第9話 人外×道
「――ん……朝か……」
結局、昨夜もほとんど眠れなかった。
ベッドから抜け出て、風に煽られて「ガタガタ」と小刻みに震える窓に近づく。
今朝の空は分厚い雲が太陽を隠していて、薄暗く、微かに雨が降っていた。
着替えてリビングに向かうと、すでにアカリの姿があった。
(アカリ)
ソファーに一人で腰かけているアカリの後ろ姿は、普段よりも小さく、頼りなく見えた。
「おはよう」
驚かさないよう声量を抑えて挨拶すると、アカリが勢いよく振り返る。
「ッ、おはよう」
目元に深い隈ができているアカリ。一目で、寝てないのが見て取れた。
「ダイ君、キルト君からの連絡は……?」
見開かれたアカリの瞳が、俺を射抜く。
「ない」
返事を聞いた瞬間、アカリの全身が沈み、瞳が潤む。
だがアカリは、咄嗟に口を強く結み、涙を堪えようとした。
「アカリ」
そんな彼女を見て、俺は思わず駆け寄り、包み込むように抱きしめる。
「溜め込むな」
そう呟き、アカリのことだけを想いながら優しく頭を撫でる。
「…………」
アカリは何も言わなかったが、俺の胸に額を擦り付けると、声を殺して泣き出した。
俺の服を握り締めながら、アカリは静かに泣き続ける。静まり返った部屋だからか、小さな声で呟く「織ちゃん……」という言葉が聞こえた。
アカリが憔悴している原因は、言ノ葉。彼女の身を案じてのことだった。
それだけじゃない。あの都市での出来事も、精神的な負荷になっている。
五分ほどして、アカリは俺から離れた。そして、気恥ずかしそうにハンカチで顔を拭いた後、俺の目を見ながら口を開く。
「ありがとね」
腫れた瞼で、アカリは無理して笑った。
「気にするな。それより、少し横になってきな」
「でも」
「体調を崩したら、言ノ葉が戻って来た時に責任を感じるかもしれないぞ?」
俺が優しい口調で諭すと、アカリは僅かな沈黙の後、小さく頷いた。
部屋まで送って行こうとすると、アカリは 「一人で平気。ダイ君もちゃんと休んでね? 顔色悪いよ?」と言い、一人で自室に戻っていく。
そんなアカリの背中を見つめながら、俺は思考に耽る。
言ノ葉を屋敷に残す選択をしたのは、アルシェさんだ。
アカリは自分も残りたいと懇願したが、アルシェさんは表情一つ変えず、「言ノ葉様を守るためです」と言い、その提案を断った。
「俺らを信用してない……いや、違う」
アルシェさんの思惑は明白。俺ら三人の天賜は貴重なのだ。万が一にも、皇国に奪われるのは避けたいのだろう。
問題は、その方法。
ふと窓の外に目を向けると、高い断崖が見えた。
ここは、四方を断崖で囲まれた絶海の孤島。皇国から俺らを守りたいのなら、この島に閉じ込めるだけでいい。
だがアルシェは、より確実な手を選んだ。
人質。アカリと言ノ葉を引き離せば、俺らはキルトのもとから離れない。
強かな判断力。躊躇わない実行力。
胸がざわつき、腹の底が燻るように熱くなる。
何より、アカリの友達を想う純粋な想いを利用していることに対し、嫌悪感を抱いてしまう。
だが同時に、頭ではその有効性を理解できる。
「全部、キルトのために」
皇国の間者から襲撃を受けたあの日、俺はキルトの変貌した姿を目にした。
「俺がキルトの秘密を知ったから、だから、逃げられないよう楔を打った」
アルシェさんは、命に明確な線引きが出来る人。アルシェさんの場合、その線引きはキルトに利があるかどうかその一点のみ。
「もし逃げようとしたら……」
自分が想像した最悪の未来に、全身の産毛が総毛立つ。
「何、おっかねぇ顔してんだ?」
時間を忘れて物思いに耽っていると、ふい声をかけられた。
途端に意識が現実に引き戻され、俺は反射的に声がした方に顔を向ける。
「ラルフさん」
開かれた玄関の中央、鎧の体をしたラルフさんが立っていた。
俺の知らない魔術だと思っていた。
いや、違う。
皇国から逃れたいあまり、現実逃避していたのだ。
「んだよ、ジッと見てきて?」
「あッ、す、すみません」
慌てて平謝りすると、ラルフさんは部屋の中に入ってくる。
「今日は早いですね?」
「ヴァルグがいねぇからよ、つまんねぇから帰ってきた」
確かに、ヴァルグさんの姿をここ最近見かけていない。記憶を遡ってみると、居なくなった日の前日、ヴァルグさんはマルシェさんに声をかけられていた。
俺が直接アルシェさんに尋ねても、きっと話してくれないだろう。
今はどんな些細な情報でも得ておくべきだと考え、ラルフさんに探りを入れることにした。
「ラルフさん、ヴァルグさんはどこに行ったんですか?」
「聞いてねぇのか? ヴァルグは、お嬢の遣いに出てんだ」
「遣い?」
「ああ、“一ツ目”と“野人”に会いに行ってる」
ラルフさんは一切俺に隠す気が無いのか、簡単に話してくれた。
“一ツ目”と“野人”。
野人については何も知らないが、一ツ目については本で読んだことがある。
――曰く、太陽を忌み嫌うように洞窟の奥深くで生息し、人間に強い憎悪を抱いている魔物。
何故、このタイミングで一ツ目と接触するのか。
答えた簡単、戦力の増強。
頭が理解したと同時、心臓が縮み上がった。
(キルトとアルシェさんは、皇国と戦争しようと考えているのか?)
日本に居る時も、字面やニュース、歴史などで幾度となく触れた言葉。
だが今回は、受ける印象がまったく違った。
どこからともなく、気配が漂ってくるのだ。
砲撃音や、大勢の雄叫び。
地面を埋め尽くす、無数の死体。
「ダメだ……」
うるさいくらいに血管が脈打つのに、体は冷たくなって感覚を失っていく。
頭の中に浮かんだアカリの笑顔。愛おしく、守りたい大切な人。そんな彼女が、血の海に沈む姿を想像をしてしまう。
途端に、体の奥底から力が漲ってくる。
冷え切っていた体は焼き戻され、頭が冴え渡っていく。
拳を命一杯握り締め、足の裏で地面を強く掴む。
思考を放棄した瞬間、神に縋った瞬間、アカリが死ぬ。
(ハッ、俺も一緒だな)
アルシェさんのことを嫌悪していた。なのに、いざ自分の大切な人が危機に瀕すると、他人を利用する算段を思考し始めた。
姿勢を正し、ラルフさんを真っ直ぐ見つめる。
「ラルフさん」
「ん? なんだ?」
「キルトは、今のままで大丈夫なんですか?」
アルシェさんを止められるのは、キルトしかいない。どうにかキルトと接触し、説得する。
「ああ、キルトな」
「あの日以来、ヤケになってるって言うか、精神的に追い込まれて良くない方向に進んでると思うんです。ここ最近は、ホリィちゃんにも会ってないですし」
俺の言葉に、ラルフさんは腕を組む。
「確かにな。アイツが今進んでのは、“修羅の道”だ」
「……その、止めないんですか?」
ラルフさんの物言いに、違和感を覚える。修羅の道を進んでいることを理解しているのに、ラルフさんは止めようという思いが微塵も感じられないのだ。
「まあ、お前の言いたいことは分かる」
「なら――」
食い下がろうとした瞬間、ラルフさんが俺の目を見つめた。
空洞の兜。その奥には、瞳はおろか肉体もない。にもかかわらず、眼光鋭い眼差しに晒されていると直感で悟る。
「けどよ、キルトは人間じゃねぇ」
決して大きくも、力強い声でもなかった。だが、芯に喰らったような衝撃を受け、俺は固まってしまう。
「人間にとっては外れた道でも、キルトなら正道かもしれねぇ。そもそも、誰も端まで行ったことがねぇんだ。なら、間違いだって言えねぇだろ?」
そう言いうと、ラルフさんが俺に歩み寄ってくる。
俺は何も答えられず、呆然とラルフさんを見つめた。
「んで、お前はどうするんだ?」
「え?」
突然の問いかけ。混迷から抜け切れていない状態では、その意図に思考が辿り着けない。
「お前らは人間だ。このまま俺らと一緒に居ると、巻き添えを喰らうかもしれねぇぞ?」
「あ……」
「お前にも、守りたいヤツが居んだろ。これからのこと、しっかり考えろよ。ホリィのことは、キルトに伝えとく」
ラルフさんは俺の肩を叩き、自室へ戻った。
再び静寂が訪れた部屋に、細かい雨音が響く。
◇◇◇◇◇
瞬間移動地点の設置がほとんど終えられたその日の深夜、久しぶりに島に戻った。
この島では雨が降っていたのか、地面にはいくつか水溜まりが出来ていた。
明かりが消えたログハウスに向かって歩き出す。
昼頃、「たまには顔出してやれ。ホリィが寂しがってんぞ」と、ラルフさんに言われた。
静かに玄関の扉を開けると、静寂に包まれた部屋に開閉音が響き渡る。
物音を立てないように歩き、まずは自室へ戻った。
何日も大陸を走り続けた体は、あちこちが汚れている。
衣服を脱ぎ捨て、体を綺麗に拭く。
そうして体を清めた後、ホリィの部屋へ向かう。
月明かりが射し込み廊下を進んでいると、並んだ部屋の中から寝息が聞こえ、この島がまだ平和であることを実感できた。
部屋に辿り着くと、静かにドアノブを回す。
ホリィの部屋。
数えきれない人形が棚の上に並べられており、貴族の子ども用のおままごとセットも壁際に片付けられていた。
そんな部屋の窓際、大きなベッドに寝ている二人の姿。
一人はマーレイさん。そしてもう一人がホリィだ。
小さな寝息を立てて眠るホリィは、マーレイさんに抱き付いて眠っている。
安らかな寝顔。
守ると誓いを立てた命。
「…………ママ、パパ……」
粛然とした部屋、ホリィの口から空気のような寝言が零れ、瞬く間に闇へと溶ける。
息を呑んだ。
直後、視界が歪む。
ぼやける視界のまま固まっていると、月が雲に隠れ、ホリィの顔だけに影が射した。
「あ……」
呼吸が浅くなっていく。
胸の奥が下がり、声を出してしまいそうになるのを咄嗟に我慢する。
だが、我慢はそう長くは続かない。
黒穴を出現させ、逃げるように飛び込んだ。
降り立ったのは、島から一番遠い瞬間移動地点。
ここなら、あの島に声は届かない。
辛うじて保ってていた精神が、一気に決壊する。
「あぁあ―――!!!」
月に向かって慟哭した。




