リーベ外伝「白に凍った四年間」
アイリス……
アルベルトはベッドで深く眠る最愛の人の名を、口にすることが出来なかった。
部屋の窓には、鉄格子が嵌められていた。それがなくとも、高い位置にあるこの部屋から、アイリスを背負って飛び降りるだけの生命力は、彼にはなかった。
窓から見える景色は、ここが王国の王城の中であることを表している。
アルベルトは自らの手足に着けられたイグリシウムの鉄輪を思い出した。これを忌々しく思った回数はもう数えきれない。
これさえなければ、アイリスと共にここを逃げ出すくらいは出来るというのに。
ベッドの隣の椅子へと、力なく腰を下ろした彼は、乾いた笑いを一つ飛ばす。
無力な自分こそが今、アイリスの最大の枷になっている。
彼が生かされている唯一の理由がそれだった。
アルベルトを人質に、アイリスが生まれ持ったクロノスの加護の能力を行使させる。その力は彼女を蝕み、一度行使すると彼女の体内にある生命力は根こそぎ尽きて、通常よりもその回復に時間を要する。
それを見ていることしか出来ない自分。
唯一の救いは、彼女の加護特性を本当の意味で理解している者が、ここにはもうアルベルトしかいないということだった。
クロノスの加護。アイリスの授かったのは、『選択的未来視』
現在――この瞬間から、起こりうるだろう可能性としての一番近しい未来を、三つまで覗き見ることが出来る能力。
しかしその真実を知っている者たちは、内乱時に全員討たれ、または政権交代と共に、極刑に処せられた。
目の前の少女は、幼い身でありながら、嘘を突きとおしていた。
視えるのは、一番可能性のある未来だけであるという嘘を。
元来、聡明な少女であった。だからアルベルトは、驚きはしなかった。この状況においても、凛と咲く花のような彼女を見て、敬服の念さえ覚えていた。
それでも――
あれからどれほど時間が経っただろうか。この部屋には、暦も時計も置かれていない。
最初は陽が昇る回数を数えていた。それももう、百五十を超えた時からやめてしまった。
幾度となく力を使い、疲弊し、目を覚ますまでの時間が長くなっていく彼女を見て、彼は絶望に身を置くことしか出来なくなっていた。
刺すような腹の痛みで、アルベルトの脳裏に数刻前のことが蘇る。
飽きるほど見た、現宰相の卑下た笑みがアイリスに向けられる瞬間。
口から出てくる――アルベルトにとっては極刑宣告に等しい――未来を視ろとの言葉。
アイリスが持たない。何度も何度も制止を求めてきた。
その度に隣に立つ兵に打たれ、殴られてようと何度も。
アルベルトはそこに存在していて、存在していなかった。
打たれる自分を見たアイリスが制止を求め、やめないと力は使わないと叫ぶように言う。
殴られた腹は赤黒く腫れていて、それはアルベルトの罪の意識を少しだけ軽くしてくれた。
手が自然とアイリスの頬へと伸びていく。手首に嵌められた鉄輪が先に目に入り、その頬へ触れる直前で手を引き戻した。
口の中で少女の名前を呟く。もう随分と昔、彼女が生まれたと聞かされた時に、彼女の名前を覚えるため、何度も繰り返したように。
けれど今と昔ではあまりにも状況も、抱える心境も違いすぎた。
あの時は王家に生まれた国の宝の伴侶として、決して間違えない人生を送ろうと。胸を張って彼女の隣に立とうとの誓いのもとに、繰り返した名前。
リネンのシーツに並ぶ金糸のような髪を見て、アルベルトは強く瞑目した。
今はもう、その名を声に出すことさえ許されないような気がしていた。
王国の未来を導き照らす象徴である彼女を支え、守る。それが自分の立場であり、使命であったはずだ。
なのに、その彼女に守られている。自分さえいなければ――彼女だけなら、ここから逃げ出すことも可能なのではないだろうか?
アルベルトは部屋を見渡す。もうそれは習慣になってしまっていた。
部屋に申し訳程度にあるコップを割って、喉を裂けば。
シーツを破り、首を絞めれば。
どちらにしても、その前に彼女が起きてしまうかもしれない。
ならば、舌を噛みちぎって……
そこでアルベルトはいつも首を振る。
もし私が死んだらアイリスは……いや、違う。この状況においても、私は自死する勇気すらない。
それを繰り返すたび、情けない気持ちでいっぱいになるのだった。
逃げ出すことは不可能。この地獄がいつ終わるかもわからない。いや、終わることはないだろう。
アイリスが本来よりも短くなっていく寿命を終えるまで、この地獄は続く。
彼女が死ねば、自分も用済みで処分されるに違いない。
それが来年なのか。十数年先なのかは、アイリスの気力次第だった。
奈落の底のようなところにも、陽が差す時期はあった。
その年の冬は例年より冷えて、暖炉はあるのに、火が灯されたことのない部屋で、アルベルトは寒さに耐えていた。
あれから数度。アイリスと共に、ここから逃げる策を練ってみた。
未来視を言い訳に、どうにかアイリスだけでも部屋の外に出られないかという策だった。
なんでもいい。それらしい言い訳が必要だった。
行使しようとしてもできない。感情の乱れが加護の影響を弱めている、だとか。この部屋の外ならあるいは、だとか。
しかしどんな理由を並べてみても、宰相が肯くことはなかった。
最終的にはアルベルトが目の前で嬲られ、アイリスが力を使わざるを得ない状況に迫られる。
その中で、アイリスが一度だけ言った言葉が、彼の命をここに留めていた。
「アイビー。絶対に希望を捨ててはだめですよ。どんなに苦しくても辛くても、私より先にいなくなったら……絶交ですからね」
疲れ切った顔で、精一杯の笑みを作った彼女の表情を、昨日のことのように思い出せた。
矛盾した言葉。笑いを誘おうとしたような幼い発言。
彼女はもう随分前から、アルベルトの抱える闇に気づいていたのだ。
一度も口に出したことはない、心の底に積み重ねた謝罪の山を、とうに見抜いていたのだ。
「体は平気か?」
アルベルトは質素なコップを、ベッドに腰掛けるアイリスに差し出しながら尋ねる。
冷えの厳しさのせいあってか。いや、おかげというべきだろうか。
部屋に設けられた簡易キッチンには、燃焼の魔鉱石だけが備え付けられるようになった。
茶葉なんてものはない。それでも二人はお湯を沸かして、それを飲み、体を温めていた。
冬に入って、しばらく宰相は姿を見せていない。
そして今回はいつもより早くに目を覚ましたアイリスと、奇跡のような時間を過ごせていた。
「全然へっちゃりです。あれ? へっちゃらでしたっけ?」
姫として育った彼女は、普段使うことはない砕けた言葉を、好んで使いたがる。
しかしどうしても慣れないらしく、身につかないままだった。
「意味さえ通じれば、少しくらい間違っていても問題なんじゃないか?」
「もう、そんなこと言ったら、お兄様に怒られますよ!」
アイリスの出した名前にアルベルトは一瞬、息を詰まらせた――が、すぐに何もなかったように微笑む。
「違いない。言葉というものに拘りを持たれている殿下に聞かれでもしたら、延々と説教されるだろうな。内緒にしておいてほしい」
「仕方ないですね。私はお兄様が怒るところも好きなんですけど」
まるで四人で過ごしたあの時間にいると錯覚するような会話。
ここに幽閉されてから初めて訪れた小さな穏やかさに、アルベルトは伏せかけた瞳をどうにか留めた。
シオンがどうしているのかわからない。生きているだろうか?
あの一年前に首都から姿を消したヴィンセントは?
「また――」
ふと言いかけては、口を噤んだアルベルト。その前でアイリスが唐突に立ち上がり、窓の方へと向かっていった。
「見て! アイビー! 雪がこんなに積もってます!」
今更、雪なんて珍しくもないのに。嬉しそうにあげた声を聞いたアルベルトは彼女の隣に進んで、同じように窓の外を見た。
そこには目が眩むほどの、広大な銀世界があった。
景色のほとんどが白に覆われていて、元の輪郭をなくしている。
「アイビーの色ですよ」
向けてくる幼い笑顔に、アルベルトは再び微笑んだ。
「貴女の色でもある」
アイリスの髪は、光に当たれば金に輝き、暗い中ではアルベルトと同じ銀に見える、色素の薄い金髪だった。
誉め言葉として伝えたはずの声を聞いた瞬間、アイリスが眉を寄せた。それがどうしてかわからなかった彼が更に口を開こうとした時、アイリスがアルベルトの手を取った。
「アイリス。もう呼んでくれないのですか?」
いつからか。彼女の名前を口に出さなくなっていた自分に気づいたアルベルトは、取られた手が彼女の頬に寄せられていくのを、じっと見ていた。
もう名前を呼ぶことも、その手や頬に触れることも許してはいけない。
無意識が訴えるそれに忠実に従って来た彼。
それを彼女が、呆気なく砕いた瞬間だった。
口は自然と開かれた。それでも、中々声として出てこない。
それを見たアイリスが、ムッと口を尖らせる。
「ア・イ・リ・ス。自分でこういうのも恥ずかしいんですから、早く言ってください」
子供に諭すように言われて、途端可笑しくなって笑ってしまった。
「アイリス。ありがとう」
自分でも驚くほど、すんなりと声として出てきた。
するとアイリスは花を咲かせたように笑って、「アイビー!」と声をあげた。
「大好きですよ。アイビーも、お兄様もヴィンスも。みんな大好きです。
だから大丈夫です。また四人でお茶会をしましょう」
銀世界に降りる春の日差し。
冬の凍った地面に凛と咲く花のように、アルベルトにとって、アイリスだけが希望であった。
衰弱していく彼女の側をただ守ること。
彼女が目を覚ました時、必ず「おはよう」と声をかけること。
体調が比較的安定している時は、取るに足らない会話を交わすこと。
少しでも清潔でいられるように、時には彼女の体を拭き、水を汲んでどうにか彼女の髪を洗ったりもした。
自分で出来るという彼女を制して、出来る限り、彼女の苦しみに寄り添おうとした。
しかし、それらを最後にしたのは、いつだっただろうか。
この時ばかりは、彼女が深い眠りに落ちたからの日数を数えた。
十二日。彼女が加護の能力を使い、生命力を枯渇させて意識を失ってから十二日も経つ。
今までは早ければ三日。遅くても一週間もしないうちに目を覚ました。
息はしている。あまりにも目を覚まさない彼女を見た彼の訴えに、やってきた魔法師が光の魔法も施してはいた。
しかし、光魔法では体に必要な栄養も水分も摂ることは出来ない。
このままだと衰弱死してしまう。
やせ細り、頬のこけたアイリスをしばらく見ていた時、彼の心にすんと何かが落ちてきた。
絶望ではない。この状況にはあまりにも似つかわしくない――それは安心にも似た諦めだった。
眠っていれば最期の瞬間も、さほど苦しくないはずだ。
このまま安息へ旅立ってしまえば。彼女はこの苦しみから解放されるだろう。
「すまない。本当に……」
初めて声にした謝罪。言葉という概念ではこの気持ちは伝えられない。でもそれしか出てこなかった。
目を閉じる。瞼の裏に、あのころの風景が映った。
走馬灯のように流れていく景色。それが、今ここにいる彼女の姿まで追い付いた時、自分でも知らぬうちに涙が頬を伝っていく感覚に、視界を開いた。
「泣き方なんて、とうに忘れていたはずなのに……」
もう目を覚まさないかもしれない。
そう思っていた数刻後。彼女は目を覚ました。
そして、その口からアルベルトは、飲み込めない計画を告げられた。
さほど時を経たずして、王城が襲撃されるでしょう。
夜間に城が秘密裏に襲撃される。そんな未来を視たらしい。
「お兄様とヴィンスが生きています」
嬉しい事実のはずなのに、それを口にしたアイリスの表情は、悲壮感を漂わせていた。
それが何故なのか、その時のアルベルトにはわからなかったし、彼女もそれ以上言わなかった。
後になって、アルベルトは知ることになる。今回彼女があまりにも長く眠っていたのは、シオンからヴィンセントに権能が分与され、それに共鳴していたということを。
アイリスはまるで最初から決めていたように、淡々と策を話し始めた。
視た日の特徴。その日に実行すべき計画。
全てを聞かされても、アルベルトは頷くことは出来なかった。
「お兄様がいつもそうされるように、私も無理強いはしたくありません。それでも、アイビーには生きていてほしい」
自分だけがここから逃げる?
それが可能だとしても……そんなこと……
アイリスを置いて、ひとりで生きるなんて、そんなもの今より地獄に決まっている。
絶対に頷けない。絶対に受け入れられない。
「一緒に脱出すればいい話だ」
それ以外の結論はない。しかし、アイリスは首を振った。
「襲撃でたしかに警護の目はそちらへ向きます。それでも私を連れて逃げるのは無理です。どうか、受け入れてください」
お願いします。葛藤に揺れる大きな瞳。アルベルトの頭にいくつもの選択肢が過った。
このままでいると二人とも死ぬ未来しかない。
襲撃が誰によって行われるのかはわからない。アイリスは、おそらくシオンとヴィンセントだと言っていた。
あの二人がここまで助けに来れるだろうか? いや、不可能だろう。
確かに腕の立つ二人だが、城の警備を全員相手取ることなんて出来ない。
ならば、この襲撃は――
そこまで考えたアルベルトは、重い頭で頷くしかなかった。
後になって、ここに留まり、二人して死んだほうが、まだよかったと後悔するかもしれない。
けれど、脱出後、アイリスを助けにくることが出来れば……
賭けに近い選択だった。どれを選んでも正解ではない。もっと他に方法があるかもしれない。
けれど、その方法が見つかる前にその日は訪れた。
夜間の襲撃は静かだった。
しかし月の位置で時刻を知っていたアイリスは、計画通り、コップを割り、悲鳴をあげて扉の前の警備を中におびき寄せた。
開かれる扉に隠れ、警備の不意を打ったアルベルトは割れたコップの破片で男の頸動脈を裂き、剣を奪い取る。
すぐに対抗してきた警備の脚をアイリスが必死に絡めとった。
アルベルトは躊躇いなく剣を振り下ろした。アイリスの美しい髪に、血が飛び散る。その中で彼女は言った。
「行ってください! 早く!」
一歩を踏みとどまったアルベルトに、アイリスは微笑む。
「アイビー、私はあなたを愛しています」
血に染まりながらも凛と美しい彼女からの愛情に、アルベルトは応えられず、逃げるようにして駆け出した。
それから廊下を駆け、やってくる敵を必死になぎ倒す。
飛んできた魔法は、偶然にも剣に備えられていた魔鉱石で凌げる程度のものだった。
幾人もの騎士の間をすり抜け、しかし全てをやり過ごすことは出来ず、腕を裂かれた瞬間――
アルベルトの世界は、涙と後悔と憎しみで色を失くした。
「全て貴様らのせいだ!」
誰にぶつけるべきかわからない感情が喉を裂くように飛び出していく。
そうして守るためだけにあった彼の剣は、人の命を躊躇いなく奪う剣になった。
全てはアイリスを迎えにいくためだけに。
満身創痍で駆け抜けた出口で、懐かしい顔ぶれを見た瞬間。
禍々しく揺れる空を仰ぎ、アルベルトは声を上げて笑った。
幾日も心の底に積み重ねてきたおどろおどろしい感情が、彼の全身を支配した。
場所を移し、シオンが差し出してきた権能の分与にも、感情は動くことはなく――彼はそれを受け入れるため、迷いなく自らの心臓に剣を突き刺した。
◇◇◇
四度の環命を繰り返し、四度のそんな記憶がある。
全く同じ記憶もあれば、細部が違う記憶もあった。
一番の違いは、アイリスの昏睡状態が二度目以降酷くなっていたことだ。
力を身に着けた彼らは、前回と同じような方法ではなく。リーベの回帰を遅らせて、先にアイリスを奪還する予定だった。
そんな作戦は、それを予期したように阻まれる形になる。
制約覚悟で乗り込んできた彼らであったが、城の警備も前回より厳しい。
結局のところアルベルトだけの脱出で精一杯になり、何よりもアイリスの言葉が決めてになった。
「私は貴方たちの足枷になりたくありません。私よりも国民を、王国を優先してください」
前回とは違う彼女の言葉。
その言葉で彼らは、アイリスが彼らの現状を把握していることを知ることになる。
二度目はアイリスの奪還が遅れ、救出後も彼女が目を覚ますことはなかった。
それでも次も、更に次も。アイリスの奪還を優先しようとはしたものの、どんな手を使ってもアイリスを先に救出することは現実的ではなく。
また、一から力をつけなおす彼らには、一秒も無駄にしている時間はなかった。
四度目。ルシウスに過去の断片を話したリーベは、四度の記憶を反芻する。
まるで世界がアイリスの未来を拒むように思えてしかなかった。
たまに彼は思うことがある。
同じ世界の時間を遡っているわけではない。
ほぼ同じ轍を刻む、ここは別の世界なのだと。
それでも自分たちが救われたいがために、こうして四度、世界を移ってきた。
この世界に生きていた別の自分の自我とその体を奪ってまで。
――たとえそうせずとも、この世界の自分も同じ選択をしただろう。
ならば、少しでも可能性があるこの選択を、この世界の自分は受け入れたはずだ。
仮定しても意味のない予測を頭に並べて、飲み込むしかなかった。
遠い記憶に残る彼女の最後の言葉。
――アイビー、愛しています――
あの言葉に応えられなかった未練、今もこうして、彼女を救い出せない罪の意識。
権能を行使し続ける理由が、彼女を愛しているからなのか、赦されたいだけなのかの区別はもうつかない。
それでももう一度だけ、彼女の声を聞くために。
今も昔も、そしてこれからも。リーベはその瞬間のため、変わり果てた剣を取る。




