死の領域ーー絶対零度に背を託す
あらゆる魔法が飛び交う中で、見落とすはずのない存在感を放った小さな彼の姿。
「エーレ!」
耳の奥で、彼を呼んだ声が反響する。
進む足が風を纏って更に加速した。
その先で、彼がこちらを見たのがわかった。
禍々しいほどの曇天の大地にあっても、克明に映るその瞳が一瞬、何かに驚いたように見開かれた。
しかしすぐに何かを悟ったように小さく瞑目した彼の口元が、僅かに緩まる。
気付けば再び、彼の名前を呼んでいた。
同時にエーレを中心にして放出されたのは、身の毛がよだつほどの巨大な波動。
周りを囲っていた敵が、怯えるかのようにピタリと動きを止めた。
何故だろう、怖くない。体は怯えを宿さない。
ただただ彼に向かっていく足に、ルシウスは思わず笑みをこぼした。
「上出来だ」
その小さな呟きが耳に届いた瞬間、さっと彼がこちらの背に回り込んできた。
雨では流せきれない血の香りがふわり、と鼻腔に香る。
その多くが敵のものであると知ったと同時に、後ろに向けた視線の先で、彼がいくつか裂傷を負っていることが見えた。
「あとどれくらいかかるかわからんが……」
ゆるやかにうねる黒髪が視界の先を掠める。彼は島の方を見ていた。
「まだもうしばらくかかるだろうな。やれるな?」
その言葉が頭の芯を痺れさせ、全身が泡立った。歓喜の衝撃が足元から頭へと駆け抜けていく。
――いま僕は、彼に背を預けられている。
そんな事実への理解が追い付いて、気が付いた時には「はい!」と大きな声を上げていた。
間を置かず、背から離れた彼が伝えてきた。
『魔法は俺が処理する。魔法を発動したあとの魔法師には一瞬隙が出来る。それを狙え』
逆方向へ走っていく彼の言葉に、ルシウスは一瞬疑問を覚えながらも、迷うことをやめて前を見据えた。
数メートル離れた前の敵を剣先で捉える。
四方八方から大きな生命力の波動。
あらゆる魔法の標準がこちらへ向けられていることが、肌に伝わってくる。頬をぴりぴりと刺していく。
――エーレの波動に比べたら……こんなもの大したことない!
不思議と恐れはどこかに消えていて、ルシウスは剣先の向かうままに走り出した。
風を纏う。雨の導くまま、魔法師の波動の隙間を縫うように駆け抜ける。
ルシウスの速度に、完全な具現化が追い付かなかった敵の魔法は、彼の水の防御と首から下がったペンダントの結界により相殺される。発動後の敵の一瞬の隙に彼は素早く斬り伏せていった。
しかし魔法師の数は多い。
その間にも視界のすぐ先で、あらゆる属性魔法のが具現化が迫るように成されていき、それらが空を覆った時だった――
世界が凍った。
まるで異世界にやってきたような、真っ白で透明な氷の世界。
降りしきる雨の一滴一滴が、辺り一面の地が、吸い込む空気の全てが絶対零度に包まれた。
空に放たれたあらゆる魔法は、最初から存在していなかったように、いつしか消え去っている。
地面から這い上がる冷気が、敵を少しずつ氷漬けにしていくのが見えた。
ぞわり、と背中が震えた。
寒さだけじゃない。それは畏敬と憧憬の戦慄だった。
エーレが一瞬にして作り出した、絶対不可避の死の領域。
敵全体の一瞬の動揺はすぐに混乱に変わり、恐怖の波動が全身に伝わってきた。
あらゆるところから地獄のような悲鳴が聞こえてくる。
それでも駆けたルシウスが敵を斬った先からは、鮮血は飛んでくることはなく、それはあっという間に凍っていった。
何人斬り伏せたかわからない。
エーレが作り出した状況とはいえ、これはもう……蹂躙でしかなかった。
頭に過ったその言葉が、ルシウスに小さな混乱を誘い出した。
けれど彼は足を、腕を――前に進もうとする体を止めなかった。
ここで止めてしまうと後悔することなんて、わかりきっているからだ。
やらないとやられる。エーレのこの魔法もいつまで持つかもわからない。
そのうちに出来るだけ多くを――
その時、振り上げた剣の先で、恐怖に目を見開く女性をルシウスは捉えた。
同時に、声にならないような悲鳴が彼の耳に張り付く。
「いやっ……!」
自分の息を呑む音が鼓膜の奥で聞こえた。
振り下ろさなきゃ――
だが、腕はそんなルシウスの意思に反して、女性の眼前で止まってしまい、同時に足も止まってしまった。
『エーレ、船がきた。離脱する』
リーベの感応がどこか遠くから聞こえた。
目を見開いたままの女性から目が離せない。彼女は氷に足を絡めとられて逃げもできない。
あとは腕を振り下ろすだけなのに。
動けない。今更、どうして……
抑え込んでいた動揺が突如として大波のように押し寄せてきて、もう鎮められなかった。
息が……息ができない。
極限まで動かしてきた体が限界を超えていることを知ったルシウスは、自分の体重を支えているだけで精一杯だった。
「よくやった。もういい」
背から聞こえた声と共に、体がスッと軽くなっていくのを感じた。
光の魔法だ。振り返るとそこには、前の女性を睨んでいるエーレがいた。
「戦うな、戦意を見せなければ見逃してやる」
思ったよりも静かに告げられた言葉に呼応するように、女性の脚を封じていた氷が砕け散った。
「エーレ」
ルシウスにはその彼の行動が意外であったが、同時に安堵も感じて、彼へと向き直った。
「ルシウス。戻れ。ここは俺一人で十分だ」
その時になって先ほどのリーベの言葉を思い出した。海に向かった彼の分が空いているはずだった。
「わかりまし――」
た、という声は、耳元で響いた風切り音に消されていった。
何かが肩上を勢いよく通り過ぎていったのを一拍遅れて気づき、呆然とした彼の背から、どさりと何かが地に落ちる音。
視界の真下で長剣が鈍く光っている。気づけば、恐る恐る首を後ろに振りらせていた。
そこには――事切れた女性。
けれど、ルシウスの目は彼女が両手に握っていただろう短剣に吸い寄せられていた。
「これが戦場だ。情けをかけるな。敵に同情するな」
「どうして……」
どうしてこの人は、敵わないと恐怖した相手の前で剣を抜いたのか。
戦う意思を見せなければ助かるかもしれなかったのに。どうして、どうして……
混乱の渦が頭を支配していこうとしたとき――
頭に激しい衝撃を受けた。
「いっ……!」
「迷うなっつってんだ。なんでもいいから、さっさと戻って防衛してこい!
お前が一緒に戦うっつったんだろうが! いつまでもそのお綺麗な正義感に振り回されてんじゃねぇぞ」
言葉と同時に再び振り上げられた手が見えて、咄嗟に目を閉じた――が、やってきたのは軽く頭に触れる柔らかい感覚だった。
それも一瞬で、頭を抑えられた手に、乱暴に右へと押し出された。
「初陣にしては、文句のつけようがねぇほどよくやってる。
話ならあとでいくらでも聞いてやるから、さっさといけ」
それだけ言ったエーレは身を翻した。同時に地面から氷が解け始めていく。
ルシウスは遠ざかっていく彼の生命力が揺らいでいるのを感じとった。
もう生命力があまり残ってないのだ。
ルシウスはその背を見て、脚に力を込めた。




