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34.最終話

 あの日から一か月以上が経った。

 鉄男(てつお)は今、伯父が経営するサンマリーナで働いていた。立花(たちばな)設計事務所を辞めたと知った母が伯父に相談したのだろう。伯父から「船が好きなら、うちで働かないか?」と誘いがあった。自分の好きな事が仕事にできるなど、思ってもみなかった鉄男は、その言葉に有難く甘えさせてもらった。

 初夏の日差しがジリジリ肌を焼く中、船のデッキをブラシで磨いていると、


「てっちゃん」


 (まもる)の呼ぶ声がして、手を止め腰を上げる。


「守。今日、仕事休みなのか?」

「今日は祭日だよ」


「あぁ、そうか」と、いつもより客が多いのに合点がいった鉄男だ。今までの仕事と違い、時の流れが緩やかに感じる。


「そうかって、のん気だなぁ。休みっていう休みはないんでしょ?」

「まぁ、そうだけど。家でいてもヒマなだけだしな」

「趣味って言ったら、海釣りぐらいだもんな。ホント、いい仕事見つかって良かったじゃん」

「まぁな」


 談笑していると、「鉄男さーん」とめぐみが遅れてやって来る。どうやら様々な船に目が奪われていたようだ。


「ちょい、お久しぶりです」

「久しぶり、めぐみちゃん」

「今ね、高倉(たかくら)のおじいさんちへ行った帰りなの。鉄男さんの分のお肉もあるから、後で渡すね」

「おぉ、ありがと。ピーパーズ、元気?」

「うんっ。お肉食べれて幸せ者よ。猫ってお肉なら魚じゃなくてもいいのね」

「この間、マックスの背中に乗って家の周囲を偵察したんだよな。別荘じゃなくてもできんだな。スゲーって思って」

「もしかして、門多(もんた)さんがどこかで遠隔操作してんじゃないかって……」


 そこまで言って、めぐみはハッと口をつぐむ。あれ以来、門多の名前が出てくることはなかったからだ。そして、記憶装置を奪い取ってからも、何も不穏な出来事は起こっていなかった。


「……鉄男さん」

「なに?」


 めぐみは守の方をチラッと見て、守が頷くのを確かめてから話し出す。


洋子(ようこ)先生の事だけどね。私の友達で野崎(のざき)病院に勤めてる看護師の子がいるんだけど、その子から聞いた話なんだけどね。洋子先生、未だに意識が戻らないままだって……それもあくまでウワサらしいんだけどね。でも、医師として不在なのは本当みたい」

「……そうか」

「何か、ごめんなさい。もう過ぎた話を蒸し返したみたいで……でも、鉄男さんが同じ意識不明の時に洋子先生はもちろん、野崎院長にもお世話になってるし、全く無視はできないと思って……」

「オレはもういんじゃないかって思ってるけどね。一応、知らせておきたいってめぐみが。適当に聞き流しといてよ」

「……あぁ」


 しかし、鉄男は複雑だった。もし、地下室に侵入して記憶装置を奪うなどしなければ、あんな事故は起きなかったかもしれない。だが、そうしなければ、自分を守ることができなかった。冷たくもあるがなるべくして成った結果だろう。

 鉄男は気持ちを切り替えて上を向く。


「今度、また三人で海釣りへ行こうか」

「いいね、行こう!」

「わぁ、楽しみ! お魚釣れたらピーパーズに食べさせてあげよっと」


 めぐみはすっかりピーパーズにぞっこんだった。参った様子の守の肩をポンポンと鉄男が叩いた。そして、鉄男が休憩時間に入るのを待ってから、三人は屋台のアイスクリンをきらめく海を眺めながら食べた。



   ◇



 エレベーターで最上階まで登ると、人気のない白い通路を鉄男は真っ直ぐ前を歩いて行く。そして、ある部屋の前で足を止めた。

 自分が眠っていた時の病室だ。

 小さく、コンコンとノックした。静まり返った廊下に通り抜けるよう音が響く。

 中から応答はない。鉄男はそっとドアを引く。

 室内にはゆったりとした大きなベッドがあり、その周りを囲む白いカーテンが窓からの風に揺られて、おいでおいでと手をひらひらしているようだ。近づくと、カーテンの隙間から人影が見えた。

 鉄男はカーテンに手を差し込む。

 中には女性が一人、眠っていた。


「――洋子さん」


 人工呼吸器などは付けておらず、点滴の細いチューブが痩せ気味の心許ない細い腕に繋がっているだけで、まるで人形が眠っているようだった。

 そう、あの人形だ。

 窓の外に海はない。代わりに隣の病棟の屋上が見える。灰色をしたコンクリートが殺風景にあるだけだった。


「いつまで眠るんですか?」


 自分の声を聞くと不愉快な気分に目を覚ますのではないかと冗談に思ったが、やはり冗談に終わった。

 鉄男は手に持っていた紙袋の中から小さな鉢植の花を取り出して、窓際へと置いた。


「俺が入院していた時に、ここにこうして置いてあった花です。今は俺の部屋に置いてあって、それを株分けして持ってきました」


 可憐に咲く青い花。


「ニゲラの花です。花言葉は何か知ってますか? 起きたらぜひ教えてください」


 そう言って、鉄男はこの時の流れが止まったかのような部屋を立ち去ろうとした時、ドアが開かれた。

 野崎院長だった。


「君は……三咲(みさき)君。何をしに?」


 目を見開き、少し顔を強張らせている。鉄男は視線を合わせず軽く会釈だけすると、何も言わぬままドアへと向かう。野崎の横をすれ違いざま、


「――夢が現実になりましたね」ぼそりと。


 野崎が鉄男を振り返り、「何がだね?」意味が分からないでいる。鉄男は立ち尽くす野崎を置いて、そのまま病室を後にした。

 あの夢でも、洋子は事故に遭っていた。野崎は洋子を救うため、脳だけを生かした。人は脳だけでも生きられると持論していた。そして、代わりの肉体として人形を与えたのだ。

 今回の現実での研究とは少し異なるが、このまま野崎は洋子を眠らせたままなのか。もしくは、自分のように脳のデータを取りコピーを作り出すのか。もしそうなったならば――鉄男は廊下で立ち止まる。


 話してみたい。

 もう一度。

 洋子と、話がしたい。


 そう思った時、あぁ、そうゆうことかと鉄男は気づく。

 洋子の研究は、失った家族と繋がりたい。どんな形であれ。もう一度、話がしたい。そんな優しさが根源にあったのではないかと。

 研究者として道を外してしまったが、やはり洋子はあの夢の中の洋子と変わらない。

 そう信じて、洋子が目覚める日を鉄男は待ち望んだ。



   ◇



 地下三階のコンピュータ室がある部屋の一角。

 暗闇の中、野崎の顔が沈んでいた。赤や緑のランプがその濁った瞳にチカチカと映り込んでいる。

 他に誰もいない。

 ひんやりと人工的に機械が作り出した冷気が足元を漂う。

 パソコンが置かれたデスクの椅子に野崎は座る。ギシリと、無機質な部屋に乾いた音で響き渡る。

 長い間、野崎は動かなかった。

 手に持つ写真をジッと瞬きも忘れて見つめ続けている。

 そのかたわらには、コンピュータの記憶装置が入ったケースが一つ。印が付けられている。


 〝YOUKO〟


 野崎はそのケースに震える手を差し伸ばす。そして立ち上がると、コンピュータ室の扉を開いて、ゆっくりと中へと入っていった。


〈了〉

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