3 逃亡
近づくに従って、麓の街の全容が少しずつはっきりと見えてきた。
この世界では、ヴァルーシャの帝都から見て北方に行くほど気温が低くなっていく。そのあたりは俺のもと居た日本の状況とさほど変わらないように思われた。
季節というものが存在するのか否かは判然としないのだったが、北へ向かうにつれて肌寒さが増し、このあたりへ来るとはっきりと「寒い」と言ってさしつかえのない状況になっている。
麓の街は、名をハッサムという。
そこは巨大な山脈の麓のところにへばりつくようにして形成された「大都市」だった。ただ、都市とはいってもあの帝都のような立派なものではない。ずっと鄙びた、粗末なつくりの建物群が目をひいた。
周囲の野生動物から一般民を守るためだろう、都市の周囲には石造りの防壁が引き回されている。そこここには、やはり石造りの物見櫓が設置され、金属鎧を身にまとった歩哨が数名、立っているのが見えた。
全体の大きさは帝都とは比べるべくもなかったが、それでも十分に大きく、「都市」と呼称してもいいほどのものだった。
「まずは、大門で検問を受けます。あの近くにリールーを下ろしてください」
マリアの言葉を受けて、俺たちはほかのパーティーとともにそちらを目指して降りていった。
(さて。ここからだ──)
俺は密かに、自分の気を調えていた。
すでに、対象となる人物たちには十分に事前の相談はしてある。しかし、うまくやりおおせるには皆の息がきちんと合うことが必須だった。
リールーがほとんど翼の音も立てないで、見るからに冷たそうな固い土の地面に降り立った。俺はすぐにギーナを抱き上げて、その背から飛び降りた。マリアはしずしずと自分で降りてくる。
と、次々に下降してきたシャンティとマイン、プリンからもそれぞれのパーティーメンバーが降りてきた。
マインから降りてきたガイアがいつもどおりの惚けた表情のまま、片方の肩をぐるぐる回しつつこちらへ歩いてくる。その脇を、ちょこまかとミサキがついてきた。
「あ~。ちょっと、ごめんなさいよ」
リールーからやっと降り立ったマリアに向かって、ガイアはそう言ったかと思うと、ひょいとミサキを抱き上げて、あっという間にリールーに駆けのぼった。
「え……?」
マリアが怪訝な顔になってふり向いた時にはもう、リールーはぐん、と翼で空気をかいて飛び上がっていた。
その時、俺も初めて知った。
リールーが、これまでいかに「お遊び半分」に飛んで来ていたのかということをだ。
ひとつ瞬きをする間に、リールーの身体はもう数十メートルも上空へと舞い上がってしまっていた。彼女が飛び上がった拍子に、周囲をごうっと風圧が包む。マリアの軽い身体はそれに簡単に吹っ飛ばされた。俺はそれを予期していたので、最初から彼女の背後に回っていた。すぐにその体を受け止める。
それを見越して、ギーナも「緑パーティー」の女性三人も、とっくにずっと離れた後方へと退いている。
残された赤パーティーの面々も、口をぽかんと開けて飛び去っていくリールーを見送っていたが。
「なっ……。これは一体、どういうことだ? ヒュウガ殿!」
真っ先にそう言ったのは、赤パーティーのデュカリスだった。彼をはじめ、ほかの面々も早足にこちらに詰め寄ってくる。あっという間に俺とマリアは彼らに取り囲まれる形になった。
マリアもさっと俺から距離をとると、怪訝な目で俺を見やった。
「ヒュウガ様。……わたくしを、謀られたのですか?」
声音こそ穏やかだったが、その底には言い知れない冷たいものが潜んでいるのがはっきりと分かった。
いつもは謎の「にこやかさ」を保っているだけのその瞳の奥に、じわりじわりと燃え立つ何かを認めて、俺は「やはりな」という思いを禁じ得ない。
この女は、やはり俺たちの味方でも何でもないのだ。
「シスター。申し訳ございません。ですが、自分は決して、あなた様を謀ってなどはおりません。……実は、『赤の勇者』どのに頼まれまして。こちらを預かっております。どうぞ、お検めを」
言って俺は、ずっと懐に入れていた、とある物をマリアに差し出した。
それは、折りたたまれた羊皮紙だった。
中にはちまちまと、やや右肩あがりの丸っこい文字が連ねられている。もちろん、日本語の文面だ。
その内容は、大体こんな感じだった。
『シスター・マリアへ。
ごめんなさい。
でもあたし、もうこの勇者稼業には飽きあきしちゃった。
ここで看板は下ろさせてもらうから、どうぞ<闇落ち>にでもなんでも
しちゃってくれない?
残ってる男子たちについては、みんなどうとでも、
自由にしてくれていいからそう言っといて。
あ、ガイアだけは連れて行くけど、そこんとこは謝っといて。
あと、「これまでみんな、ありがとう」って。
じゃあね。
まっ、あとのことはよろしく~。
P.S.あんまり、ヒュウガのことイジメないでね~?
ミサキ 』
「…………」
俺は、マリアがその手紙をぐしゃりと握りつぶすのかと思った。だが、彼女はそうはしなかった。ただ氷のように固い笑顔のまま、すいとそれをそばのデュカリスに渡しただけだ。
「なっ……。なんと──」
デュカリスもマーロウも、それを一読して顔色を変えた。手紙は「赤パーティー」の他の面々にも順に回されていく。
「うわ。やってくれたぜ、ヒメってばよ」
ヴィットリオが、自分の短髪をくしゃっと掻きまわして苦笑する。
「え? ガイアさんだけ連れていくって、どういうこと……?」
テオが変な顔をして隣のアルフォンソを見上げると、
「いや。だから『そういうこと』なのさ。分かるだろう? テオ」
優しげな顔で苦笑して、美貌の男は少年の頭を撫でた。途端、少年の頬がぱあっと薔薇色に染まる。
隣では、最年少のマルコが何も言えないで不安そうに立ち尽くしていた。
「いやいや……。してやられましたな、ヒュウガ殿」
にっこり笑って俺を見たのは、ロマンスグレーのマーロウ。さらりと長い金髪をはらって微笑んでいるのは美貌のウィザード、ユーリだ。
「まあ、そんなことじゃないかとは思ってたんだ。姫殿下はなんのかの言っても、やっぱりガイアが一番のお気に入りだったんだからね」
「いや、しかし……」
まだ青ざめた顔で、事態を受け止め切れていない様子なのはデュカリスだった。
みなに一巡して戻って来た手紙に目を落としたまま、ただ絶句している。
「で? どうなさるんッスか、シスターは」
軽い感じでヴィットリオが水を向けると、自然、みなの視線はマリアに集まることになった。