1. 硝子のマリア像
4月19日、愛知県警守山署刑事課の袴田穂高と山口均は、名古屋市の北東に位置する尾張旭市を覆面パトカーで移動中だった。2人は聖マシュー大学への出動命令を受けた。
遅咲きの枝垂れの八重桜が散り、藤の季節を迎えようとしていた。聖マシュー大学は、名古屋市と尾張旭市をまたぐ緑豊かな丘陵地帯にキャンパスを構えていた。
行き先が学校だからか、サイレンを鳴らさず、赤色灯も出さないようにとの指示だった。向かう途中、無線で県警本部も即刻人を送るとの連絡を受けた。
若い袴田に緊張が走った。助手席では、なぜ刑事課にいるのか疑問に思う者も少なくない、やる気のない胡麻塩頭の山口がスマートフォンをいじっていた。
袴田は、大学正門の守衛室の前で車を止めた。
「ご苦労さまです。12号館の3階、314号室へお願いします。心理学部の石川先生の研究室です」
守衛は学内地図を手渡し、袴田たちの右前方の来客用駐車場を指差した。
土曜日の午前11時前、授業があまりないのか、キャンパスに学生の姿はまばらだった。
緩やかな坂を登り切ると、12号館の正面玄関に辿り着いた。守衛室から連絡を受けていたのか、3人のスーツを着た大学関係者らしい男たちが、安堵と緊張の混じった表情で袴田と山口を出迎えた。
「こちらへお願いします」
一番年長と思われる洗練された雰囲気を漂わせる男が袴田と山口を促した。刑事たちのあとに他の二人も続いた。
「事務長の伊藤です。314号は石川先生、心理学部の石川修准教授の研究室なんですが……」
50代後半と思しき事務長の伊藤高史はそう言うと、大きく息を吐いてから覚悟を決めたように続けた。
「石川先生が亡くなってるんです」
そして堰を切ったように話し出した。
「1限目、9時始まりの『人格心理学』の授業に9時半過ぎても石川先生がお見えにならないと学生が教務課に来まして。内線で連絡しても、先生の携帯にかけても捕まらないということで、この木村が先生の研究室に様子を見に行ったんです。木村君、そうだね」
木村というのは20代後半だろうか、学部付きの職員だ。憔悴しきった表情の木村一樹が伊藤を引き継いで言った。
「ええ。ノックをしても返事がなかったので、授業も始まってましたし、ドアを開けてみました。そしたら石川先生が床にうつ伏せで倒れていらっしゃって。床が黒くひどく汚れていて。血だと思いました。手首で脈があるか確認しましたが脈がなくて。ただ自分も動転していたと思うので、とりあえず携帯で119番しました。内線で事務長にも連絡しました」
エレベータの3階のボタンを押しながら、今度は伊藤が言った。
「それで大急ぎで石川先生の研究室に行きまして、私も確認しました。私も亡くなっていると判断しましたので警察にも連絡しました。救急隊の方も死亡が明らかだということで、そのまま帰られました。石川先生はまだ居室にいらっしゃいます」
温厚そうな心理学部の学部長、渡辺貞人は60ぐらいだろうか。伊藤と木村の話を聞きながら、無言でただただ頷いていた。
エレベータを降りると、右手前から4室目が314号室、石川研究室だった。事務長の伊藤がドアを開けると、そこには幅約3.5メートル、奥行き約6メートルの部屋があった。
入り口から2メートル入った辺りに、どす黒い血溜まりができていた。血溜まりは、白っぽい大理石模様の床の上で、やたらと目立っていた。
その中で石川修は、頭を入り口に向け、うつ伏せで息絶えていた。整った顔を少しだけ右に向けて目を見開き、壁際に置かれた黒革のソファーの木製の脚を睨みつけていた。
40歳前後だろうか。額は黒く汚れ、額にかかる前髪は血で固まっているようだった。ソファーには、本が2冊、無造作に置かれていた。
透明なクリスタル硝子のマリア像が、部屋の奥に置かれた広い机の真ん中で、入り口を向いて鎮座していた。像の四角い台座部分は黒く汚れていた。
右手壁際にくくりつけられた本棚と左手の机の間は、1メートルほど空いているだろうか。キャスター付きの椅子が、つい先程まで使われていたように無造作に置かれていた。
椅子の下の床には擦ったような黒い汚れがあった。机の端に置かれたパソコンの電源は入ったままだった。
自然死でもなく、自殺でもなく、明らかに殺人だった。しかも、袴田穂高が一番に現場に到着した、はじめての殺人事件だった。
袴田は入り口に立ったまま、事務長の伊藤と職員の木村から聞いたこと、目にしたこと、気づいたことを注意深くすべてメモした。
犯人は、撲殺という暴力的な行動をとったにもかかわらず、ほぼ間違いなく凶器と思われるマリア像を机に丁寧に置いた。なぜだろうか。並々ならぬ好奇心が掻き立てられた。
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