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23 深淵


 俺は口元をどうにか拭うと、もはや這うようにして子供のほうへ近づいた。

 子供はもう、目の前にいる。

 しゃくりあげ、ぼろぼろ涙をこぼして泣いているばかりだ。


「安心してくれ。……どうか、信じて。前と同じような目には、もう遭わせたりしないから」


 たったそれだけ言うのにも、随分と体力を使ってしまう。抑えようと努力するのだが、どうしても呼吸が荒くなった。

 俺はそのまま、じっと待った。そうするほか、もう何もできなかった。

 たったの一秒が、何時間にも思えるほどの時間だった。

 やがて、子供は恐るおそる目を上げた。


「どならないの……? ほんとう?」

「ああ」

「こわいこと、もうしない……?」

「ああ」

「もう、おなかの中にいるあいだにころしたりしない? ぜったい、しない……?」

「ああ、しない」

「ほんとうの、ほんとうに……?」

「ああ。約束する──」


 言って俺はゆっくりと、本当にゆっくりと子供のほうに手をのばした。

 相手を怖がらせないよう、できるだけ笑ってみせながら。本当は、もう相手の顔すらよく見えてはいなかったけれども。


「だから……おいで」


 次第に薄れていく意識を励ましながら、俺は必死に腕をのばし続けた。

 やがて子供が、ゆっくりとこちらへ向かって手を差し出した。それはまるで、野良犬がひどく用心深く人に近づく時のようだった。

 お互いの指先が、ほんのわずかに触れ合う。

 俺は、顔を歪めてべそをかいている小さな子供の手を握った。そのまま引き寄せ、ゆっくりと抱きしめる。


「……もう、いいんだ。泣かなくていい」


 小さな手が、俺のボロボロになったマントの端を握りしめてくる。


「ほんとう……? ほんとうに、ほんとう、なの……?」

「ああ」

「ウソだったら……ゆるさないよ」


 子供の目が、一瞬ぎらりと(うたぐ)り深い光を湛えて俺をにらみ上げた。その目はどこまでも澄んでいる。俺の中にほんのわずかのごまかしでもあろうものなら、決して許さぬと言わんばかりだ。


「こんどこそ、ぜんぶ、ぜーんぶ、みんなころしちゃうよ? ぼくたち」

「ああ。もしも嘘だったなら、その時にはどうとでも、お前の好きにしたらいい」

 子供はちょっと黙り込んで、俺のマントをもじもじと(もてあそ)ぶようにした。

「ほんとに……パパになってくれるの? ぼくの、やさしい……パパとママになってくれる……?」

「ああ」


 そうするうちにも、子供の中にいるのだろう無数の魂が、ひょいひょいと目の前で目まぐるしく入れ替わるのが分かった。


「あのね、あのね。ぐるんぐるーんってして、『たかいたかーい』ってしてくれる? あれ、だいすきだったの。……そのあと、すぐに死んじゃったけど」

 今度は少女のような声。

「ママとケンカしない? こわいこえ、出さない?」

 今度は少年の声だ。

「ママをたたかない? いじめない……?」

「ああ」

「うそじゃ……ないよね?」

「嘘じゃない。……それでも、もし万が一、俺が約束を守れなかったなら──」

 俺はそこで、まっすぐに子供の顔を見た。

「俺の命はくれてやる。……約束する」


 途端、子供の体ががくがくっと震えた。

「ひぐっ……」

 喉になにかが詰まったように、ひきつった声が漏れてくる。大きな碧い瞳に大粒の雫が盛り上がって、一気に頬を滑り落ちていく。

「ひいいいっ……」

 やがてその声が、遂にサイレンのような音に変わっていった。

「うえっ……うえっく……ふわあああんっ……」


 子供の体がまばゆい光で耀きはじめる。

 と、抱きしめていたはずのその体が、急にこれまでの質量をなくし、ぐにゃりと変形したのがわかった。

 両手で抱えこめるほどの光の(たま)になったそれを、俺はそうっと抱きしめた。


(温かい──)


 不思議なことに、それはまるきり、幼子の体温のようだった。小さな生き物を抱いたときのようにほかほかしている。それは、なんとも幸せな温かさだった。

 顔を寄せて耳を澄ますと、光の球はとくんとくんと、ちょうど心臓の鼓動のように息づいている。

 それは、命そのものだった。

 これから生まれ出ようとする命の集まり、そのものだった。


 と、次の瞬間。

 光の球が、ぱっと無数の光の粒になって霧散した。

 

(これは──)



──あはは……。

──うふふふ……。



 輝く蛍の光のようになった粒のひとつひとつが、幼児が機嫌よくきゃっきゃと笑うような声をあげながら、次々に空へ舞い上がっていく。



天網恢々(てんもうかいかい)

 天から轟くような声が響き渡った。

《重畳である。人の子よ》

 古のドラゴンだった。


 それは深い悟りに至った老爺(ろうや)が、ひだまりの中でさも愉快げに笑っているかのようだった。

 俺は、もはやほとんど見えぬ目で、思念の流れてくる方を見上げた。


《伝説のドラゴン殿。どうか、お願いです。この者との先ほどのお約束を……お忘れなきよう。どうかそのお言葉を、決して(たが)えられませぬよう。この者たちの行く末を、どうかなにとぞ──》

《無論である。懸念は無用》


 温かくもどっしりとしたその思念は、俺をも温かく包み込み、無上の安堵をもたらすかのようだった。

 俺は、跪いて上空を見上げたままの姿で目を閉じた。

 ゆるく両手を広げる。


(良かった……)


 これでいい。

 これでもう、大丈夫だ。

 これでもう、マリアと贋物(がんぶつ)の「創世神」によって、この地の人々の安寧が(おびや)かされることはない──。


 そう思った途端。

 急に目の前がすっと暗くなり、上も下も分からなくなった。


「ヒュウガ……!」


 あれは、ギーナだ。

 そう思ったのを最後に、俺の意識は遠のいた。

 そうして、まるで吸い込まれるようにして、真っ黒な深淵の果てなき奥底へと沈んでいった。



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