10 貧民窟
ギーナが連れて行ってくれたのは、明らかに貧しく、雑然とした界隈だった。
表通りに面していくつも軒をつらねている建物の店構えも、さきほどの市場のようなあけっぴろげで明るいものとはまったく違う。昼間よりは夜のほうがにぎやかになるであろう界隈であることは、一見して俺にも分かった。
要するに、このあたりに集まっているのはいわゆる「夜の店」なのだろう。踊り子がいて女たちが酔客の相手をするような店、さらには娼館などがごちゃごちゃと立ち並ぶ地域、ということだ。世界はまったく違うのに、醸し出す雰囲気がもとの世界の繁華街とよく似ているのが、なんとなく皮肉に思えた。
まだ昼間で開店前の時間帯なのだろう。店の前を箒で掃いている腰の曲がった老婆も、不思議なぐらいに派手な柄の入ったスカーフを巻いている。こう言っては何だが、お世辞にも似合っているとは言えなかった。もしゃもしゃに乱れた白髪は紫やピンクに染められている。なんとも独特ないで立ちだ。
ギーナはごく親しげな様子でその老婆に声を掛け、軽い足取りでその店の裏側の小路に入っていく。いったい何の臭いなのか、饐えたような奇妙な臭気が、道にも壁にも染みついているようだった。
マリアとレティは平気な顔だが、ライラだけは怖そうに周囲を見回し、なんとなく俺に寄りそうようにして歩いている。
やがてやっと、ギーナはとある貧しい小屋のような建物の前で足を止めた。
「こちらですわ」
ハナと呼ばれた少女が「お母さん!」と呼ばわりながら小屋の扉を開けて中に走りこんでいく。
ギーナについてそこへ入ると、そこは薄暗いたった一間の部屋だった。昼間だというのに室内は暗く、壁の上方にある小さな四角い明かり取りだけがぼんやりと中を照らしている。室内にはごく限られた生活用品だけがある、という感じだった。
少女は奥に置かれた粗末な寝台の上にいる、やせ細った女性にしがみつき、すでにわんわん泣いていた。女性は痩せた腕で彼女を抱きしめ、愛しくてたまらない者にするようにしてその髪を撫で、同じように泣き咽んでいるようだった。
「ありがとうございました。本当にありがとうございました、勇者様……」
大体の事情をギーナから聞き取って、ハナの母親らしい女性は寝台の上で頭をこすりつけるようにして俺たちに礼を言った。あとは声にもならず、ただ嗚咽をこらえている。
俺たちは一様に胸の塞がれる思いになりつつ、少し女性と話をした。
「このところ、長く患っておりまして……。最近では起きるのも難しくなり、つい、ハナにおつかいやそのほかのことをお願いしていたのですが。それが、いけなかったのです……」
女はずっとハナの小さな体を抱きしめたままそう言った。そうこうするうち、ハナはあの「緑の勇者」に目をつけられ、例の<スレイヴ・テイム>の餌食になってしまったということらしい。
聞けば女はギーナの同業者ということだった。ギーナは先ほどの表の店で、酔客をもてなしたり、踊り子をしたりしているのだそうだ。
ひと通り話を聞いてから、俺は隣で相変わらず謎の微笑みを浮かべたままのマリアを見た。と言うか、ここまで聞いてもこの女が何を言い出す風でもないことが、なんとなしに癪に障った。
目の前にこんな気の毒な病人がいるというのに、なぜこの女は自ら「そうしよう」とは言いださないのだろう。俺は仕方なく、自分から口を開いた。
「シスター。お願いがあるのですが」
「……そうおっしゃると思いましたわ」
くすっと微笑むその顔に、邪気は微塵も感じない。しかし横にいるライラもレティも、ちょっと変な顔をしてこのシスターを見つめている。それはそうだろう。明らかに<治癒>の魔法をもちながら、ここで何も言わないなんて。
なんとなく底意地が悪いと思うのは、俺の性格のせいばかりではあるまい。
マリアはゆっくりと寝台に近づくと、俺のほうに振り向いた。
「もちろん、わたくしの能力でこちらの方を治癒することは可能です。……ですが、対価はどうなさるのです?」
「対価って、シスター……!」
とうとう我慢できなくなったように、ライラが叫んだ。
「何をおっしゃっているんですか? この方たちを見れば、そんなこと──」
「ですが、これは仕事です。ハイド村にいた時とは違うのですよ。今のわたくしは、これを慈善事業として行っているのではありません。そして、仕事には当然、それに相応しい対価を求めてしかるべきです」
「そ……れはっ、そうですけどっ……!」
「もしもわたくしが無報酬で誰かを治癒したという噂が流れたらどうするのです? 『それならどうして、うちは無料で診てもらえないのか』と、ご不満に思う人が出ないとおっしゃるのでしょうか。『彼女は治療できて、どうして自分は治してもらえないのか』と言う人は、ただの一人も出るはずがないと? こちらの方々が恨みを買うなどして、かえってご迷惑になるとは思わないのですか?」
「あ、う……」
「何より、そうなりましたら、わたくしたちの路銀を稼ぐことは今よりずっと難しくなりますでしょう。お供の者も増えたことですし──」
と言ってマリアが見た先にいるのは、「自分には関係のない話」とばかりに、明らかに話を半分も聞いていなかった猫娘、レティだ。本人はその視線に気づいてはじめて、「ん? にゃに?」ときょとんとした目を向けてくる。暢気なものだ。
そうだ。こいつは大食らいだ。こいつがいるために、今後さらに食費がかさむことは目に見えている。
「まあ、ヒュウガ様が今後、勇者様としての特権を大いに行使してくださる、とおっしゃるならば別ですが──」
マリアは飽くまでも優しい微笑を崩さない。そのままさらさらと、さも当然かのように紡がれる言葉の数々を俺は呆然と聞いていた。
(なにを、言ってる──)
マリアは一歩、俺に近づいた。優しげな笑顔はそのままだ。だが、その笑顔が何か恐るべきものを孕んでいる気がして、俺はその顔を凝視した。
つまりマリアは、こう言いたいわけだ。
ここでこの女性を治す代わりに、俺に例の「特権」を行使しろと。
道々、宿に泊まるにしろ食事をするにしろ、「俺は勇者なのだからすべてタダで提供しろ」と、店の人たちに申し渡せと。
(……それは、御免だ)
俺はぐっと拳を握り、まっすぐマリアを見返した。
「申し上げたはずです。自分はこの特権を行使するつもりはありません。今後も、ずっと」
「強情なお方ですわね。まあ、そうおっしゃるだろうとは思っておりましたけれど」
マリアの表情は崩れない。むしろ、今までよりもさらに楽しげな顔になる。
「さて、どうしましょうかしら」と言わんばかりに、ひょいとまた可愛い仕草で小首をかしげた。
と、その時だった。
「……ちょっと待ちなよ」
黙って事の成りゆきを見ていたギーナが、ここで初めて口を挟んだ。