9 怯懦(きょうだ)
「あ~。あれは、ね」
ミサキの顔が、また自嘲ぎみの笑みに歪んだ。
「ほら、あいつ。いたでしょ? 近衛騎士団の団長」
「ああ。フリーダ殿下のことでしょうか」
「そそ。あいつさあ、なんか最初のとき、めちゃくちゃあたしに突っかかってきたのよね。もちろん、理由はすぐにわかったんだけど」
(……なるほど)
それはそうだろう。
自分の恋人だったデュカリスが、ある日突然、とある女の「奴隷」にされた。その当の相手がこのミサキ。ましてや当時は、ミサキも大いに調子に乗って、「赤の勇者」としてあちらこちらで我がもの顔に振舞っていたはずだ。
それを知ったフリーダが、あの誇り高いハイエルフの女が、ミサキをどう扱うかなど火を見るよりも明らかだった。
「で、ちょっと対抗心を燃やしちゃったのよ。あいつ、みんなに『殿下』だの『騎士団長閣下』だのって当然のように呼ばれてるでしょ? もちろん本物の貴族のお姫様でもあるわけだからしょうがないんだけど。家じゃ間違いなく召使いやなんかから『姫様』なんて呼ばれてるだろうしさ」
うん、大人げない。
俺の表情を素早く読み取って、ミサキがさらに苦笑した。
「バカだったって、思ってるわよ。あれもこれも、今さらどうにもなんないけどさ。でも、最近になってやっと、わかってきたのよ。『みんなはNPCなんかじゃない。ちゃんとした人間だったんだ』って」
「…………」
「楽しければ笑うし、つらければ泣く。悩んで、迷って、苦しんだりする。みんな、あたしたちとなんにも変わらない人間だったんだ、ってさ。……特に、あんたたちに会ってからは、少しずつ……ね」
「……え」
俺は思わず目をあげた。
ミサキの視線とぶつかり合う。彼女の目は、気のせいか、今まで見たことのない色を浮かべているように思えた。
「うちの、最初の三人以外のみんな……特に大人チームね。『恋人がいたんじゃ?』とか『奥さんがいたんじゃ?』とか。年少チームのほうは『家族が心配してるんじゃ』とか。そういうこと、考えちゃったりして。……ま、遅いんだけどね!」
(まあ……遅いかもな)
そうは思ったが、俺はうなずくこともしないでただ黙っていた。
否定するのも肯定するのも、なにか違う気がしたからだ。
少なくともミサキは、あの男とは違う。最後まで大事なことに気付くことのできなかった、そしてまったく間に合わなかった、あの「緑の勇者」とは違うのだ。
彼女は少なくとも、気づくことができた。気づいてこうして、大きな悔恨の情を覚えているのだから。
「……ほんっと、バカよね」
背後の木の幹にもたれかかり、ミサキはなんの気なしにといった様子で夜空を見上げた。そうしていると何となく、あちら世界での彼女の姿が今の姿に重なってくるような気がした。
夜の公園。地味なスーツ姿の、疲れた顔をしたOL。不美人でこそないけれど、どこにでもいるような特徴のない顔だち。これといって見るべきところもない。そんな女。
その性格も災いして、仕事でもプライベートでも仲のいい人間のひとりもいない。仕事で疲れて帰っても、家には「おかえり」と迎えてくれる人もいない。孤独を囲って、自分に都合のいい夢を見せてくれるゲームだのネット小説だのにはまりこむ。
そしてまた、次の日が来る。会社にいく。一日多忙で、さんざん色々なことがあって、また疲れて家路につく。ただただ、その繰り返し。
俺は社会人になったことはない。
ないが、親を見ていればある程度、分かることもある。
ひとりで生きていくことに疲れ、すっかり飽きて、人間不信にも陥ったミサキのような女。あちらの世界には、彼女のような人がいったいどれほどいるのだろう。
そういう人たちが、リアルで満たされない思いの多くを、様々なエンターテインメントでこっそりと解消しようとする。それはごく自然なことだろう。俺自身、そういう人々を否定するような立場でもない。誰に迷惑を掛けているのでもなければ、それだって個人の自由の範疇なのだから。
ただそれは、飽くまでも「相手に人格がなければ」という条件つきでのことだ。
デュカリスに限らず、ミサキの他の「奴隷」の男たちにも大切な人がいたかもしれない。ミサキという「赤の勇者」に<テイム>さえされていなければ、彼らは自分を待ってくれている大切な人たちと、平穏に暮らせていたのかもしれないのだから。
俺がつらつらとそんなことを考えているうちに、ミサキはいつの間にかじっと俺を見つめていた。
「……たださ、ヒュウガ。バカはバカなりに、それでも大事なことがあんのよ。それを言っておきたかったの」
「はい」
「みんながここまで、<テイム>したからついて来てくれたんだってことは分かってるの。あたしにそんな魅力、ないのなんて知ってるし。みんなが『好き』って言ってくれるのも、それがあるからだって」
ミサキはそこで、にこっと笑った。
俺は胸を衝かれて黙りこんだ。
それは不思議な笑顔だった。透明で、底意のない顔。昔この女が「少女」と呼ばれる年だったころの顔が、その向こうになんとなしに透けて見えるような気がした。
「分かってるけど、もうあたし……みんなのこと、大好きになっちゃってる。そこらへんの気持ちは、あんたにだって分かるわよね?」
「……はい」
俺の脳裏に、今朝がた別れたばかりのレティとライラの笑顔が──そして、泣き顔が──一瞬だけ閃いた。
ミサキはまっすぐに俺を見ている。
「つらい思いとか、ひどい怪我とか。みんなには絶対にさせたくない。みんなをひどい目に遭わせたくないの。ちゃんと無事に、恋人のところや家族のところに返してあげたい。……そりゃ、本当のことを言っちゃえばさ。あたし自身が魔王と戦うのがめちゃくちゃ怖いからっていうのも、あるんだけどさ──」
「…………」
「でも、そんなあたしを守って、ガイアやデュカが、マーロウやユーリが、テオやマルコが傷ついたり……し、死んだりなんて、絶対イヤなの」
「……はい」
「だから、もし……そういうことになりそうだったら。あたし、シスターに言うつもり。『あたしのこと、闇落ちさせてよ』って」
「……!」
息をのんだ。
俺は絶句して、ミサキの顔を穴のあくほどに見つめ返した。