闇に溶ける
夜になると、いつものように火を起こした彼らと静寂の時を過ごしていた。
味気のない携帯食料を食べて、水を飲んだら、もう何もすることはない。
この日常から解放されるなら、もう湾港都市でも、集落でもいい気がしてきていた。
とりあえず、ゆっくり美味しいご飯を食べて、体を洗い、ふかふかのベッドで眠りたい。
出来れば風呂に浸かりたい。だが一般の家庭や宿には、浴槽は普及していないのが現状だった。
城を出てからユリウスは、一度も浴槽に浸かっていない。
ユリウスの大きなため息に呼応するように、目の前の焚き火が大きく揺れた。
まだ夜の森は寒い。
吹き抜けていった夜風に体を震わせながら立ち上がると、不寝番のシュトルツが、ちらりとこちらを見たのがわかった。
「催しただけです! ついてこないでください」
彼らから逃げる気は、もう失せていた。
もし逃げるにしても、森の中で逃げるのは得策ではないことに、気づいたのもある。
リーベは、この森で魔物が頻出しているとも言っていたし、彼らから逃げたところで方角を見失えば、森を抜ける前に餓死してしまう可能性だってある。
ユリウスは離れすぎない程度に歩いた先で、用を足した。
その間に通り抜けた風に、急激に体温を奪われたせいか、抑え込んでいた寂寞感が僅かに浮かび上がっていく気配があった。ぶるり、と体が震える。
さっさと戻って寝てしまおう――その気配を追い払うように首を振って、踵を返した時。
後方から小さな音が、彼の耳に届いた。
まるで磨き立ての大理石の上を歩いた時のような……再び、その音が聞こえた。
少し甲高く、鋭い音だった。
何かが鳴いている?
誘われるようにユリウスは足は、そちらに向かっていく。
一歩踏み出すごとに大きくなっていく音はやがて、すぐ近くで聞こえるようになった。
しかし辺りを見渡しても、何もいない。
小首を傾げて息を吐きだした時――カサリ、と落ち葉が揺れる音が足元から聞こえた。
そちらへ目を凝らすと、木の根元に蹲っているリスの姿を見つけた。
ユリウスが近寄ると「キュッ」と甲高い鳴き声をあげる。
先ほどから聞こえていた音は、このリスの鳴き声だったらしい。
「どこか怪我でもしたのかな……」
手を伸ばしても、リスは逃げる様子を見せない。
暗くてよく見えないが、どこか怪我をして木に登れないのかもしれない。
リスを両手でそっと持ち上げたユリウスは、その段になって奥へと進んできたことを思い出し、来た道へと振り返った。
それほど遠くには来てはいなずだ。
一直線にきたから、そのまま引き返せばいい。
そう思って今度こそ踵を返そうとした足が、ユリウスの意思に反して止まった。同時に、嫌な感覚が背中に這い上がってくる。
何かはわからない。けれど、背後に何かいる。
背に浴びたおぞましい視線に、全身が凍り付いた。
足元から頭のてっぺんまで泡立つ感覚が通り抜ける感覚に、途切れ途切れで息を吐きだした。
振り向いてはいけない――
本能的に悟ったユリウスは、一目散に走りだした。
土と落ち葉を蹴り、枝を掻き分け、何かが追いかけてくる音が、背後からはっきりとする。
真っすぐこのまま行けば、彼らがいる場所に着くはずだ。
そう思って走り続けるが、いつまで経っても、焚き火の灯りは見えてこなかった。
戻る方向を間違っていると気付いた時には、もう遅かった。
何かが横を掠めていき、バランスを崩して、横に投げ出されるように倒れる。
腕の中のリスを庇って倒れ、肩と腰に強い衝撃を受けたが、痛みは感じなかった。
すぐに立ち上がって、倒れた方向に走り出す。
何か大きな飛行物が何度も、周りを掠めていく。
背後からの音や気配は、どんどん距離を詰めてきている。
無我夢中で走っていると、木々が開けた――その先は、せり出した崖だった。
ユリウスは既視感を感じた。
咄嗟に足を止めて、後ろを振り返るとそこには、巨大なイタチのような魔物が退路を塞いでいた。
そして上には、巨大なカラスが三匹。どれも闇の中でもはっきりとわかるほどの、穢れを纏っている。
腕に抱えたリスを落とさないように、ゆっくりと後ろへ下がった。
逃げ場はない。この高さは、落ちたら助からない。
帰りが遅いと、シュトルツが気づいてくれているはずだ。
どうにか時間を稼がないと―――でも、どうやって……?
そうしている間に、イタチがこちらへ向かって来た。
反射的に、右へ飛びのき回避して、尻餅をつく形になった。
崖から落ちる寸前で、方向転換したイタチの魔物が再び、襲ってくる。
避けられない――そう思った時、両肩に何かが、食い込んだ感覚があった。
気づくと、体が宙に浮いていた。
地面から離れた足元ぎりぎりをイタチが通り過ぎていく。
上を見ると、巨大なカラスの足が両肩を掴んで、自分を持ち上げているという恐ろしい事実に気づいた。
頬を強く打つ風は鼓膜に籠って音を成さない。
急激な勢いで足元にあった崖から、どんどん遠ざかっていくのだけが見えた。
落とされたら、おしまいだ――
絶望に揺れて、息を忘れた。
僅かに追いついてきた恐怖に混乱が湧きあがろうとしたーーその時だった。
空気を震わせるような甲高い金属音が、はっきりとユリウスの耳に届いた。
ハッとして音の先を見ると、人影と闇の中に散る火花。人影よりも大きな影が、次から次へと地に伏せていく。
間を置かず、少し離れて空を飛んでいたカラスの魔物が二匹が突然、羽ばたきをやめて地に落ちていく。
敵を察知したカラスの魔物が、ギャーギャーと耳障りな鳴き声を響かせた。
途端、ユリウスの全身が大きく揺れた。
視界が大きく回り、内臓が浮き上がるような不快な感覚で、自分を掴み上げているカラスの魔物が、急降下しているということを遅れて理解したユリウスは、ぐっと目を閉じた。
それも長く続かず、ぐわんっと弧を描くように、再び急上昇していく感覚があった。
死を間近にしたような戦慄に、詰まった息と共に目を開けた時――
「動くなよ!」
下から聞こえた声と共に、目の前を何かが掠めていった。
それは羽と肉を同時に断つような音をすぐ近くで響かせた。
途端――頭上から溢れ出てきた光が散って、視界を照らしていく。
光の魔法――あの声は、やはりシュトルツだ。
両肩の違和感が消え去り、ユリウスはハッと目を見開いた。
咄嗟に上を見ると、浄化されたカラスが見る見るうちに元の大きさに戻っていく様子が、妙に緩やかに見えた。
――落ちる……!
恐怖に目を閉じて、ぐっと強張らせた体で腕の中のリスを抱きしめる。
「手伸ばせ!」
下から張り上げられた声を頼りに、ユリウスは勇気を振り絞って目を開け、咄嗟に左手を伸ばした。
衝撃が腕から体に駆け抜け――気が付けば、岩壁が目の前にある状態で、宙ぶらりんになっていた。
「いやぁ、間一髪だったねぇ」
落ちてきた声を辿ると、自分の左手を掴んでいるシュトルツの右手が見えた。
しかし、ユリウスを掴んだ衝撃で引っ張られたのか――彼も崖にぶら下がっている状態だった。
左手で崖のふちを掴んだ彼が、二人分の体重を支えている状況に、ユリウスは混乱に陥りそうになる。
腕の中で「キュッ」と鳴いたリスの鳴き声が、何故か楽しげに聞こえた。
「君も懲りないよねぇ。逃げなかったと思ったら、今度は動物を拾ってくるとか」
「いや、今はそんなこと言ってる場合じゃ……」
まるで何も起きていないような、のんびりとした――いつもと変わらない口調。
「まぁ、ここから落ちても大丈夫なんだけどさ。
落ちたら、エーレさんと合流するのに時間がかかるでしょ?
そうしたらエーレさん、怒ると思うんだよねぇ……どうしようか?」
どうやら彼は、冗談でそんなことを言っているわけではないらしい。
暗くて表情はよく見えなかったが、呆気からんとしている風である。
一陣の風が吹き抜けていき、体が僅かに揺れた。
「困ったなぁ。二人、来てくれないかなぁ」
シュトルツがそう呟いた時、上から土を踏みしめる音が聞こえた。
「なんだ、見世物でも始める気か?」
この状況とはあまりにも不釣り合いな、泰然とした声が落ちてきた。
「エーレさん、冗談は言ってないで引き上げてくんない?」
「自分で上がって来れるだろ?」
「俺が風魔法のそういうコントロール、苦手なの知ってるでしょ」
不服そうにシュトルツが訴えた時、彼の上で、何かが月光を浴びて、きらりと光った。
途端、どこからかやってきた風の塊が、ユリウスとシュトルツを包み込み、持ち上げていく。
まるで、真綿に包まれているような感覚だった。
崖の上に着くと、そこにはリーベがいた。彼の銀髪は月光を浴びて、幻想的に煌めいていた。
「助かったよ、リーベ」
どうやら、あの風の魔法は、彼のものだったらしい。
座り込んで呆然としていると、腕の中からリスが動く感覚がして、ユリウスはハッと我に返った。
「シュトルツさん、助けてくれてありがとうごいます」
「ああ、いいよいいよ。ちょっと肩とその子、見せてみ?」
そう言って、リスへと手を伸ばした彼の左手は、血で染まっていた。
二人分の体重を片手で支えていたのだから、当然だ。
「それ……」
ユリウスの視線の先に気づいたシュトルツは、その時になって気づいたように「ああ」と声を漏らした。
「へーきへーき、気にしないで」
本当に痛みを感じていないように手を払った彼は、そのまま反対側の手を伸ばし、ユリウスの両肩とリスの傷を光の魔法で治癒してくれる。
――怖かった、本当に怖かった……
内から温めてくれるようなその光に、安堵が胸の底から湧き上がってきた。
残った恐怖が今更追い付いてきて、涙が溢れそうになる。
「おい、さっさと戻るぞ」
その時、前方したエーレの刺さるような声に、ユリウスは咄嗟に涙を飲み込んだ。
胸に抱えていたリスが、その声に驚いたように、ぴょこんと跳ねて地面に降りると、そのまま森の方へと走っていく。
その様子をユリウスは、ぼんやり見ていた。
怖かった。でも後悔はない。たった一匹のリスかもしれないけど、助けることが出来た。
無事に仲間と合流できるといいな――
その小さな影を見送りながら、そう思っていると、シュトルツが右手を差し出してきた。
自然と伸びた自分の右手。彼の手を掴むのに、躊躇いはなかった。
「ああ、そうそう。この前のことだけどさ」
手を引かれて立ち上がると、彼が思い出したように声を上げた。
「無理に信じなくてもいいからさ。
俺たちのことを見て、知った上で、君自身が判断してよ。
話さなくても、見えてくるものってあると思うんだよねぇ。
逃げるのは、それからでも遅くないでしょ?」
それだけ言い残すと、彼は踵を返して、先を行くエーレとリーベの背を追っていく。
その背を見て自然と、彼の手を掴んだ右手に視線が落ちた。
危ないところを、助けられたからだろうか?
でもあの時、シュトルツがきてくれるはずだと思った。
それは僕に利用価値があるから? いや違う、そうじゃない。
彼は来てくれる。ただ直感的にそう思った。
そして危険を顧みず、僕を助けてくれた。
だからといって、信じたわけではない。
けれど彼の言う通り、自分の目で彼らを見て、知って、判断してからでも遅くなんじゃないか――
「さっさと来い。また魔物に、襲われてぇのか」
エーレの怒号で我に返ったユリウスは、一旦思考を置いて、その背へと駆けることにした。
追い付いた先では、シュトルツがエーレを宥めていた。
「まぁまぁ、エーレさん。俺たち、夜の大運動会してただけだから、怒らないでよ」
「別にお前らが何をしてても、俺は気にしてねぇよ。
たとえそいつが、逃げようとした度に捕まってても。リスと心中しようとしててもな」
エーレが何気なく口にした言葉に、ユリウスは目を見開いて、先を行く黒い影を凝視する。
「どうして……」
そんな言葉が、口からこぼれていた。
それは闇に溶けていく背に届くことはなく、夜風にさらわれていった。
しばらく歩くと、ぼんやりとした灯りが見えてきた。
その時になって、エーレが首だけ振り向かせて、こちらを見た。
「お前のことは、わかってる――」
彼の凛と響く声が森の中に吸い込まれていく。その表情は見えなかった。
さっさと焚き火の方へと向かっていった彼らは、何もなかったように、誰が不寝番を先にするかを話し合い始めた。
「それはどういう……」
遅れて出てきたユリウスの言葉に、答えてくれる声はなかった。