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私の後ろの、あなたはだあれ?―小西ゆかりの日記より―

作者: 結城康世

11月27日

 一週間前からだろうか。私に付きまとってくる人がいる。男か女かもわからない。気づいたら電柱の陰、車の中から私をじっと見ている。振り返るとその視線は消えている。

 冷たい視線……。あの視線を浴びると体の芯が凍えそうだ。怖い……。あの視線を浴び続けると、だんだん私が私でなくなっていく。今会社に行くためにハンドルを握っているこの手も、氷のように冷え切って、まるで私の手じゃないみたい。

 手の震えが収まらない。オフィスにいるときでさえ、あの視線を感じてしまう。おかげで仕事が手につかない。

 あなたはいったい誰? まるで影のように私にピッタリ付きまとって離れない。行くところ行くところに待ち構えていて、あとについてきて。


11月28日

 今日は小春日和。

 今日は休日なので、あの冷たい視線に怯えることもないだろう、と思ったのに、ベランダに布団を干しに行ったら、やっぱりいた。あの電柱の陰だ。勇気を出してこちらが凝視しようとすると、日陰に溶けるようにその姿が消える。

 怖い……。休日出勤で会社に出ている夫に電話をかけ、部屋の隅で震えていた。

 夫はストーカーなのだろうと言った。かれこれ一週間にもなるから、明日にでも警察に行こうと言ってくれた。実害が出てからでは遅い。ストーカー被害は初期の段階から警察にこまめに相談するのが大事だそうだ。

 だが、私にはそうは思えない。あれがストーカー? いいや違う。あれは生身の人間じゃない。全身黒ずくめで、目だけが鋭く光っていて。あれは多分、死神なのだ。私をターゲットに定めた、地獄からの使者なのだ。


11月29日

 今日は夫も私もお休み。昨日の言葉通り、夫は車を出して最寄りの警察署に私を連れて行った。警察官はいろいろと話を聞いてくれたが、結局は「事件にはなりそうにない」と言われた。夫は日を改めて再び警察に行くと言ってくれた。優しい夫だ。

 だが、警察署への道すがらも真っ黒な車が後ろからそっとついてきていたことは、夫も気づいていない。私にだけ見えるのだ。なぜならあれはストーカーなどではないのだから。あれは、私を連れに来た地獄の使者。


11月30日

 朝から震えが止まらない。夜明け前、ふと目を覚ましてベランダに出ると、やはりあの黒い影がいた。こちらを見上げている。

 怖い……。

 不整脈の発作が起こったため、私は会社を休んだ。午前中に病院に行き、夫は半休を取って付き添ってくれた。午後はどうしても会社の会議に出なければならないらしい。

 気が付くと眠っていた。時計は午後4時を指している。台所に水を飲みに行くと、裏口前の砂地から音がした。誰かの足音だ。裏口の周辺を幾度も行ったり来たりしている。間違いない。奴だ。

 私は家中の戸締りを確かめ、自分のベッドにもぐりこんで頭から掛布団を被る。手が氷のように冷たい。冷え切っているはずなのに変な汗ばかり出る。病院からもらった薬はどこかしら。

 6時半ごろ、夫が帰宅した。真っ青な顔で震えている私を夫は心配した。夕食は夫が作ってくれた。優しい。


12月1日

 体調は昨日よりはましになったが、今日も不整脈で会社を欠勤した。こんなことを続けていたら解雇(クビ)になるかしら。

 一日中、二階のベランダのほうから視線を感じる。カーテンを開けても人影はないが、私にはわかる。奴だ。奴が私を見張っている。

 夕方、夫が帰宅してから一緒にもう一度最寄りの警察署に行った。やはり対応は同じだ。事件性がない。夫は警察官を怒鳴った。夫によると、なんでも過去にこうしたストーカー事件で、警察の対応が遅かったせいで悲劇になったことがあったそうだ。

 そういえば昼間、夫の部屋を掃除していて妙なものを見つけた。私のものじゃない女物のブーツが紙袋に入って夫のクローゼットの中の隅に置かれていたのだ。明日、夫に一応聞いてみよう。


12月2日

 今日は比較的体調もよく、出社できた。

 昼休憩中、お昼ご飯を買いに出ると、喫茶店の角にあの影が見えた。途端に全身に嫌な汗が出てくる。もう気が変になりそう。喫茶店に入ってサンドイッチを食べたがほとんど味がしない。喫茶店の隅に座っている人まで全部あの黒い影に見える。間違いなく、私を追い詰めている。

 動悸が激しくなる。震えが止まらない。やはりあれはストーカーなんかじゃない。私にしか見えない、地獄からの使者だ。

 私は会社も何もかも放り出して車に飛び乗り、自宅へと急いだ。道中も震えが止まらない。後ろにあの黒い車が迫ってきている。自分の車の中まで暗くなってくる。ああ、とても寒い。だんだん死が近づいてきているようだ。地獄からの使者はこうして私を絡めとっていくのね。そうして地獄に引きずり込むんだわ。ドン・ジョヴァンニを引きずり込んだように。

 家についた。夫はまだ帰っていない。とにかくあの黒い影が部屋の中には入ってこないようにしなきゃ。必死で家中の戸締りをする。玄関の扉には二重に鍵をかけ、さらにチェーンもした。

 怖い……。


 夕方、夫が帰ってきた。恐る恐るチェーンを開ける。夫は私にやさしくしてくれる。夕飯も買ってきてくれた。でも喉を通らない。ダイニングの隅にあの黒い影が見える。夫には見えない。ああ、やっぱり私にしか見えない。そりゃそうだわ。あれは地獄からの使者。私を連れていくためにやってきた。ほかの人を連れて行くのじゃない。だから私にだけ見えるのだわ。


 玄関のベルが鳴る。こんな時間に誰? ついにその時が来たの? いや! 私まだ死にたくないわ! しかも地獄へなんか行きたくない! あなた! 追い払って!

 私は怖くなって和室の押し入れに子供みたいに逃げ込む。夏用の布団が入っている布団袋のわきに身体を滑り込ませる。

 ん? おかしい。布団袋が妙な形に膨らんでいる。何? こわごわジッパーを引く。

 誰かいる! 目が合った! まさか、あの黒い影がこんなところに?

 いや、違う! もっと生々しい、禍々しいものだ! 

 地獄の使者より禍々しいものって何よ!?

 え?


 女だ。全裸の女だわ! なにこれ?! 誰なの? どこかで見たことがあるような顔……。


 ……。


 ……。


 今すべて思い出した。あの日、私は出張だと夫を(いつわ)った。そして会社に向かったと見せかけて自宅に取って返したのだ。夫のベッドの上にいた全裸の女……。今でも手に残るあの感触……。あの女の首、あの女の肌、あの女の叫び声、腕にかかるあの女の体重……。


そして背後から冷たい声……。


「小西ゆかりさん、ご友人の麻生由香さん殺害容疑で逮捕状が出ています。署までご同行ください。」

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