湾口都市レネウス
エーレたちと森を抜けている最中、魔物に再び襲われたユリウスをシュトルツが助ける。
そこにエーレとリーベも遅れてやってくる。
危険を顧みず助けてくれたシュトルツを見て、彼らのことを知ってから信用できるか判断してもいいのでは?と思い始めたユリウスだった。
丘陵地帯に入ったのが、翌日の夕刻。
遠くに白い防壁が見えてきたのが、その三日後だった。
森に比べると、随分足が軽い。
風は潮の香りを運び、春を待つ草花たちが陽に向かって、静かに揺れる。
そんな長閑な景色が続いていた。
景色を楽しむ僅かな心の余白を感じながら進む視界の先で、白い防壁は徐々にその輪郭を露わにしていく。
レネウスには、帝国軍も配置されている上に、街に入る際には検問もある。
身分証は持っていない。
無くしたという言い訳が通じても、フードの下まで隠せるわけではない。
半歩前――頭の後ろで両手を組んで、陽を仰ぎながら楽しそうに鼻歌を歌うシュトルツを、そっと覗き見てみる。
時々、音を外しながら歌っているそれは、聞いたこともない歌だった。
ユリウスの視線を感じ取ったのか、彼は「ん?」と視線を投げてきた。
「僕、身分証なんて持ってないんですけど」
「身分証? いらないよ、そんなの」
まるでおかしなことを聞いたように声を上げた彼は、すぐに鼻歌に戻った。
「いらない? いや、いりますよね?」
湾港都市ほどの大きな街に入るのに、身分証の提示がいらないはずがない。
防壁は、どんどん近づいてくる。
あと一刻もしないうちに、門にたどり着くだろう。
何度説明を求めても、シュトルツが答えないのを知ったユリウスは、後ろのリーベへ振り返ってみた。
彼はこちらを一瞥すると、逡巡するような間を置いたあと「エーレ」と、前へ呼びかけた。
「わかってる。ただでさえ、下手くそな歌だけで喧しいのにってのに」
「酷くない? この美声の良さがわからないなんて、エーレさんの耳がーー」
シュトルツが言い終える前に、乾いた衝撃音がした。
驚いて音の先を見ると、シュトルツが頭に手を当てている。
「お前の才能は、その減らず口だけだろ」
「エーレさん。暴力は、教育によくないと思うけどなぁ」
随分景気の良い音がしたにも関わらず、彼は全く痛がる素振りを見せない。
これはこれで、腹ただしいかもしれない。ユリウスは口の中で呟いたのと、エーレの舌打ちが同時だった。
「渡しとけ」
それだけ言ったエーレは、シュトルツに何かを押し付ける。
シュトルツから渡されたのは、黒い石が嵌められた銀色のブレスレットだった。
彼は同じものをリーベに渡して、自分も腕にもそれを通した。
「魔鉱石のブレスレット。隠蔽の効果があるから、付けとけば、何の問題もないよ」
――’’魔鉱石’’
世界に数多くある鉱石は、それぞれ相性の良い属性魔法がある。
その相性の良い魔法を鉱石に付与して、特定の効果を発動させるもののことだ。
風の魔法なら伝達。土の魔法なら防御。炎の魔法なら発火や燃焼。
光の魔法なら、軽い怪我くらいは治癒できてしまう。
けれどそれは、一般にはあまり普及していない、贅沢品として扱われている。
何故なら、魔鉱石の付与は繊細で緻密な作業であり、魔法付与師の数も少ないからだった。
――隠蔽の魔法効果?
8種類ある属性魔法の中で、そんな効果は聞いたことがない。
ユリウスは言われるまま、ブレスレットを腕に通してみたが、黒色の石からは何も感じない。
何かの効果を発して、何かが変わった気配もない。
これを付けていれば、何の問題もない――シュトルツの言葉を信じるのは難しかった。
それでもやはり、彼らはそれ以上なにも語ることはなかった。
懲りないシュトルツの下手くそな鼻歌を聞きながら歩いていると、あっという間に湾港都市レネウスの門が見えてきてしまった。
ユリウスは急いで、フードを深く被りなおす。
彼らは歩を緩めることもなく、門の前で足を止めた。
門番が二人――若い男性だった。
ユリウスはその目になるべく映らないように、彼らの後ろへと身を潜めた。
「依頼を終えて戻った」
端的に告げたエーレが、懐から何かを出して門番に見せたようだった。
「お疲れ様です」
一言だけ答えた門番のうち一人が、一番大きなシュトルツの背へと隠れていたはずのユリウスへと首を伸ばしてきた。
「そちらは?」
体が緊張で強張らせながらも、更にフードを引こうと手を伸ばしたとき――突然、視界が太陽に晒された。
フードが誰かに剥ぎ取られたことを知ったユリウスが、驚きに息が詰まらせながら顔を上げる。
そこには不機嫌そうな表情で、こちらを睨んだエーレがいた。
「護衛対象だ。身元はカロンが保証する。通るぞ」
「カロンの皆さんなら、何の問題もなさそうですね。どうぞ」
一つ頷いた門番が、あまりにも呆気なく道を開けた。
目が合うと、彼はにっこりと微笑んできた。
混乱を抱えながらも、ユリウスは不自然さを出さないように努めながら、小さく会釈で返す。
理由はわからないが、どうにかやり過ごせたようだ。
小さな安堵を覚えながら、門番の隣を通り過ぎ、街に踏み入れようとした時だった。
「待ってください!」
大きな制止の声に、ユリウスの肩が跳ねあがる。
――何か気づかれた!?
緊張で固まってしまった彼の前で、エーレが首だけ振り返った。
「ダリアさんが、皆さんのことを探していましたよ!」
「ああ、真っすぐ向かうから問題ない」
再び、短く交わされた何気ない言葉に、ユリウスは詰まった息を大きく吐き出す。
また寒い季節だと言うのに、いつのまにか握っていた手はじんわりと汗ばんでいた。
一方、エーレは何一つ気にした風もなく、先頭で歩を進めだす。
ユリウスは走り出したい衝動をぐっと堪えて、その背へと続いた。
落ちた視界には石畳が並んでいた。それを数えるように、思考もまたぐるぐると渦巻きだした。
――おかしい。
門番は確実に僕を見たし、目も合った。
紺碧の長い髪も、海色の瞳も。
皇帝の血を、色濃く受け継ぐこの外見――それは水の精霊との同調率の高さを表す、あまりにも特徴的な色だというのに……
「ね? 問題なかったでしょ?」
考え込んでいたユリウスの隣で、シュトルツの楽しいそうな声がかかった。
思わず、手首のブレスレットを見る。
隠蔽というのは、どんな効果が付与されているのだろうか。
「下を向いてると、はぐれちゃうよ」
彼の声に、顔を上げた。
考え込むあまりに、遮断してしまっていたらしい――街の喧騒が、一度に耳に飛び込んできた。
目の前に広がった街の様子に、ユリウスは口から簡単の声が漏れ出る。
真っすぐ、視線の先まで伸びる石畳。
淡い色取りで統一された煉瓦造りの建物が、両脇に建ち並んでいる。
その前にはあらゆる出店が、所狭しと並んでいた。
どこを見ても、人だらけ。
出店の人たちは、客寄せのためにあらゆる声が張り上げ、それに惹かれた客が出店の前で品定めしていた。
大人の手を取った子供から、夫婦で仲良く歩く老人。
今まさに、漁から帰ってきた風である長靴を履いた男性に、夕食の材料を選んでいる女性――
出店は新鮮な魚や野菜がその割合を多く締め、中には雑貨品や包丁類を取り扱う店もあった。
初めて見る光景に、ユリウスはあちらこちらに忙しなく、視線を投げた。
目に入るもの全てが、新鮮だった。
次から次へと飛び込んでくる新しいものを見るたびに、そちらへ足をふらふらと向けてしまう。
見たことのない綺麗な硝子細工に、目が吸い込まれた瞬間だった。
こちらへ向かってくる人に気づかず、大きな影にぶつかったことを遅れて知った。
「わっ!」
「おっと、ごめんよ」
すぐ隣でそんな声がした。気が付くと、視界が傾いていた。
不思議と全てが緩やかに流れ、それ以上声を上げることも出来ずに、衝撃に備えようとした瞬間――
ぐいっと手を引っ張られた。
「ほーら、言わんこっちゃない」
どこからか伸びてきた手――その先には、太陽に輝く赤い髪。シュトルツがいた。
転ばずに済んだユリウスは、眉を下げる彼を見上げた。
「ありがとうございます」
あまりにも、はしゃぎすぎた自分を反省する。
この人込みで、転んでしまうと危ないところだった。
「二人が先で待ってるから、さっさと行くよ」
そう言いながら、シュトルツは掴んだ手を放さないまま、真っすぐ歩き出した。