

「なんでもない。予定通り宝珠は頂戴する」

『あのお城の地下に宝珠の反応があるわ。でもなんだか少し力が弱いみたい』

「とりあえず行ってみるか」

 言ってアルトは城壁から飛び降り、城へと一直線に進んで行った。


 城の門扉は固く閉ざされていたが、能力を使えば侵入することなど容易だ。アルトは窓から内部を目視し、飛んで屋内のカーペットの上に着地した。

 音を立てないよう慎重に、かつ素早く移動し、地下への階段を見つけて下る。

 やけにゆるやかな傾斜と円周をした螺旋階段は異様に長く、下りるのに十分から十五分程かかってようやく開けた場所へと出た。

 磨かれた石のタイルで出来た床には水が浅く張られている。天井は三、四メートルほどで、円形の造りをしているその中央には、淡い輝きを放つ丸く透明な石が土台の上に飾られていた。

『あれが宝珠のようね』

 脳内レーダーの勧告を頼りにしつつ、アルトは周囲を警戒しながら宝珠へと近付く。歩く度にぴちゃぴちゃと音が鳴り波紋が広がるのに、靴に水が染みないどころか水滴の一つも滴らない。どこか懐疑的な心象とは裏腹に、アルトは宝珠へと辿り着いてその手に取った。

 子どもの手のひらに収まるほど小さなそれは、息を吹き込めば赤熱する火種の燻ぶった木炭のように弱々しく輝いている。

「これが宝珠?」

 アルトが疑問に思ったのと宝珠が音を立てて粉々に砕け散ったのはほとんど同時だった。砕けた宝珠は破片よりなお細かく塵となり、水に溶けて見えなくなった。

 ——罠か!

 突然のことに驚き停止した思考をすぐさま再起動させる。罠にかかったと考えられる以上、一刻も早くここから脱出しなければならない。アルトはこの地下の唯一の出入り口である階段を振り返った。

 カツン、カツン、と靴を鳴らす足音が階段の奥から聞こえてくる。アルトは腰に下げていた短剣の柄に指をかける。

『アルト、下!』

 脳内に叫び声が響き渡るも、階段と短剣に意識を集中させていたアルトの反応は遅れた。

 地面に張られていた水がうごめき、ものすごい速さでアルトに収束して全身に纏わりついていく。もがき振りほどこうにも水を掴むことはできない。あっという間に、アルトは球体となった水の中に囚われてしまった。

 短剣を抜いて振るってみても水は刃をすり抜ける。進もうにも足は地面から浮いて、じたばたと水を掻くだけ。泳ごうとしても水球の中心に固定されているようで、その場に留まることしかできない。息は、あまり長く持ちそうにない。

 アルトが沈黙したのを見計らってか、ようやく階段の陰から人が現れた。

「こうも簡単に捕まえられるとは、国盗りの名が聞いてあきれるな」

 姿を見せたのは、細かく煌びやかな意匠を施された衣服に、宝石や貴金属を指や腕や首にこれでもかと身に付けた、ゆったりとした服装の上からでも分かるほど太った男であった。

「誰だ」

「余か。余はこのディッセンバルト王国第四代国王、トルネリ・ド・ディッセンバルトである」

 ごぼごぼと水の中で訊ねた言葉はしっかり伝わっていたらしく、その男、トルネリは自慢気に答えた。

「お主らが求めておるのはこれであろう」

 言ってトルネリは、ズボンのポケットから玉を取り出し見せびらかした。それは先ほど部屋の中央に飾られていたものと形や大きさはそっくりで、しかし、比べようもないほど、放たれる威には神が宿っているのがひしひしと伝わってくる。アルトは口から小さく泡を漏らした。

「はっはっはっ、辛かろう苦しかろう。もがけあがけ余を楽しませよ。まあ、その水牢から脱出できたものはおらぬがな」

 高笑いをするトルネリには一切の注意を向けず、アルトは目の前の空間に意識を集中させていた。空間と溶け合い、世界の一部になる感覚を味わうのも一瞬のことで、今度は意識を失うことなくアルトは転移する。

 距離にしてわずか数メートルではあるが、水牢から脱出するだけなら十分であった。

「なっ、どっ、」

 アルトはトルネリとの距離を詰めるべく、短剣を構えて走り出した。上機嫌だったトルネリは一転して驚き狼狽えたが、歯を噛み宝珠を強く握って怒りの表情を顕にする。

「調子に乗るな!」

 トルネリは唾を飛ばしながら叫び、宝珠を掲げた。

 呼応するように宝珠が輝きを増す。

 アルトは突然体が重くなり、膝が折れて転び地面に倒れ込んだ。地面に手を着き力をこめても、腕がぷるぷると震えるばかりで起き上がることはできない。拘束する力が強いというのもあるが、単純に残っているアルトの体力が少ないのだ。

 なけなしの力をこめていた腕も屈し、アルトは地に伏してトルネリを睨むことしかできなくなった。

「まったく、無駄な抵抗を。どうだ、水の重みで動けまい」

 ほっとした表情を浮かべたトルネリは、アルトが動けないことを確信しているのか近寄って、その頭を足蹴にする。

「どうやら先ほどの術で力を使い果たしたと見える。やはり民なくして扱うには代償が重いようだな」

「やっぱり全部罠だったか」

 思えば最初から、それこそただの酒場の店主が、十種の神宝の在処や形状を知っているというのもおかしな話だったのだ、とアルトは自身の軽率さを恥じ入るばかりであった。

「さよう。全て余の策謀である」

 トルネリは名乗った時よりも笑みを深めて語り始めた。

 曰く、重税を課すことで国を疲弊させると同時に、他国からの侵略の口実を作らせた。国民には宝珠の噂を流すことで敵国の間者や盗賊をおびき寄せ、まんまとやってきた者たちを狩っては金品と情報を得る。

 数を経るごとに少しずつ噂は真実の輪郭を帯び、次第にやってくる敵も本気になってくる。名の知れた盗賊や流れの傭兵、どこぞの国の騎士、宝珠の眷属までもが忍び込んできた。そうしてついに、念願叶い、アルトという宝珠を持った者がやってきたのだ。

 さらに都合のいいことに、アルトは次々と能力を使って体力を消耗させていった。

 あの帝国から宝珠を盗み出したとして全世界に指名手配されたアルトを最大限に警戒していたが、それも杞憂と徒労に終わり、少々以上に拍子抜けだと、隠れながら笑みを堪えるのに必死だったとトルネリは言う。

 下卑た笑みを浮かべるトルネリを目の端で捉えながら、アルトはなけなしの力をこめて短剣を振るった。

「させんわ!」

 しかし、トルネリは予期していたとばかりにアルトの手を蹴り飛ばし、短剣は明後日の方向へと音を立てて転がっていく。

「万策尽きたようだな」

 煽り文句には一切の聞く耳を持たず、アルトは左手を腰のポーチに伸ばし、中にあるナイフに触れる。

「がっ、ぐうぅぅぅぅっ!」

 トルネリが絶叫したかと思えば、その右の太股にはアルトが転移させたナイフが深々と突き刺さっていた。鮮血がズボンを染め、なおもこぼれる朱と水が交わる。

『アルト代わりなさい』

「分かってる。任せたぞ、ルカ」

 うずくまり顔を歪めているトルネリをよそに、アルトは服に染み込んでいる水をその場に置き去りにして転移した。バシャ、という音と共に人の形をした水が溶け崩れて消えた。

「んなっ⁉ ど、なぜだ! どこにそんな力が……」

 トルネリから十メートルほど離れた場所に転移したアルトは立ち上がり、外套を脱ぎ捨て、髪留めと一緒に左目にかけていた眼帯を外した。

 アルトの髪が黒から白へと色を変える。背丈は少し縮み、肢体は細身に、胸が慎ましやかに丘をつくり女性らしい腰付きへと変身していく。病的なほど白くなった肌と緋色に染まる右の瞳、左の頬には燃え盛る火の色をした雫の紋様が施され、外した眼帯の奥にはトルネリの持つものと同じ威容を放つ宝珠が嵌められていた。

 トルネリはそれら一連の出来事に、痛みも忘れただただ魅入っていた。

「白髪に白い肌、赤い瞳、頬の紋様。ま、まさか、ルキフスカルバネリア……?」

「あら、意外と博識なのね」

 凛としていてしかし、慈愛に満ちた優しくも儚げで静かな声が鼓膜を震わせる。

 薄く笑みを浮かべたその表情は、まさしく女神のそれであった。

 世が世なら、人々が一目見ただけで頭を垂れて敬い崇め奉り、一大宗教として名をはせるであろう出会いにあって、トルネリは忠実な欲望の歓喜に身を悶えていた。

「ははっ、は、これは帝国に抗うどころではない。二つの宝珠に神の眷属がいま目の前に! 余が、余こそが世界の王、時代の覇王だ!」

 興奮して唾を飛ばしながら高笑いをするトルネリは、足に刺さっていたナイフを抜いて立ち上がる。血の跡こそあれど、流血はすでに治まり傷も癒えているようであった。

「それも宝珠の力かしら」

「さよう、世界を支配する王に相応しい神の力よ」

「残念だけど、あなたはその器じゃないわよ」

 アルトにルカと呼ばれた女性が虚空に手をかざすと、その手の平にトルネリの持っていた宝珠がすっぽりと納まった。

「これは返してもらうわね」

「——それは余の物だ‼」

 一瞬呆けた顔をしたトルネリは、大きく目を見開き、声を荒げて激昂した。

 前方にかざした手に水が収束して球体を成し、砲弾のようにものすごい速さでルカへと飛んでいく。

 あわやルカに直撃するかと思われた砲弾は、轟音と共に後ろの壁へと衝突して水しぶきを上げる。木霊する衝突音に紛れて、「この程度?」ルカは煽るように笑った。

 顔面にいくつもの皺を作り、言葉にもならない声を上げて、トルネリは何発、何十発と水の砲弾を撃ち込んでいく。トルネリの息が切れ、辺り一帯に濃い霧ができるほど撃ち込んでもなお、ルカはその場から動かず平然と立っていた。

 トルネリは前方にかざしていた、ぷるぷると震える手を力なく下ろして固く握る。無意識に一歩後退り、頬を引きつらせて歯を鳴らした。

 圧倒的な優位が覆り、勝つことができないと悟った。

 その体を手に入れ、十種の神宝を集めて世界の王になるという野望が叶わぬと理解した。

 つい気を緩めれば泣き出してしまいそうなほど、トルネリは諦めていた。

 だが、とトルネリの目に力がこもる。

「他の誰かのモノになるくらいなら、今ここで殺してやる」

 自分が負けるかどうかと相手を殺せるかどうかというのは別問題である。

 決意を顕にしたトルネリがパンと両の手を合わせると、階段の奥から地響きにも似た音が聞こえてきた。

 次いで階段から大量の水が流れ込み、刻々と部屋の水位を上げていく。

「このまま溺れて死ね」

 外へとつながる出入り口は階段の一か所のみ。水の勢いが強いため、階段を上るのは現実的ではない。また、儀式を経ていないため宝珠の力は未だトルネリにあり、ルカとアルトに水を止めることなどできない。

 水面は早くもくるぶしまで迫っていた。

「これだとあなたも溺れるんじゃないの?」

「余は宝珠の力で水中でも呼吸ができる。余を殺しても水は止まらぬ。お前に、逃げ場などない」

 ルカの持つ宝珠の能力は、自分と自分が触れている物を視界に映る場所へと転移させるというものだろうとトルネリは考えていた。

 運が良ければ自分は生き残れるが、ルカだけは確実に殺せるはずだ、というのがトルネリの目論見であった。

 はぁ、とルカがため息を吐いた。諦めたのかと問われればそのような意図はまるで感じない。むしろ興味がなくなった、といった様子である。

「宝珠の力はこうやって使うのよ」

 ルカの左目に嵌められた宝珠が淡く輝き、手に持っていたトルネリの宝珠が消えた。その代わりに、ルカの手にはどくん、どくん、と脈打つ赤黒い肉の塊が収まっている。

「はっ?」

 徐々に脈動が弱々しくなっていく肉塊を見ながら、トルネリが素っ頓狂な声を上げる。

 ——そんなはずはない。

 トルネリが何かに思い至ったのと、無意識に左胸に手を置いたのはほとんど同時であった。

 ぽかんと口を開け、視線をさまよわせたトルネリは、ルカの掌ののそれを見ながら、「ない」ぽつり呟く。

「よの、しんぞう」

「正解」

「やめっ」

 ルカはこれ見よがしにトルネリの心臓掲げると、ぎゅっと手に力をこめて握り潰した。

 トルネリの静止を求める声はまるで届かない。

 噴水のように血を噴き出すそれを見ながら、ないはずの心臓の痛みを幻思したトルネリは、胸を押さえ、悲痛と苦悶の表情に顔を歪めながら、ばしゃりと水をはねて倒れ伏した。

「さて、脱出しますか」

 水に濡れた外套を拾ったルカが天井を眺めたかと思えば、次の瞬間には荷物を置いていた森の中へ転移していた。

 再び眼帯を着けて少しすると、髪や肌や目の色、体格などがアルトのものへと戻っていく。

 変身が完全に終わったアルトは、大の字になって仰向けに地面に倒れた。ルカに変わって能力を使っていたとはいえ、元がアルトである以上、消耗を大部分を引き受けるのもまたアルトである。

 枝葉の隙間から覗く宵の空は、白々しくも端の方が青に染まり始めている。アルトはこのまま少し眠ってしまおうか、と眼を閉じた。

『さっさと起きて次行くわよ』

 脳内にルカの声が響く。気怠い頭と重たい体になっているのはいったい誰のせいだと思っているのか。「つーか、あんなことできたんだな」文句を言っても栓のないことと短い付き合いでも理解しているアルトは、適当な会話で時間を稼ぐことにした。

『あんなことって?』

「見えなくても転移してただろ」

『してないわよ』

「はぁ? 心臓とかここに戻ってきたのとか、見えてなかっただろ」

『私には見えてるのよ』

「……それ、俺にもできんの?」

『無理ね。眷属のままじゃ』

「じゃあ儀式をすれば」

『無理ね。才能がないもの』

「努力すれば」

『それでどうにかなるなら世界に無能は溢れていないわよ』

「そりゃそうだけど」

『それよりいつまでそうしているつもり? 無能は怠惰の免罪符になりえないのだけれど?』

「分かった分かった、分かりましたよ。起きればいいんだろ起きれば」

 アルトは渋々といった面持ちで立ち上がる。「次の目的地は?」荷物を背負ってアルトは尋ねた。

『そうね。近いのはニグレドかしら』

「直線距離ならな」

『なによ。山くらい越えなさい』

「はぁ、簡単に言ってくれる」

『何か言ったかしら?』

「喜んで向かいましょうって言ったんだよ」

『よろしい、それならさっさと歩きなさい』

 白を帯びた雲が、陽の気を漏らした稜線が、赤焼けた空が夜の終わりを告げる方角へ、アルトは次なる十種の神宝を求め、鉄の国ニグレド鉱国へと足を伸ばす。

 その旅路の険しさを表すように、道行く山脈は峻厳と構え聳え立っていた。

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