1 皇帝ヴァルーシャ
謁見の広間の巨大な空間に、青年の声は凛と響いた。
それが皇帝の声だと理解し、言われた通りに顔を上げる。
(……これが、この国の皇帝か)
はるか高みの壇上にいるその男は、すらりとした美貌の青年だった。
雪のように白く、長い髪。白髪だと言うのではなく、恐らく銀髪というものだろう。襟の高い軍服にも似た、王族としての正装らしい出で立ち。遠目で瞳の色までは分からないが、背にはその髪の色にもよく映える、白く長いマントを流している。
こちらでの美意識のほどはあまりよく知らないが、まあ間違いなく「美青年」と評して間違いのない姿なのだろう。艶やかな銀髪の間からすっと伸びた耳が見えるところからして、男はマリアと同じハイエルフだと思われた。
やがて、どこか悪戯めいたその目を細めて、青年はくくっと低く笑った。ちょっと女のようにも見える艶めいた仕草で、白い手袋をした指先が口元を覆っている。
「いかにも『これが皇帝か』と思っている顔だな、そなた。正直そうで中々よろしい。だが恐らく、それは間違っているだろうよ」
「は……?」
眉を上げると、相変わらず皮肉げな笑みを片頬に乗せたまま、青年はマントをひるがえして背後に置かれた玉座についた。いかにも気軽なやりようで、ひょいと足など組んでいる。
「そなたならば問題なかろうと、今日はこれにしておいたが。例の、緑だったか? あのろくでなしの勇者殿を相手したときには、余はまったく違う格好だったのさ」
「は……。それは」
自分ごときが勝手に皇帝に質問するなどは、不敬の廉で罰せられる可能性もある。しかし俺は思わずそう訊き返していた。
皇帝は何を思ったか、さらに皮肉げな表情になり、軽くふん、と鼻を鳴らした。
「そなたもすでに知っていよう。あやつは無類の幼女好きであったゆえな。さすがの余も少し、嫌悪の情を隠すのが難しくてな。……で、醜怪なじじいの顔で出迎えてやったのよ。ざまを見ろだ」
(じじい……?)
それは一体、どういうことか。
この皇帝は、相手によって自分の姿を変えられるとでも言うのだろうか。
変装? ……いや、下々の者に会うために、卑しくも皇帝陛下ともあろう者がそんな手の込んだことをするとも思えない。
では、この言葉の真意はなんだろう。
首をかしげたつもりはなかったが、皇帝はそれを見通したような目をして、またもやくくっと喉奥を鳴らした。
「まあ、楽しみにしておくがよい。種明かしは、後ほどそこの『シスター』にでもしてもらえ。こちらはさっさと仕事を済ませてしまいたいのでな」
「は……」
「これでも余は多忙なのだよ。それこそ、日々、山のようなヤボ用に埋もれているものでね」
(ヤボ用……か)
それはこの国の政務に関する細かな視察や書類仕事のことだろうか。はたまた、それとはまったく関係のない、王族のお遊びに類する種々雑多の行事のことか。そのいずれであるのかによって、この皇帝の帝王たる資質が左右されることだろう。
が、どちらであるにせよ、今の俺には当面、関係がない。こちらとて、忙しいのはまったくご同様であるからだ。俺は表情を変えないままそんなことを考えて、沈黙のまま、すいと頭を垂れただけだった。
と、これまで皇帝の背後に影のようにして控えていた高位の者らしい老年の文官が、四角い銀の盆を捧げて皇帝に近づいた。そこから羽根のついたペンを取り上げ、皇帝がさらさらと何かをしたためる。恐らく上に書類が載っているのだろう。
皇帝の謁見は、それで終わった。
「忙しい」とぶつぶつ言うわりにはごく優雅な仕草で立ち上がると、皇帝はもう、あとも見ないで退出していった。
先ほどの老年の文官から補佐らしい若い文官に文書が渡り、それでやっと、その文書はこちらへ運ばれてきた。
要するに、皇帝のお墨付きということらしい。いちいち胸の宝玉を見せなくとも、これがあればどこの街や村に入ることもできるし、そこでもっともランクの高い宿でも部屋を空けてもらえるようになるのだと。
「では、青の勇者様。こちらへどうぞ。王宮内に、今宵のお部屋を準備してございますので」
先ほど俺たちを案内してきた文官に連れられて、俺たちはまたもと来た道を引き返した。俺は早速、歩きながらもマリアに質問をぶつけてみた。
「シスター。先ほどのお言葉のことですが。陛下は相手によってお姿を変えられるのでしょうか」
「はい。先ほどおっしゃった通りです。皇帝陛下は、周囲のお抱え魔術師たちにお命じになり、いつも違ったお姿をまとわれるのです。ご自身がちょっと悪戯好きだというのも本当ではありましょうけれど、相手によっては素顔を知られてはまずい場合もございますので」
「……ああ。なるほど」
「ちなみに、あそこにいた文官様がたもそれら<魔術師>としての技能を持っておられます。それから、ヒュウガ様のお目には見えなかったでしょうけれど、ほかにも何人も術者が姿を隠したままであの広間にひそんでおりました」
「えっ……」
そうだったのか。
なるほど、随分と少人数での会見だと思ったらそういうことだったわけだ。
「実は今も、わたくしたちの周りにおられますのよ?」
「え──」
「ほ、ほんとにゃ!?」
俺だけでなく、ライラもレティもギーナまでも、少し怖々と周囲を見回す風になった。マリアはころころ笑っている。
「ええ。当然でございましょう? 姿は見せておられませんが、わたくしたちがこの王宮に足を踏み入れた時点から付かず離れず、ずっと監視の方がついて来ておられます。いずれも名のある魔術師の方々でしょう。もしも勇者様に陛下を害する意でもあった場合には、即座に対応できるようにしているわけです」
「…………」
「前から申しています通り、あなた様は魔法耐性が非常に低い。ですから複数の魔術師から同時に、また至近距離で術を掛けられればひとたまりもありません。足を床に縫い留められ、気を失わされ、体を毒で侵して肉を腐らせた上、電撃魔法によって粉々にするのも簡単なこと。あっという間に息の音を止められることでしょう」
「そっ……、そういうことは早く言いなよ!」
思わず叫んだのはギーナだった。
ライラとレティも、誰もいないとしか見えない自分たちの周囲を恐ろしげに見回して、なんとなく体を寄せ合うようにしている。そんな女たちを見て、マリアは優しい笑顔で言った。
「ご安心ください。敵意のない者には何もなさっては来られません。基本的に、王宮内での魔法の使用は禁じられてもおりますしね。……ギーナさん、あなたもですよ? 私闘はもちろん、御法度です」
「え? あ……。わ、わかってるよ──」
ちらりとマリアが目をやった先では、ギーナが胸元に手をやって何かつぶやこうとしていたらしかった。何かの防御魔法でも詠唱しようとしていたらしい。
「術者様がたがわたくしたちを警戒するのは、例外中の例外です。逆に言えばそれだけ、陛下とて勇者様の能力を恐れておられる、とも言えるわけです」
なるほど。確かに一国の王が一勇者に<テイム>でもされては困るわけだ。たった一年のこととは言え、即座に政治の混乱を招く事態に発展する。勇者の周囲にこうして<魔術師>を潜ませるのは、彼らなりの保険なわけだ。
と、そんなことを考えながら大回廊を進んでいると、前方から軍服に身を包んだ十数名ほどの一団が歩いてくるのが見えた。見るからに、規律を守ったきびきびとした歩き方。周囲の文官や下働きの者たちとは明らかに異なる姿だ。
「近衛隊、聖騎士団の皆さまです。……みなさま、こちらへ」
案内役の文官が小さな声でそう言うと、俺たちを廊下の隅へいざなった。
俺たちは彼とマリアを見習い、そこで先ほどと同じようにして床に片膝をつき、騎士団に向かって頭を垂れた。
マリアが頭を下げたまま、補足するようにさらに言う。
「聖騎士団、団長は陛下の姪御さまであらせられます。……どうか、くれぐれも粗相のなきように」