6.転職
母と食事を終えたのち、食器の片づけを手伝った鉄男は自室へと戻った。二年間、留守の間に部屋は少しカビ臭くなっていた。これでも、定期的に空気の換気は行っていたと母は言う。やはり、人がいなければ建物は傷みやすくなるようだ。
四畳半の部屋の隅にある小さな机の椅子に座り、その上に置いていたスマホを手に取り、しばらく電話帳の画面を見つめる。そして、決意したかのように受話ボタンを押した。
四回目のコールで相手が出た。
「あ、もしもし。俺、三咲ですけど……」
『おぉ、鉄男君かっ?』
「はい、そうです。社長、長い間、すみませんでした」
『いやいや、そんなこと気にしなくていいんだよ。それより、こうして電話してきたってことは、体の方は良くなったのか』
「はい、今日退院しました」
『そうか、それは良かったな。お母さん、喜んでるだろ』
「えぇ、はい」
少しの間が空き、
『それでだ、どうだ、あと少し休んだら、またうちに来るか?』
「そう言ってくれるって思ってました。でも、色々考えた上なんですけど……俺、今回を期に転職しようかなって」
『鉄男君、何か気を使わせてたらすまない。確かに、現場監督なら新しく入って来ていて人手は……足りてる』
「いや、そういう事じゃなくて」
全くと言えば嘘だったが、社長の気遣いが優しく嬉しかった半面、そう言わせてしまった事に申し訳なくなった。
『……分かった。それなら、鉄男君、一級持ってるんだから、設計の方はしたくないか?』
「設計……ですか」
『立花って設計事務所、知ってるだろ?』
「えぇ、名前くらいは」
『鉄男君、そこどうだ? いいだろう? 話進めておくよ』
「えっ、ちょっ」
『チャレンジ、チャレンジ! じゃ、また電話するよ』
そう言って、一方的に電話は切れた。「えー?」展開の早い話に鉄男はついていけないが、社長らしかった。
あっという間に見つかった転職先に、ひとまず安堵すると、色々と疲れのせいかあくびが出た。
「……」
これでいい。このまま日常に戻ろう。仕事も変えて、心機一転するんだ。そう、鉄男はあの夢から思考を追いやって遠ざけていった。
◇
翌日。
立花設計事務所と書かれた建物の前で鉄男は突っ立っていた。
思えば、面接はこれで人生二回目だ。高卒後、ずっと前の会社で働いてきたからだ。仕事にだけは真面目で一筋だったため、母に仕事人間と言われるようになったのだった。
気を引き締めて、ガラリと引き戸の玄関を開けると、「あっ」と事務員らしき女性が、道端で誰かとバッタリ会ったかのようなリアクションをとる。
「あの……」
「三咲さんですよね? 社長、お見えでーす!」
奥の部屋へと明るく元気な大きな声を飛ばした。すると、部屋の一番奥にいた年配の男性がデスクから立ち上がり、
「やぁ」
と、軽く手を上げながら鉄男の側へとやって来ると、「こっちに来て」と隣の部屋へと入っていく。
一瞬で、ここはアットホームな会社だと鉄男は解釈した。しかし、デスクに座る何名かの従業員たちは、パソコン画面にかじりついたまま、仕事に熱心なのが伺えた。
案内された部屋は、棚にファイルや床に段ボール箱が置かれてたりはしていたが、テーブルを挟んで二人掛けくらいのソファが二つある。一応、応接間のようだった。「かけて」と促され、社長と向かい合わせでソファに座った。
「さて、話は島村さんから聞いてるよ。あっ、私は社長の倉田です」
「あっ、三咲鉄男です」
鉄男はペコリと頭を下げる。
「それで……」と倉田が言い出し、鉄男がスーツの内ポケットから履歴書を取り出した。
「おぉー」と、倉田は初めて見たかのように珍しそうな顔をして、
「それじゃあ、見させてもらうよ」
ザっと目を通す。
「建築一級持ってて、島村さんとこでは現場監督やってたんだね?」
「はい、そうです」
「じゃ、図面は引けるね」
「はい。でも、施工図面しか引いたことないですけど」
「そりゃあ、そうだ。でもそんなのどうでもいいよ。要は、パソコン使えればいいんだよ。すぐに本図面を引けるようになるよ、大丈夫」
ハハハと呑気に笑うが、どっかりと大きく根を生やした人だと鉄男は感じ、この人の元ならと、安心できそうだった。
「ところで、聞いたけど、大事故やって何年も意識戻らなかったんだって?」
「はい、海の事故で。二年くらい意識ないまま眠ってたようです。あっ、でももう大丈夫です。仕事には差し支えないです」
「そっかそっか、良かった」
と言って、履歴書をテーブルの上へ置き、チラリと時計を見て、
「じゃあ、面接は終わりだよ。早速だけど、明日から来てもらっていい? どう?」
「えっ、これでいいんですか? 後日、連絡とかじゃ……」
あまりにあっけなく、鉄男は拍子抜ける。
「あー、そんなのないない」と、倉田はパタパタと手を振り、「ちょっと話せば分かるよ」
そこへ、先程の事務員らしき女性が盆の上にコーヒーカップを乗せてやって来る。「お待たせしました、どうぞ」
「あぁ、私は構わないよ。じゃあ、三咲君、コーヒーでも飲んでってよ」
そう言い残し、作業場の方へと倉田は行ってしまう。事務員も「ごゆっくり」と頭を下げて退室して行った。
応接間で一人、「うーん」と困惑気味に鉄男はコーヒーを頂いた。