2 緑の剣
「ふ、ざ、けるんじゃ、ないにゃ──!!」
男の不埒極まる怒号を、レティの叫びが打ち消した。
レティはもう、ぱんっと高いジャンプをして俺たちの一番前にとび出ている。
もはや怒り心頭の顔で仁王立ちだ。
「さっきから聞いてれば、なーにをゴチャゴチャ言ってるにゃ。街の人たちにイジメられたのは、ぜーんぶ自分のせいじゃないのにゃ! ぐだぐだぐだぐだ、おっとこらしくなーい!」
「なっ……なにを──」
「あんな小さな女の子たち、無理やり<テイム>なんかしやがって。<テイム>が切れたときあの子たち、あんなに『いやにゃー!』って泣いてたじゃにゃいか! あれでぜーんぶお見通しにゃ!」
ライラとギーナがうんうん、とそれぞれに頷いている。いやしかし、「いやにゃー」はいくらなんでも違うと思うが。
「そんなもん、人間のクズにゃ。レティは猫にゃけど、猫だってそのぐらいはわかるにゃ。あんたはサイテー、サイアクのエロ勇者にゃ。レティのご主人サマとは大違いにゃー!」
「く──貴ッ様……!」
一瞬絶句したらしい勇者は、奥歯をばりばり言わせんばかりにして目を剥いた。もたもたと大剣を鞘から引き抜き、どうにか構える。そのままレティをにらみつけ、憤然と食ってかかった。
「てめえだって同じだろうが! その勇者の奴隷のくせに、えらそうなことを吐かすんじゃねえ! もともとそいつを好きでもなんでもなかったくせに、今じゃ大喜びでそいつのベッドに上がり込んでいやがるんだろうが、この腐れ尻軽のメス猫がぁ!」
「にゃっ……、にゃにゃ……!?」
レティが全身をわなわなと震わせる。その紅い尻尾が、ちょうど猫が興奮したときそのままにぴんと立ち、毛を逆立てていた。指先からは、例の危険きわまりない爪がにょっきりと飛び出している。
「ゆっるさーん! 許さないにゃ! ご主人サマは、ヒュウガはお前なんかとぜんっぜん、違うもん! 絶対ちがう! レティ、ご主人サマ大好きにゃ。絶対絶対、ドレイでなくってもそうだったもん!」
「そ、そうよっ!」
レティのそばに駆け寄って、ライラも叫ぶ。
「ヒュウガ様はとっても素敵な方よ。あたしだって、たとえ奴隷じゃなくたって、ヒュウガ様のことなら大好きになってたはずよ。あんたみたいなのと一緒にしないで!」
(ライラ。レティ──)
俺は知らず、彼女たちの言葉に胸を締め付けられていた。
いや、違うだろう。本当に最初からこの「青の勇者」云々と関わりなく彼女たちと出会っていたとしても、決してこんなことにはなっていないはずだ。むしろ彼女たちは眉を顰めて、早々に俺から姿を隠しただろう。あの街で、人々が少女たちをこの男から隠していたように。
レティはすでに臨戦態勢だ。いつもの軽いフットワークで右に、左にと跳びはねながら、どこかで見たことのあるようなジェスチャーで相手を誘う。つまり、上に向けた人差し指をちょいちょいと動かした。
「文句があるなら、掛かってくるにゃ。どうせなら拳で分かりあうのにゃ。レティ、存分にお相手するにゃよ?」
「ふん。ぬかしたな、猫娘が。……おい!」
男は何を思ったか、そう言うなりひょいと後ろを向いた。
そこには彼の奴隷である女たちが立っている。三人のうちの二人は、ちょうどギーナと同じような出で立ちに見えた。あと一人、年下らしい者だけは一般的なチュニック姿だ。
三人とも鎧などを着ていないところを見ると、どうもみな魔法職クラスであるらしい。
男の目線に促されて、中のひとりが一歩、前に出てきた。長い黒髪をした、これも非常な美貌の人だ。ギーナのような杖は持っていなかったが、すでにその手が炎の玉に包まれていた。どうやら炎系の魔法の使い手らしい。
女は不思議なことに、自分の主人を罵倒されたことに対する怒りなどは見せていなかった。その表情はごく事務的で冷たいもので、ただ「主から命じられたので仕方なく」と言わんばかりにも見えた。
と、背後から小さく呪文が聞こえた。
「<耐火障壁>」
ギーナの声だ。その途端、俺とレティ、ライラの体が赤い靄に包まれた。これがシールドなのだろう。特に熱いといった感覚はない。これである程度の炎熱攻撃を防げるようになるらしかった。
と、向こうの魔術師が両手をあげた。彼女の手を包んでいた炎が、一気に十倍ほどに膨れ上がる。
「<炎熱火球>!」
高らかな詠唱とほぼ同時に、その炎の玉からいくつもの火球が飛び出した。まっすぐにこちらへ突進してくる。ちょうど、野球やテニスボールぐらいの速さだろうか。
「甘いにゃ!」
ぱっと飛び出したレティが軽々とジャンプしながら、あっという間にパンチとキックで叩き返す。俺は大剣を鞘から抜いて構えつつ、彼女の後ろから前進した。
「ライラは下がれ。ギーナのそばに!」
「は、……はい!」
さすがにこの戦闘に参加するのは無理と踏んで、ライラは素直に後退してくれる。ギーナとマリア、リールーのいる場所まで下がり、しかし相変わらず勇ましい顔でお玉を構えている。
と見る間に、レティはとっくに相手の女の目の前に到達していた。その顔に触れるほどのところで、例の凄まじい速さのパンチを繰り出している。レティの鋭いキックがすり抜けると、女の黒髪の一部がぷつりと切れて宙に舞った。
「退くにゃ! キレイなお顔、ザックザクになるにゃよー!?」
「っく……!」
明らかに前衛ではない魔法職の女だ。レティの脅しは強烈に効いたようだった。ましてやあれほど美しい女である。彼女はすうっと青ざめると、へたへたとそこにへたりこんだ。すっかり腰が抜けたらしい。
すかさず、背後のギーナが呪文を唱えた。
「<草木呪縛>!」
途端、周囲の下草がしゅるしゅるっと長くなり、女の体をぐるぐる巻きに縛り上げてしまった。
「きゃああ! うぐっ……」
悲鳴をあげて地面に転がった女に向かって、緑の男は叫び散らした。
「この女ぁ! 何やってやがる……!」
その場で地団太を踏んでいる。
「ったく、いざって時に役に立たねえクソ女が! ほれ、次はお前だ! さっさと行け!」
「っきゃ……!」
ぐいと押し出されたのは、ウェーブした長い金髪をもつ、やはり美しいエルフの女だった。
が、レティは電撃魔法使いらしいその女が手のひらから火花を生み出すのなど待ってはいなかった。見ればとっくにその背後に回り、背中を軽く蹴り飛ばしている。すかさず下草がまた、二人目の女の体の自由を奪った。
緑の勇者は冷や汗をかいて、きょろきょろと周りを見回した。
「くっ……くそ! 次はお前だ、行けぇ!」
「もうやめろ!」
俺は叫んだ。やっとレティを追い越して、相手の間合いのすぐ外に立つ。
「これ以上見苦しいことをするな。女たちより、まずはあんたが俺と戦え。一対一だ。それが筋というもんだろう」
「なっ……、なにを……!」
「俺を憎んでいるのはまずあんただ。いくら彼女らが奴隷だとは言え、そういう戦い方は卑怯千万。今からでもいい。俺と真正面からやり合えと言ってるんだ、緑の勇者どの」
「こっ……小僧め……!」
男は両眼をぎょろぎょろさせて、「ウン」と剣を握った腕に力をこめたようだった。
──上がらない。
剣は切っ先を地面に半ば刺したまま、ほとんど微動だにしなかった。
「ん? ……くそっ、ちくしょう……!」
上がらない。剣はぴくりとも動かない。
先ほど鞘から抜くことは出来たはずなのに、なぜ今になってそうまで動かすこともできないのだろう。
と、俺の脳裏に、マリアの台詞が甦った。
『こちらへ来て大喜びしているような方ほど、扱いにくいようですわね』──。
(まさか……)
暗澹たる気持ちになりつつ、俺は自分の得物を握る手に力をこめた。
これ以上、無様なものを見たくなかった。
「来られないなら、こちらから行くが。よろしいか」
「ぬ……むむっ。ま、待て! いま持ち上げる、すぐだ! くそッ……!」
いや、無理だった。男の緑の大剣は、もはや古よりそこにあった彫像か何かのようにして、決して動くことはなかった。俺は何となく、昔読んだ円卓の騎士、アーサー王の物語を思い出した。
その器量と、資格のある者にしか抜けぬ剣。
この世界でも、剣にはある種の意思のようなものがあるのだろうか……?
そうこうするうち、いつのまにか三人目の奴隷の女の体にもギーナの下草の戒めが絡みついている。女はほかの二人と同様、何の手もなく地面に転がった。
緑の勇者は追い詰められた。