33.衝突
「てっちゃん、今の音……」
「あぁ」
鉄男と守の顔が強張る。
「何なの? 今の何の音?」
めぐみは咄嗟に状況が把握できないでいるが、確かに何かの衝突音を聞いた。
「裏じゃ」と、じいさんは海を広く見渡せる、別荘の裏へと向かい、三人もついて行く。
「…………」
鉄男達もじいさんも、全員、その光景に絶句する。
沖合から数百メートル辺りで洋子が乗っているクルーザーと漁船が接触事故を起こしていた。
「何? 無事なの?」
「てっちゃん、ヤバいよ」
「……おじいさん、どうしますか? 118番ですか?」
「ちょっと待っとれ」
と言って、じいさんは小屋から双眼鏡を持って来る。「門多さんに、ここに双眼鏡があるから、いつでも使っていいと言ってくれてての」そして、事故現場を双眼鏡で覗く。
「せとうち丸か。富田んとこの船だな」
「お知り合いですか?」
鉄男が双眼鏡を気にしつつ聞く。
「あぁ、そうじゃ。乗ってるのは富田んところの若い衆だな。ちょっと電話してみる」と、ズボンのポケットからラクラクスマホを取り出して、操作し始める。「これ、借りていいですか?」と鉄男が言うと、じいさんは双眼鏡を差し出した。
鉄男が双眼鏡を覗くと、漁船から人が一人、クルーザーに乗り込んでいるのが見える。
「何が見えるの? 乗ってる人達、無事なの?」
「てっちゃん、洋子先生は?」
「よく分からない。男性の姿は一人見えるけど、女性は見えない」
「貸して!」と、めぐみが順番を待ちきれずに両手を伸ばす。「オレもっ」と、守と双眼鏡の奪い合いになる。胸を騒がせている二人と違い、鉄男はどこか遠くで客観視している自分を感じていた。洋子が事故に遭った。――これも門多の夢ならばと、ぼんやり思った。
電話を終えたじいさんが、
「やっぱり接触事故らしい。両方の船に大した損傷はないようじゃが、クルーザーの方の女性が頭を打ったようで意識がないらしい。海上保安庁に連絡したそうじゃが、来るのに少し時間がかかるみたいじゃから、とりあえず漁協の方に救急車を呼ぶそうじゃ。こりゃ、えらいこっちゃ」
「女性って、洋子先生ですか?」
鉄男が確認して聞くと、
「富田んところはいつも乗ってるのは親父と息子の二人だけだからな。クルーザーの方は洋子先生が乗ってたのを、さっきあんたら見たんじゃろ?」
「はい。あと男性が二人です」
「じゃあ、そうゆう事だな」じいさんは落胆したように肩を下げた。漁船とクルーザーが鉄男達のすぐ近くの海上を通って行く。
「わしも今から漁協の方へ行ってみるんじゃが、あんたたちはどうすんじゃ?」
三人は戸惑い顔を見合わせ、
「俺たち、門多さんに会いに来たんですけど……飛んでってしまいましたから……」
ほぼ点となり空の彼方へと消えていくパラグライダーを見やりながら鉄男は、「帰るしかないですね」
「そうか、そうじゃな。あぁ、この猫、お姉さんに懐いてるようじゃから、もらってくれんじゃろか? わしもどうしようか思ってたところでな」
「えっ、急に言われても……エサ代とか、トイレが……どうしよう、ピーパーズ?」
めぐみは飼いたい気持ちだったが、家計を考えると厳しい。実家暮らしの独身時代ならば迷わず拾って帰っていたところだが、家庭を持つというのは大変だと改めて知る。
「じゃあ、こうしよう。わしんところはその向こうで牛飼ってんだ。じゃから、いつでも来い。牛肉だけはたくさんあるから、好きなだけやるよ」
「えーっ、いいんですか? その猫、飼います! あっ、オレ、こいつの夫です」
牛肉と聞いた途端に飼う事を即決した馬鹿正直な夫にめぐみは呆れ返りながらも、ピーパーズに頬ずりしながら、「よかったね」と嬉しそうに喜ぶ。
「よし決まりじゃな。わしんちは、そこ下がって三叉路を左に行けば緑の屋根がそうだ。いつでも遊びに来てくれ。ばあさんも喜ぶ。……それと、この犬みたいなオモチャは……何か充電器も渡されたんじゃが」
じいさんは犬型ロボットのマックスを不思議に見下ろし困っている。
「ピーパーズはマックスの背中に乗って散歩するみたいだから、守、一緒にもらってやれよ」
「メカについては、てっちゃんでしょ。でも仕方ないな、ピーパーズが寂しがるもんな」
こうして、門多の残していった、いや、置いて行かざるを得なかった大切な家族の新しい家は決まった。きっと門多もこうなる事を簡単に見越していて、安心して飛び立ったのだろう。
「じゃあ、わしは行くから、あんたらも気ぃつけて帰れよ」
「はい。事故の方、よろしくお願いします」
鉄男は頭を下げた。守とめぐみも手を振ってじいさんを見送った。
こんな日だが、空は晴れ晴れしく青く広がり、海鳥たちが悠々と羽ばたき飛んでいた。
◇
野崎が院長室でデスクに向かっていると、携帯電話が室内の静けさを裂くかのように鳴った。
携帯をズボンから取り出すと、野崎は不快に顔をしかめる。
「はい」
『探偵事務所の佐山です。野崎院長、落ち着いて聞いて下さい』
「私はいつも落ち着いている。何だね、早く言いなさい」
そう言いつつ、やや苛立ちながら、用件を急ぐ。
『お嬢様がですね、海上でクルーザーと漁船との接触事故に遭われました。今、香山総合病院へ救急車で運ばれたところです』
「何っ?」
ドンッとデスクを叩く音が受話口の向こうの佐山にも聞こえた。驚きの中に、何故お前たちがついていながらという、怒りが込められているのが伝わる。
「容態はどうなんだっ? 命に別状はないのかっ?」
『運ばれる時には意識がない状態でした。とりあえず、誰かお身内の方などが病院へ向かわれた方が……』
「当たり前だっ」と野崎は一喝した。
「何かあったかは、後で詳しく説明してもらう。香山総合病院で間違いないな?」
『はい』
「分かった」
もう用はないとばかりに、野崎は受話ボタンをプツリと切った。そして、別の番号を呼び出す。すぐに、呼び出された事務員兼秘書といった若い眼鏡姿の男性が飛んでやって来た。
「洋子が海で事故に遭って、意識不明のまま救急搬送された。香山総合病院へだ。すぐさま救命センターの佐川先生と外科の大和先生を連れて様子を見に行ってくれたまえ」
「大和先生は今、手術中で……」
「今すぐ執刀医を変えろっ」
「は、はいっ」
「いいかね、状態によっては洋子を連れ戻して来るんだ。洋子の命は私が救う。分かったかね」
「はいっ。そのように話してみます」
「話してみる、じゃないっ。洋子を連れて帰るのが前提なんだっ。まぁ、君では分からんだろうから、必ず救命センターの佐川先生だけは連れて行くんだ。さぁ、早くっ」
「はいっ」と、手足をバタつかせながら、男性はドアの外へと出て行った。
野崎は椅子にドサッと身を崩すように座り込み、学会のための資料が山積みにされたデスクの上に両肘をつき手を組む。そして、深い溜息を苦しそうに吐き出した。




