16.息子、日向
長野刑務所から名古屋に戻ると、城島は警視正の島田に稲村との面会、そして偽の美羽による夫圭佑殺害の可能性について報告した。ひととおり話を聞いた島田は、憤怒を隠そうとすらしなかった。
偽の澤口美羽が見つかれば、11年前の稲村の捜査の不備が明るみに出るかも知れない。見つからなければ、石川の事件の現特捜本部の不手際が非難の的になるかも知れない。どっちに転んでも、島田の出世にも県警の評判にもプラス材料にはならなかった。
城島は、偽の美羽の捜索を詳細に確認し、指示を出した。袴田に圭佑の両親、圭司と鈴子、そして日向に改めて話を聞くよう指示した。
「偽の美羽、晴香が逃亡して、一番心残りなのは息子の日向のことだろう。他人として生きてきたんだ。友だちや知人なんて言っても関係は希薄だ。連絡を取るとしたら、澤口家、とくに日向だ。警察とは話したがらんだろうが、お前なら、息子は前にも会っとるしな」
袴田は、12月の冷たい雨が降る水曜日の午後、白壁の澤口邸を訪れた。
澤口圭司が袴田が来ることを快く思っていないことは明らかだった。ましてや孫の日向と話すことには強い抵抗を示した。
「日向はまだ子供です。警察も仕事なのは分かりますが、日向を刺激するようなことは辞めていただきたい」
「いいよ、おじいちゃん。僕、大丈夫だよ。っていうか、袴田さんと話したい」
広い玄関から見える2階へ続く螺旋階段から日向が降りてきた。
「袴田さん、僕とおんなじようなことがあったんだって言ったでしょ」
圭司は涙ぐみながら日向の頭をゆっくりと撫でると、袴田を応接室に案内した。
空気がきしむような気まずさを感じながら、袴田は、圭司、鈴子、日向に体調や心情を気遣う質問をした。そして、偽の美羽の発見につながりそうな型どおりの質問をいくつかした。予想どおり、偽の美羽の行方を指し示すような情報は得られなかった。
すると突然、日向が訊いた。
「袴田さん、お母さんは、お母さんの本当の名前は安田晴香なの。お母さんは人殺しなの。お母さん、どこ行っちゃったの。生きてるの?」
すでにニュースで安田晴香が藤原美羽になりすまし、就職したり結婚したりしていたこと、本物の美羽が死亡している可能性が高いことが流れていた。
鈴子は、日向の手を握っていた自分の手にぎゅっと力を込めた。袴田は答えに窮したが、おざなりな答えでごまかすことはかえって日向を傷つけると思った。
「日向君、君にどう答えてあげたら一番いいのかわからないけど、教えてあげられることは全部正直に言うよ。もし辛くてなって聞きたくなくなったら、教えて欲しい。いいかな」
日向がうなずくのを確認して、袴田は、これまで分かっている事実、澤口美羽が実は安田晴香であること、それから、姿を消すまでの安田晴香の経歴を伝えた。
日向は、袴田の顔を食い入るように見つめながら聞いていた。さらに、日向が耳にした、あるいは耳にするであろう無責任な憶測についても触れた。
「お母さんが藤原美羽さんを殺したんじゃないかっていうことだけど、これについては何も分かっていないんだ。藤原美羽さんがいなくなったこと、それは事実だ。でもいつ、どこで、どういう情況でいなくなったのかは誰も知らないんだ。残念だけど、お母さんが関わっている可能性がないとはっきりと否定できない。でも、悪い方に決めつけるのはやめよう」
圭佑の両親は、袴田の話を聞きながら、孫の様子を注意深く見守っていた。
「それから、お母さんが今どこにいるかだけど、いろいろな情報が警察に集まってくる。だけど、まだ見つかっていない。日本にいるのか、外国に行ったのか。マスコミの中には生きていないかも知れないって言ってるところがあるけど、これも何も分かっていないからあくまでも1つの可能性でしかないってこと、忘れちゃだめだよ」
日向は何も言わずに下を向いた。そして、小さな嗚咽が聞こえてきた。
日向の手を握っていた鈴子が自分より大きな背丈の日向の肩を抱き寄せた。嗚咽はすぐに慟哭に変わった。日向の泣き声が部屋の空気を揺らした。
袴田は、自分が父を失ったときのことを思い出していた。悲しくて悔しくて、自分も声を抑えられずに大声で泣いたことを思い出していた。
しかし、自分には母がいた。母がいたから、自分は一人ぼっちではなかった。何があっても、自分には帰る場所があった。
でも日向は、父を失い、一番絆が深かったであろう母を失ったのだ。しかもこんなかたちで失い、どれほど傷つき、混乱していることだろうか。袴田は日向の想像を絶する痛みと苦しみを思った。
袴田は、何か分かったら連絡することを約束した。そして、万が一、偽の美羽から連絡があった場合には、必ず連絡してくれるように頼んで澤口邸をあとにした。
日向は泣き疲れて、袴田を見送ることなく2階の自分の部屋に戻っていた。




