石畳の上で氷の辺境貴族に拾われて溺愛されました
壊れた石畳の先で、最後に振り返ったのは使用人の誰でもなく、軋む扉の音だけだった。
父は居間の椅子に座ったまま動かず、継母は鏡の中の髪を撫でていた。兄も姉も、私を見ない。まるで“長く居すぎた家具”が処分されるのを見送るように、誰一人として言葉をかけようとしなかった。
「送迎の馬車を頼む余裕はうちにはありませんのよ。歩いてでも、しっかりご栄転なさってくださいませ」
継母の薄ら笑いは、声ではなく音だった。中身のない響きが、耳の奥にこびりつく。
私は静かにうなずいて、家を出た。
歩き始めて数分後、雨が降り出した。春を迎えるはずの雨にしては、底冷えするほど冷たくて、いっそ痛みのようだった。
手に持たされた旅行鞄は姉のお古。片方の取っ手が壊れかけていて、石畳の角にぶつけたとき、嫌な音を立てた。けれど、拾うことはしなかった。
たかが荷物ひとつ。持っていたって、私の何が変わるというのだろう。
私の名は、ユリフィア・グラシェル。第三子。しかも、母が賤しい出の踊り子だったという理由で、家では“付属物”のように扱われていた。書類上は令嬢、でも中身は居候。そんな曖昧な立場の私に、ある日突然「縁談」が降ってきた。
「辺境の当主が、嫁を探しているらしい」
兄の一言から始まり、話は淡々と決まっていった。
家は南の港町。嫁ぎ先は北の断崖の館。名前だけは高貴だが、封じられた魔術戦の傷跡が未だ残る、凍りついた旧戦場のような土地だという。
相手の名前はゼルヴィス・アークウェル。貴族階級ではあるが、過去に自らの魔術で氷塊を呼び寄せ、敵味方問わず戦場を凍らせたという曰くつきの人物だった。
そんな人の元に、なぜ私が嫁ぐのか。
答えは簡単だ。
「うちにいても、食費の無駄だからね」
そう継母は言った。兄や姉の婚姻のように、祝いの場もなければ、婚約式もなかった。私はただ、戸籍に名前を書かれ、荷物を押しつけられ、扉の音だけを背にして追い出された。
霧雨の中、北へ向かう街道の馬車乗り場に、ひとつの荷車が停まっていた。
乗合馬車かと思ったそれには、年老いた御者と、軍服にも見える厚手の黒い外套の男が一人、背を向けて立っていた。
「ユリフィア・グラシェルか」
「……はい」
「乗れ。話は移動中にする」
男の声は落ち着いていたが、その言葉の選び方は軍人のように無駄がなかった。
私は従うように荷車へと足をかけた。雨粒が肩に当たるたび、どこかで“音が消えていく”感覚があった。
車内は簡素で、荷物と木箱が並べられていた。座席というほどのものはない。男が黙って座ると、その正面に私は控えるように腰を下ろした。
しばらくの沈黙のあと、彼はようやく口を開いた。
「私はゼルヴィス・アークウェル。この度の縁談は、私が望んだものではない。……だが断る理由もない」
まるで戦況報告のような言い回しに、私はただ静かに目を伏せた。
「はい。心得ております。私も……望まれて嫁ぐ立場ではないと、わかっております」
その瞬間、彼の眉がわずかに動いた気がした。
そしてもう一言、静かに呟く。
「ならば、互いに必要以上を望まぬように」
「はい」
馬車はゆっくりと動き出した。泥濘を滑るように、先の見えない道を、黙って進んでいく。
こうして、誰にも望まれなかった二人の婚姻が、静かに始まった。
道中、ゼルヴィス様はほとんど口を開かなかった。
私も話題を探すふりだけして、結局、何も言えなかった。会話というのは、互いが対等であるからこそ成り立つもの。けれど今の私は、“捨てられた荷物”と大差ない。
雨は次第に雪へと変わり、車輪がぬかるみに沈むような重い音へと変わっていった。
何度目かの休憩を挟み、ついに“館”が見えたのは、四日目の夜だった。
「……ここが、屋敷……?」
濃霧の中、見上げた先に立つ建物は、まるで岩山から切り出したような灰色の石造りだった。装飾らしきものはほとんどなく、ただ塔が三本、風に軋む音を響かせている。
入り口の門は片側が錆びたまま開かれ、番をする者はいなかった。
「城の一部を改装したものだ。戦時中の司令拠点だった。今でもその名残が残っている」
ゼルヴィス様はあくまで事実だけを述べるように淡々と説明してくれた。
けれど、私はその説明よりも、館の周囲に広がる“音のなさ”に凍りついた。
風が吹いているはずなのに、雪が降っているはずなのに、その世界には“音”がなかった。
――まるで時間ごと凍りついたように。
「誰も……いないのですね」
「今は冬期閉鎖期間。使用人たちは町に下げてある。必要最低限の人間だけが残っている」
だから番もいないのか、と納得しながら、私は館の扉をくぐった。
内部もまた、冷えていた。
石壁の通路に敷かれた絨毯は色褪せ、窓辺には結露の跡が凍りついていた。ろうそく台だけが等間隔で並び、その光だけが私たちを迎えてくれる。
「案内する。……部屋は東棟に取ってある。風が当たりにくく、静かだ」
黙ってついていくうち、私はふと気づいた。
この人は、“最低限のことだけは守ってくれる”のだと。
望まぬ嫁でも、最低限の寝床は与える。拒絶はしても、放置はしない。冷たさと礼節が同居しているような、不思議な距離感。
やがて、ゼルヴィス様は一枚の扉の前で足を止めた。
「ここだ。暖炉はあるが、火は自分で起こせ」
そう言って、彼は小さな魔石の詰まった籠を渡してきた。
「これを炉に投げ入れれば、一時間は熱を保つ。ただし……」
「使いすぎれば、尽きるのですね」
「察しがいいな。助かる」
そう言って、彼は小さく笑った……気がした。ほんの一瞬だけ、口元が緩んだように見えたから。
彼が去った後、私は部屋に入り、扉を閉めた。
簡素なベッド、机、暖炉、そして古びた鏡台。家具はそれなりに揃っていたが、何より驚いたのは――
「……清潔」
埃ひとつなかった。
住まいの端、しかも放置されていたはずの空き部屋が、きちんと整えられていた。
何度もこうして人を迎えるために、掃除されてきたのか。
それとも――
私は暖炉に魔石を一つ放り込んだ。ぽん、と小さな音を立てて火花が舞い、ふわりと温もりが広がる。
それを眺めながら、私は鞄を解いた。
中には、姉から譲られた古着のドレスが三着。端がほつれ、刺繍が解けかけているものもあった。
「……だいじょうぶ。着られれば、十分」
独り言のように言って、自分を励ました。
初めての夜、風が吹き荒れる中で私は毛布にくるまりながら、何度も目を覚ました。けれどそのたびに、あの静かな目元を思い出す。
ゼルヴィス・アークウェル。
氷を呼び出したというその男の瞳には、確かに冷たさがあった。
けれど――あれは、冷酷ではなく、静寂だったのかもしれない。
翌朝、私が目を覚ましたのは、まだ外が薄暗い時間だった。
肌を刺す冷気に包まれながら、私は薪の代わりに投じた魔石が灰となって崩れているのを見て、小さくため息をついた。
この地での生活は、目覚めの瞬間から厳しい。けれど、あの屋敷で息を殺すように生きていた頃よりも、ずっと“自分の意志”で動ける分、何倍も健全だった。
簡単な身支度を整え、廊下に出る。扉を開けた瞬間、石床から足元へと冷気が吹き上がり、思わず背筋が伸びた。
朝の館は静かだった。
が、東棟を抜けたあたりで、鋭い音が耳を打った。
打撃の音。重い鉄を叩くような規則的な振動が、廊下の石壁を通して響いている。
その音に誘われて奥へ進むと、半開きになった鉄扉の隙間から、ひとりの人影が見えた。
――ゼルヴィス様だった。
冬の冷気の中、上着すら羽織らず、長柄の剣を両手で構えている。
氷のように無駄のない動作で、一切の迷いもなく剣を振るう。その姿は、まるで長く封じられていた古の兵器が再び動き出したような、重みと静けさを帯びていた。
「……鍛錬?」
つい漏れた声に、ゼルヴィス様が動きを止めた。
「早いな。まだ夜明け前だぞ」
「音が聞こえて……気になって、つい」
「気配に気づかれずに近づかれるとは。衰えたな、俺も」
そう言いながらも、その声音に責めるような色はなかった。むしろ、どこか心地よい疲労のにじんだ口調だった。
「すみません、邪魔をしてしまって」
「いや。日課だ。気にするな」
彼は剣を下ろし、白い息を吐いた。
「剣だけでは、この地は守れない。だが、剣がなければ話すことすらできない連中もいる」
「戦う必要が……あるのですか?」
「あるとも。辺境というのは、国の中で最も“外側”だ。つまり、最初に誰かが越えてくる場所でもある。魔物か盗賊か、あるいは……内乱の火種かもしれん」
その声には、淡々とした現実だけがあった。悲壮でもなく、誇張もない。ただ静かな戦士の覚悟だけが、そこにあった。
「私も……何かお手伝いできることがあれば、ぜひ」
「君に剣を握れとは言わん。だが……あれだな、厨房が壊滅している」
「はい?」
「料理人の主力が冬期は町へ戻る。残っているのは、剣より重い鍋も握れない若造と老人だけだ」
「では、私が代わりに……!」
「できるのか?」
「家では下働きばかりしていたので、むしろ得意です」
ゼルヴィス様が、ほんの少し驚いたように目を細めた。
「……そうか」
「はい。あ、食材は……」
「地下倉庫に保存してある。案内する」
こうして、私は正式に“氷の館の家事担当”としての役割を得た。
案内された地下倉庫は、館の寒さを利用した天然の冷蔵室のようになっていた。干し肉、干し魚、硬いパン、根菜、乾燥豆――質素だが保存性の高い食材が並んでいる。
これなら工夫すれば、十分食卓らしいものを整えられる。
「夕餉は、任せてください」
「……期待しないでおく」
言葉とは裏腹に、その背はわずかにほぐれていた。
この人は不器用なだけで、決して人を突き放したいわけではないのかもしれない。
そんな気がして、私は少しだけ、寒さを忘れた。
厨房には、ほこりをかぶった調理器具が無造作に並んでいた。
鍋の裏には焦げつきがあり、まな板は乾燥して割れかけている。水場からはぎりぎりの水音が聞こえるが、それすらも冷たさで凍りつきそうな温度だった。
それでも私は、心のどこかが安堵していた。
任される場所があるということ。それは、誰かの“役に立てる”ということ。
かつて実家では、気配を消すように生きていた。皿を割れば小言、言葉を返せば睨まれ、存在することが罪のようだった。
でも、ここでは違う。自分のすることが、たとえ小さくても“必要”とされている。
私は倉庫で選んだ根菜と干し肉を刻み、澄んだ水に塩を溶かして煮込んだ。
玉ねぎの代わりに刻んだ乾燥ハーブを加えると、少しだけ香りが立った。
「……シチューというより、塩煮込み、ね」
けれど、腹を満たすには十分なものができた。刻んだ硬パンを添えて、私はできるだけ綺麗に皿に盛りつけた。
それから、使用人のための分と、ゼルヴィス様のための一皿を載せ、震える手でトレイを持った。
「失礼します」
扉をノックすると、短く「入れ」と返ってきた。
執務室は、館の塔の中腹にある。木造の机には地図や文書が山積みされ、暖炉には焚き火の代わりに魔石がゆらゆらと赤く光っていた。
ゼルヴィス様は筆を走らせたまま、顔だけこちらに向ける。
「……作ったのか」
「はい。あり合わせのもので、ですが」
「ありがとう。そこに置いてくれ」
私は机の端に皿を置いた。ほんの少しだけ立ちのぼる湯気が、室内の冷気をわずかに押し返す。
「粗末ですが、召し上がってください」
「……いただく」
彼はスプーンを取り、無言のまま口に運んだ。
しばしの沈黙。私は、息をひそめて様子をうかがった。
けれど、数口目で彼は、目線を上げた。
「温かい」
「……えっ?」
「ここで、温かい食事を口にするのは、久しぶりだ」
その言葉に、胸の奥がじわりと熱くなる。
「お口に合えば、うれしいです」
ゼルヴィス様は、そのまま静かに食事を続けた。大げさな言葉は何もない。ただ、確かに“食べてくれる人がいる”という事実が、私には十分だった。
その翌日から、私は正式に厨房を任されることになった。
使用人の年配の料理番にも挨拶し、彼が快く鍋と火の扱いを教えてくれたことで、作業もずいぶん楽になった。
そして三日目の夜――
「ユリフィア」
執務室の扉を開けようとしたそのとき、彼の方から呼びかけられた。
「……はい?」
「君に訊きたいことがある」
ゼルヴィス様の言葉は、いつも唐突で、けれど決して乱暴ではなかった。
「実家では、どのように過ごしていた?」
「……はい?」
「君が料理を作る様子を見て、ふと気になった。慣れすぎている。……貴族の娘として育てられたのであれば、多少の知識はあっても、手際が良すぎる」
「……ああ」
私は、少し笑ってしまった。
「私の母は、舞台で踊っていた人でした。父に拾われ、妾として館の隅に置かれていました」
ゼルヴィス様は何も言わず、じっと聞いていた。
「母が亡くなってからは、下働きのような扱いでした。正式な令嬢として育てられたわけではないんです。……お恥ずかしい話ですが」
「いや。そうではない」
「……?」
「君は、よく耐えてきた。見下すようなことではない」
その言葉は、今まで誰にもかけられたことがなかった。
「……ありがとうございます」
そう言うと、ゼルヴィス様は視線を少しそらして、言いにくそうに呟いた。
「……君の料理は、実のところ、温かさ以上に味も良かった」
「ふふっ」
私は小さく笑った。彼が不器用なやり方で褒めてくれていることが、言葉よりも伝わってきたから。
この館は冷たくて、静かで、冬のような場所だけれど。
それでも、食卓には、ほんの少し火が灯り始めている。
雪が止んだ翌朝、館の庭に降り積もった白の静けさを見下ろしながら、私は湯気の立つスープ鍋をかき混ぜていた。
今朝は、保存していた塩漬け魚を焼いて、根菜のスープを添える。特別な料理ではないけれど、火を通した香りが館全体に広がると、空気そのものが少しだけ柔らかくなったような気がした。
――音がする。
誰かが廊下を歩いてくる足音。
耳を澄ませると、ゆったりとした、けれど力強い重さを感じるそれは、ゼルヴィス様のものだとすぐにわかった。
厨房の扉が開く。
「……ここにいたのか」
「はい。朝食の準備を」
「そろそろ、厨房も温かい場所になる頃だと思ってな」
その一言に、思わず口元が緩んだ。
「いい香りだ」
「今朝は焼き魚とスープです。もしお時間があるようでしたら、厨房でどうぞ」
彼は少し眉を上げた。
「……いいのか?」
「もちろんです。食堂は冷えていますし、暖炉はこちらのほうが近いですから」
私は大鍋の脇に置いてあった簡素な丸椅子を引き出した。ゼルヴィス様は少しだけ迷うような間を置いてから、静かにそこへ腰を下ろした。
「不思議なものだな。貴族が厨房で飯を食うなど、かつての俺には考えられなかった」
「貴族だからこそ、気張らずに過ごせる場所があっても良いと思います」
「君は、そういうふうに世界を見ているのか」
「……はい」
彼は頷いた。どこか遠いものを見るような視線で火のゆらぎを見つめながら、ぽつりと話し始めた。
「戦が終わって、館に戻されたとき……この場所が、こんなにも寒くなっていたことに驚いた」
「寒く……というのは?」
「気候ではない。音が、ない。人も、灯りも、温度も。命が宿っていたものがすべて凍りついたようだった。……俺は、凍らせてしまったのかもしれないな。戦も、人も、自分も」
「……でも、今日の館は、少し温かいです」
私のその言葉に、ゼルヴィス様は目を細めた。
「君が来てからだ」
「……」
「驚いたよ。最初は、“望まれて来たわけではない”という顔をしていたのに、いつの間にか、火を灯す側になっている」
「それは、ゼルヴィス様が……私を、追い払わなかったからです」
彼は、まっすぐに私を見た。
その視線は、かつての父や兄姉が向けてきたものと違った。“値踏み”や“見下し”ではない、ひとりの人間として向き合おうとする眼差し。
「この地ではな、火を絶やすことは、死と同義だ。火を絶やさずに保ち続けるには、誰かが絶え間なく薪をくべなければならない。君は、それをずっと続けている」
「料理の火なら、得意です」
「……違う。人の心の火だ」
私は、言葉を失った。
心の奥に、小さく火が灯る音がした気がした。
「ありがとう、ユリフィア」
「……いえ。こちらこそ、ありがとうございます」
その時だった。彼の顔が、ふっと、少しだけ崩れた。
柔らかく、どこか照れくさそうに。
私は初めて見た。ゼルヴィス・アークウェルの“微笑み”というものを。
それは、ほんの短い時間だったけれど、確かに本物だった。
その微笑みは、今まで私が得ようとしても得られなかった“家族”や“保護”や“安心”といったものの総称のようで――
私は胸の奥が熱くなるのを感じながら、ゆっくりとスープを彼の前に差し出した。
「おかわりも、どうぞ」
「……いただくよ」
鍋の音が、ぽこんと鳴った。
厨房に、もう一度、あたたかい火が灯った。
春の兆しは、辺境にはなかなか届かない。
街では雪解けが始まる時期だというのに、この館の周囲はまだ一面の白に覆われていた。けれど、空気の端々にかすかに感じる湿気や、鳥の鳴き声の復活が、季節の変わり目を静かに告げていた。
そんな朝のことだった。
「ユリフィア様、お手紙が届いております」
給仕の少年が差し出した封筒を見て、私は胸の奥がきゅっと縮まるような感覚を覚えた。
封蝋に見覚えがあった。金で縁取られた、あの実家の紋章。
「……差出人は?」
「グラシェル男爵家よりとのことです」
少年がそう答えると、私は無言で手紙を受け取った。ずっと触れていなかった、過去が、いきなり目の前に戻ってきたような気がした。
部屋に戻り、静かに封を切る。
中には、父の筆跡で短い文が記されていた。
『最近、君の婚家の働きが中央に届いていると耳にした。元は我が家の娘として、無礼がないようにふるまうように。
また、公爵家との縁談を取りまとめるにあたり、姉ミリュゼの婚礼衣装の手配を君に任せたい。辺境の工芸品で構わない。』
……何を言っているのだろう。
呆れもせずに読めるようになってしまった自分が、少し情けなかった。
まるで、私はまだ“家の都合の一部”としてそこにいるかのような文面。
名も呼ばれず、感謝もなく。ただ“使えるかどうか”だけが見られている。
それでも、私はもう以前の私ではなかった。
「ゼルヴィス様」
その日の夕方、彼が書斎で報告書を読んでいるところへ、私は手紙を持って足を運んだ。
「実家から、連絡が届きました」
「……そうか」
「内容は、辺境の名が中央に届き始めたことと、私を通じて品をよこせということでした。……まるで、私がまだ向こうの一員であるかのように」
ゼルヴィス様は手紙に目を通し、ゆっくりと置いた。
「断って構わない」
「……よろしいのですか?」
「君はもう、うちの者だ。それ以上でも、それ以下でもない。君の意志が最優先だ」
その一言に、私の胸がじんと温かくなった。
「ありがとうございます。では、丁重にお断りします。……もうあの家には、恩も未練もありません」
「よく言った」
彼は満足そうにうなずいた。
私はその後、丁寧な筆致で断りの返書を書いた。要点を崩さず、礼を尽くし、はっきりと「私の務めるべき場所は今ここにある」と綴った。
それを投函した翌週のこと。
館に、一台の客馬車が訪れた。
青と銀で塗られた車体は、中央貴族の印をつけていた。
「……使者か?」
ゼルヴィス様が警戒の色を滲ませた声で呟いた。
門番が対応し、報告に来た。
「グラシェル家の令嬢、ミリュゼ様です」
姉の名を聞いて、私は思わず息をのんだ。
「ミリュゼが……ここへ?」
「直接話がしたいと」
「……わかりました。応接間へどうぞ」
久しぶりに顔を合わせた姉は、相変わらず高価な宝石をあしらった装いをしていた。艶やかな髪を揺らしながらも、目の奥に焦燥を宿していた。
「ユリフィア……随分、雰囲気が変わったのね」
「それはそちらも」
「冷たいのね。でも……あなたが断ったから、公爵家との婚礼の引き出物が間に合わないの。責任は取ってもらうわ」
「間に合わないのは、頼る先を間違えたからです」
私の言葉に、ミリュゼは少し唇を引き結んだ。
「……まさか、そんな風に言い返される日が来るなんて思わなかった」
「私も、何かを期待しなくなったからでしょう」
そのやりとりの中で、扉の向こうからゆっくりと足音が近づいてきた。
ゼルヴィス様だった。
「話は終わったか?」
「はい」
「ならばこの館に、今後グラシェル家からの使者は不要と伝えておけ」
ミリュゼは一瞬、言葉を失ったようだった。だが、次に開いた口から出たのは、呟きのような言葉だった。
「……本当に、あなた、変わったのね」
「ええ。私はもう、あの家の“添え物”ではありませんから」
応接間に、はっきりとした決別の空気が流れた。
春はゆっくりと、この辺境にも訪れた。
まだ霜が残る石畳の隙間から、ようやく小さな草の芽が顔を出し始め、凍てついていた風にも湿り気が混じるようになった。
館では、冬期に町へ下げていた使用人たちが徐々に戻り始め、空気が少しずつ賑やかになっていった。とはいえ、貴族の館にしては相変わらず静かな場所であることに変わりはなかったが。
そんな中で、ゼルヴィス様との距離は、以前よりも確かに近くなっていた。
「ユリフィア、今朝の鍛錬、付き合ってみるか?」
「私にできることがあるなら、ぜひ」
剣は握れなくとも、道具の準備や後片付け、飲み物の差し入れなど、私にできることは思いのほか多かった。彼の動きを見て覚えた“間”に合わせて動くことができるようになった自分に、わずかばかりの誇りすら芽生えていた。
だが、ある日の夕方、届いた一通の手紙が空気を変えた。
「王都から……?」
その手紙は、ゼルヴィス様宛に届いたものだった。厚い封蝋には王家の紋章が刻まれており、開いた彼の目がわずかに細められる。
「……どうかされたのですか?」
「中央軍から、視察の使者が来るそうだ。……名目は“辺境防衛状況の再確認”らしい」
その声には、わずかな苛立ちがにじんでいた。
「視察、ですか」
「中央は常に、辺境を“制御下”に置いておきたいのだろう。俺のような戦場上がりの貴族を、信用していない」
確かにゼルヴィス様は、自らの手で領地を守り抜いた英雄だ。だが、その強さゆえに警戒されるというのもまた、皮肉な話だと思った。
「いつ、来られるのですか?」
「五日後だ。……準備を頼めるか?」
「もちろんです」
私はすぐに館の整備、使用人たちとの打ち合わせ、献立の調整に取り掛かった。久しぶりに人の目が多く集まるとなれば、気を抜くことはできない。
そして五日後、王都からの使者を乗せた馬車が館へ到着した。
馬車から降りたのは、灰色の軍装をまとった若い将校だった。鋭い目つきと浅い笑みを張りつけた顔が、威圧感を帯びていた。
「辺境侯、ゼルヴィス・アークウェル殿。王都軍監査役、カルド・エルメリア少佐にございます」
「ようこそ。寒さが残る地ですが、ゆっくりとご覧になってください」
ゼルヴィス様は落ち着いた声で迎えた。だが、内心は静かに警戒していることが伝わってくる。
監査役の視察は形式的なものだったが、その態度には終始見下しの色が浮かんでいた。
「ふむ……館は思ったより整っているが、やはり人の気配が薄い。兵の規律にも不安がある。……これでは貴族というより、ただの元兵士の野営地のようですな」
使用人たちの手前、私は歯を食いしばっていた。
けれど、ゼルヴィス様は怒りを見せず、静かに答えた。
「必要最低限の人員で、冬を越すにはこの規模が適しています。戦のない季節に過剰な装飾を施す余裕はありませんので」
「ふむ。合理的、というわけですか」
その皮肉めいた言葉を聞いて、私はたまらず口を挟んだ。
「この館は、戦場にあった場所です。生き残った人たちが、今もここで暮らしています。飾り立てることよりも、静かに、誠実に過ごすことのほうがずっと価値があると、私は思います」
カルド少佐が私のほうに目を向けた。
「……貴婦人が、口を挟むとは」
「私は、この館の“妻”です。主人の意志も、日々の営みも、すべて見てきました。言葉だけの視察で、この場所を測られるのは、我慢なりません」
空気が凍る一瞬。
けれどゼルヴィス様は、私の横に静かに立った。
「彼女の言葉は、事実だ。……この地に、必要なのは見栄でも報告でもない。“人が生きられる力”だ。それを見たくて来たのなら、歓迎する。だが、形だけの検分に意味を求めるなら、王都に戻って報告だけ書いてくれ」
カルド少佐は唇を噛み、やがてふんと鼻を鳴らして背を向けた。
「……戦の匂いが抜けていない土地だ。報告書にはそう記しておきましょう」
それは、ある種の敗北宣言だった。
使者たちが帰った後、私はゼルヴィス様に小さく頭を下げた。
「……出過ぎたことを言ってしまい、すみません」
「いや。あれは君にしか言えなかったことだ。……ありがとう、ユリフィア」
彼が私の名を、まっすぐに呼ぶたびに。
心の奥に、何か大切なものが根を張っていくような気がする。
視察の使者が去って数日が過ぎた。
辺境には再び静けさが戻り、まだ肌寒い風が吹くものの、日差しには確かな柔らかさが感じられるようになっていた。
館の裏庭では、雪が解けた土の上に、小さな蕾がいくつか姿を見せていた。凍土を割って芽吹いたその姿に、私はしばらく目を奪われていた。
「ユリフィア、そこにいたのか」
「はい、ゼルヴィス様」
背後から声をかけられて振り返ると、彼は手に包みを持っていた。布に丁寧にくるまれたそれを、彼は私の前に差し出した。
「……これを、君に」
「え?」
包みを開くと、そこには薄緑の地に小花の刺繍をあしらった、柔らかな外衣が入っていた。手織りのようで、温かみのある風合いだった。
「春先はまだ冷えるから。……派手なものではないが」
「……ありがとうございます」
私は外衣を胸に抱えたまま、思わず微笑んだ。
そして、ふと彼の表情が少し硬くなるのを見て、小首をかしげる。
「……何か、ありましたか?」
「いや……いや、違う」
ゼルヴィス様は何かを言い出そうとして、言葉に詰まったようだった。珍しい姿だった。
「ユリフィア」
「はい」
「君は、もう“この地にいていい”と、そう思えているだろうか」
私は、すぐに頷いた。
「はい。……もう、どこにも行きたくありません」
彼の目が、わずかに伏せられた。
「それなら……良かった」
沈黙の中、彼は空を仰いだ。
「この館に、春の名を刻みたいと思っていた。氷と風しかなかったこの地に、ようやく命が戻ってきたから」
「春の名、ですか」
「そう。……そして、それを“君の名”と重ねたい」
私の胸が、きゅうっと音を立てたような気がした。
「ユリフィア。君に正式に……妻として、この館の名を共に背負ってほしい」
静かで、けれど確かな言葉だった。
「今までは、名ばかりの婚姻だった。君を迎えるにあたって、何も用意できていなかったから」
ゼルヴィス様の手が、私の頬にそっと触れた。
「だからこそ、いま。ようやく、自分の意思で、君に“いてほしい”と言える」
「……はい」
言葉に詰まった私だったが、涙があふれるよりも早く、頷いていた。
「私も、ゼルヴィス様とこの館で……一緒に、生きていきたいです」
その瞬間、彼の表情にほんのわずかな笑みが浮かんだ。厳しい冬の中に咲く、初めての花のような、あたたかい笑顔だった。
その日、私たちは館の小さな礼拝堂で、改めて誓いの言葉を交わした。
証人はわずか。けれど、それでも確かに“家族”が生まれた瞬間だった。
後日、ゼルヴィス様が私に見せてくれた書状には、こう記されていた。
『この館に、春の名を。
凍土を割って咲く花のように、ユリフィアの名を刻むことをここに誓う』
私は、捨てられた令嬢だった。
誰にも望まれず、白く塗られた馬車で遠ざけられた存在だった。
けれど今、私はこの地で、ひとつの春の名となった。
この地に根を下ろし、凍りついていた誰かの心に、小さな火を灯す存在として。
長い冬は、ようやく終わった。
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